We are THE バカップル1

We are THE バカップル


  

「ねぇリカルド、オランダ行こう」

「いかん」

己の身長ほどもある巨大な木材にのみを入れながら、俺は即答した。
背後で木くずをいじっていたミルダが、不満げな声を上げる。

「もうっ。ちょっとぐらい考えてくれてもいいじゃないか」

「そんなヒマも金もない」

答えると、俺は大型の工具から小型の彫刻刀に持ち替え、
女性の乳房にあたる部分の山の形を整えだした。
なかなかうまくいっている。丸みも大きさも完璧に近い。
男であれば誰しもうっとりすることだろう。
俺は椅子を引き、少し遠目から女性の木像を眺めて、己の作品に満足し、目を細めた。
オランダ?知らん。うまいのかそれは。食ったことはないな。

「ねえってば!」

うるさく話しかけるミルダの声に、俺はうんざりと首をめぐらせた。

「なんでオランダなんだ」

俺は一応聞いてやることにした。
ミルダが、よく聞いてくれました、とばかりに胸を張る。

「オランダはね、同性間結婚が認められているんだ」

「そうか。それは結構。で、なんでオランダなんだ」

「もう!にぶいなあリカルドは。それとも分かっててわざと聞いてる?」

モスグリーンのセーターを木屑まみれにさせたミルダが歩み寄ってきた。
にっこりと、年下好きの女性が狂喜しそうな微笑を浮かべて、俺の胸に後ろから腕を回す。

「結婚しようよ。チューリップに囲まれながらさ、結婚式をあげよう」

言うと思った。俺はため息をついた。

この10歳も年下の少年は、なぜかこともあろうに俺に惚れていて、
こういうドラマで目にするのも恥ずかしい睦言や、突拍子もないことをちょくちょく言い出す。

俺はそのことに、深く悩んでいた。
まだこいつは15だ。青春のまっさかりだ。
そんなイチャイチャは、同年代の少女とすればいいのだろうに。
何か、悪い菌にでも感染してしまっているとしか思えない。
確実に、今俺の体をまさぐっている少年の人生は、悪い方向にズレている。

眉に皺を寄せて黙り込んだ俺の様子を、肯定ととったのか、ミルダが嬉しそうに笑った。

「オランダではね、男でも16歳から結婚できるんだ。僕はもうすぐ16歳になる。
僕の誕生日に、オランダに行って、結婚しよう。大使館に届ける手続きも、僕がやるから」

夢見るようにうっとりとした声色の終わりに、少し恥じ入るような吐息が混じる。
こいつが照れるのは、いつでも本気の台詞を言うときだ。
俺はいよいよ暗澹たる気持ちになった。

「そんなことのために、オランダに移住するつもりはない」

自分でも、苦虫を噛み潰したような声色だと思った。
俺はミルダの腕を叩き払い、再び作品の制作に取り掛かることにした。
これ以上会話をしていては、ほだされないとも限らない。

「そんな言い方しなくても…」

頭痛の種が、さびしげに言った。
振り返らずとも分かる。子犬のように眉を下げて、しょんぼりとしているのだろう。
だが、俺はあえて無視し、目の前の木像を整えることに没頭した。
ほだされてはならない。
俺だけは、世界の誰がとち狂おうが俺だけは、常識と理性をたもたなければならない。
俺は彫刻刀を振るいながら、自分にそう、言い聞かせた。





俺とミルダが出会ったのは、なんの変哲もない駅前だった。
俺は新しい木材を仕入れに、珍しく早朝から家を出ていた。
仕事柄早起きは苦手な俺だったが、昼過ぎからクライアントとの約束が入っていたので、
朝までに仕入れを済ませておきたかった。
久しぶりの通勤ラッシュは、正直言って苦痛以外の何者でもなかった。
くわえてこの日は大雨が降っていたので、車内の湿気がいつもより数倍増しになっていた。
早起きのせいでむかつく胃だけでも持て余しそうなのに、
ベタベタと体に纏わり付く湿気と、濡れた傘がズボンの裾を濡らす感触に、
大層うんざりしたのを覚えている。

ようやく車外へ吐き出されたころ、俺のコートは皺だらけになっていた。
サラリーマンというのは、毎日あの苦痛満載の電車に乗らなければならない。
俺は襟を軽く整えながら、忙しそうに先を急ぐ彼らに敬意の念すら抱いていた。
数年前までは、俺も同じように毎日電車に揺られて、同じように先を急いでいたのにも関わらず。
同時に、己がつたないながら彫刻家という職業に就けたことを、ありがたく思った。


