Another Satan



Another Satan





「地上は、美しいな」 白く輝く城のテラスに立ち、男は地上を見下ろした。 雲より高いこの天界からうかがい知れる地上の様子は多くはないが、 それでも、群生した森や、大地を割って走る川、白く雪化粧をした山々などは、 まるで地図でも見ているように、目視しうる。 地上高くに浮遊する天界にあって、さらに天に近い場所にそびえたつこの城は、 畏怖の証として、天空城、と呼ばれている。 そして男は、この城の主である。 天界最強の将軍と恐れられ、その剣の腕一つでセンサスを率いる、武勇の人でもある。 波打つ銀色の髪が浅黒い肌にからみつき、そしてその髪の隙間を縫うように、 二つのねじれた角が天を刺すように生え揃っている。 体長は3メートルを超さんばかりの大男で、天界では、珍しいことでもないが、 男からにじみ出る威厳のようなものが、この男をさらに大きく見せていた。 「この荒廃した天上と、比べるべくもない。 見よ。今日も地上の緑は、冴え冴えと青く輝いておる。 まるで、お前の瞳のようではないか」 男は、鉤爪のように鋭い甲冑の指先を、地上へ向けた。 その隣に、彼の身長の半分ほどしかない小柄な影が寄り添う。 「私は、あの青さが、少し恐ろしくもあります。 あのように美しき自然も、地上人は省みようとしないのですから。 徐々に汚されていく緑を見るのは、苦しゅうございます。 まるで、彼らの業の深さを見ているようで……」 抜けるような白い布で織られたドレスを引いて、髪の長い女性が、彼の横に並んだ。 落ち着いた仕草と口調だが、まだ妙齢と言ってもいい年齢である。 髪は太陽を透かしたような桃色で、まるで生き物のように風になびき、 瑞々しいほどの生命力にあふれている。 民には豊穣の女神、とあがめている女性だ。 それはその美しさと力だけから来る呼び名ではない、と男は知っていた。 その優しさと慈悲深さゆえに、彼女は豊穣の女神の名を冠しているのだ。 しかし、テラスから地上をうかがう女神の瞳は、複雑な色を帯びていた。 「だからこそ、天地融合が必要なのだ。 あの自然と、我らの扱う天術が融合すれば、世界は生まれ変わるだろう。 それは、最初のうちこそ混乱を呼ぶかもしれぬ。 だが、後世のためには、それこそ、必要な混乱だったのだと知れよう。 今のままでは、衰退してゆくことしかできぬ。 我らも、彼らもな」 男の答えに、女神はそっと睫毛を伏せた。 「ですが、私は、心配なのです。 本当に、地上人と世界を共にすることが、正しいことなのか…」 「イナンナ」 男は、イナンナと呼ばれた女性を抱き寄せた。 「案ずるな。お前は、俺が守ってやる。この身に変えても」 力強い男の胸に頭を寄せながら、イナンナは、曖昧にうなずいただけだった。 薄っすらとした憂鬱が、その新緑のような瞳に宿っていた。 不意に、ぐにゃりと、男の――男の視点を借りている――視界がねじまがった。 夢と夢の間の継ぎ目のように、曖昧に、情景が移り変わって行く。 足が立つ感触を取り戻したとき、まず感じたのは、痛みだった。 男の胸の中央から、黒い剣が生えている。 おおよそ現実感が希薄な光景だったが、痛みは、本物だった。 黒き剣は、機械的な口調を幻想的な音色で響かせ、 何事か、言葉をつむいだ。 男は、信じられない思いで、ゆっくり振り返った。 自らの身長ほどもある剣の柄を握っているのは、男のよく知る、女だった。 「イナンナ…」 静かな絶望の声が、男の口から、熱血とともに溢れた。 女が血の伝う柄から手を離し、2,3歩下がる。 その目は、男の愛した緑の瞳は、恐怖からか、後悔からか、潤んでいた。 男の心は、このとき、砕け散った。 絶望と憎悪が男の心を覆い尽くす。 「俺の望んだ世界…世界は!」 男は黒き剣をへし折り、その刀身で、真っ直ぐ女の体を貫いた。 同時に、男の生命の灯も、消えうせた。 体が屍へ、灰色の彫像へ変わり行くのを感じながら、 陽光のように光り輝く球体へ、意識は吸い込まれていった。 そして、光へ吸い込まれた意識は、もう一つ――。 (世界が無くなれば、絶望など、産まれなかっただろうに) 光は一瞬燃え盛り、天上を覆いつくした。 そして光が収束した後、天上には、男の城を残し、全てが消えうせていた。 全てが終わった後も、光は、まるで何事もなかったように、その場でひっそりと輝き続けていた。 「世界が、無くなれば…」 ルカ・ミルダは、あたたかなベッドの上で目覚めた。 レースのカーテンが付いた出窓から、朝の眩しい光が差し込んでいる。 ルカは羽毛の詰まった枕から頭を上げて、眠い目を擦った。 そこでルカは、はじめて、自分が涙を流していることに気が付いた。 「…なんの夢、見てたんだっけ…」 そして、先ほど見た夢の内容を、思い出そうとした。 おぼろげに、銀髪の男と、桃色の髪の美しい女性が話していたのを、覚えている。 彼らの風貌は、ルカにとって見覚えのあるものだった。 物心付いた頃から見ている夢に登場する人物に、相違ない。 そして、自分は決まって、銀髪の男として、その夢に登場するのだ。 それは夢と言うにはあまりに現実感があるものだったが、 ルカは、それがただの夢であると、うたがわなかった。 なぜなら、自分は、あの男――アスラと、似ても似つかないのだから。 きっと、精悍な男に憧れる自分の深層心理が見せるものだろう、と思っていた。 「…駄目だ、思い出せない」 ルカは、軽くかぶりを切った。 夢の残滓をふきとるように、頬に残った涙の跡をぬぐいさる。 涙を流すぐらいなのだから、とても悲しい夢だったのだと思って気になったが、 夢は夢、そう努力して思い出すものでもない、と思ったからだ。 「母さんの、チーズスープのにおい…」 香ばしいにおいが、階下から漂っている。 優しい母が毎朝作ってくれるスープのにおいだ。 そして、すでに食卓には父が付いていて、 起床の遅い自分に2,3小言を告げてくるにちがいない、とルカは思った。 「ルカー!起きなさい!朝ご飯できてるわよー!」 「はぁい、起きてるよー!」 ルカはクローゼットから着替えを取り出しながら、叫び返した。 そして、ばたばたと寝巻きから着替え、階段を降りる。 いつも通りの朝、いつも通りの目覚めだった。 先ほど見た夢のことなど、とうに意識から消えていた。 大理石に囲まれた部屋の中に、マティウスは佇んでいた。 アルカ、と呼ばれている、新興宗教の礼拝堂の一室である。 一つしかない窓からは、そこが唯一の道というように光が差し込み、 くっきりと、窓枠の形を床に浮き上がらせている。 マティウスは、朝の光景を映し出す窓の外へ、視線を転じた。 その顔は、道化のような鉄の仮面で覆い隠されている。 そして全身を覆うゆったりとした鎧のために、年齢はおろか、性別さえも分からず、 彼――彼女の顔を知るものは、アルカに二人と居ない。 一人は、アシハラと呼ばれる東方の地からやってきた少女である。 「どこに居るのだ、お前は」 仮面の奥から、清流のように凛とした声色が響いた。 鉄板の中でくぐもったその声はやはり中性的で、男とも女とも取れる。 「我が半身よ……」 マティウスは、そっと、鉄の仮面を外し、つぶいた。 その美しい顔の中央で、新緑の瞳が、空を見詰めていた。



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