ともかく、俺はさっさと混雑する駅から抜け出すために、早足で出口へ向かった。
東口の平たい切れ目の向こうに、絶え間なく雨に降られるターミナルが見えた。
俺が乗り口の駅に辿り付いたときよりも、雨足は激しくなっていた。、
俺はズボンの汚れを思って、内心舌打ちをしながら傘を広げようとしたときだった。

視界の端に、学生鞄を斜めに提げ、きょろきょろしている少年が見えた。
泣きそうな表情で、傘を広げる大人たちを見ては、声をかけようとしているようだった。
しかし、話しかける勇気がないのか、一言もその口からは声が出ていない。
少年がまごまごしている間に、通勤客たちは気付かずに去っていった。
彼はその度に目の端に涙を浮かべ、己を叱咤するように拳骨で自分のこめかみを叩いていた。
少年はどうやらずいぶん急いでいるようで、手首に巻いたださい時計をチラチラと見ながら、
目の前に降り注ぐ雨を恨めしそうに睨み付けた。

――傘がないのか

恐らく、少年は、大人たちにこう頼みたいのだ。
傘を貸してくれませんか、と。
しかし、内気な少年はそれを言い出せず、無為に時間を浪費しているのだろう。
身奇麗だがどこか垢抜けない風貌をしているから、田舎から出てきたばかりなのかもしれない。
東京の駅は混雑していて、彼はその雰囲気に振り回されているのだろう。

東京の人間は冷たいと思われているようだが、そうでもない。
もちろん個人主義の人間が多いが、親切な人間はいくらでもいる。
少年が切実に頼めば、5人中の2人ぐらいは傘を貸してやるか、交番に案内してやるだろう。
しかし、だからなんだ、と俺は思った。

――知るか

俺は東京に住む人種のうち、特に個人主義の人間だった。
大体、そんなに急いでいるなら鞄を盾にでもして突っ切ればいいだろうに、とも思った。
第一、声をかけることすら出来ないのは、どう考えても内気すぎる。
紛れもなく、少年自身の未熟から来るものだ。
ここであえて俺が傘を渡してやれば、このガキは、
待っていてもいずれ誰かが助けてくれるのだ、と勘違いするだろう。
子供に親切にするだけが大人ではない。
俺はそう自分に言い聞かせながら、少年の横で傘を開いた。

「あっ…」

か細い声が聞えた。俺は反射的に、そちらへ視線を動かしてしまった。
そしてまずいことに、件の少年と目が合ってしまったのだ。
俺は、ふいと少年から目線を外し、傘を広げきると、そのまま歩き出した。
コンクリートの上は水はけが悪く、ところどころで雨水が停滞している。
俺は水溜りを跨ぎこしながら、先ほどに増してイラついている自分の心を感じていた。

――あ、まで言ったなら、なんで、傘を貸してください、の一言が言えない

どこまで気が弱いんだ、あのガキは。
俺があのぐらいの年頃のころは、新聞配達のバイトをしていたぞ、
などと、ジジ臭いことまで考えた。
俺は努めて、あの少年のことを考えまいとしたが、背中に視線を感じる。
俺の顔を怯えたように見る、捨てられた子犬のような目を思い出す。
雨に打たれたら、3秒で肺炎になりそうな弱々しいガキだった。

俺は足を止めた。

(まあ、及第点ということに、しておいてやるか)

俺はUターンし、駅前に戻った。
誤って水溜りを踏んでしまったが、表情は動かさないでおく。
少年が見ていたからだ。
俺は、こちらを不思議そうに見上げる少年に、無造作に傘を差し出した。
反射的にだろう、少年の手がぱっと傘の柄を握ったのを見届けた瞬間、再び背を向ける。
そして、振り返らずに歩き出した。
頭皮に雨が落ちる。まだ冬の名残が残る季節だ、早くも体が冷えた。

「あ、あの…!」

背後で、少年の声が聞えた。
俺はコートのポケットに手を入れて、立ち止まった。
我ながら格好を付けた仕草だと思ったが、そのときはそういう気分だった。

「遅刻するぞ」

俺はそれだけ言って、再び歩き出した。
まだ背後に少年の視線を感じたが、振り返らなかった。





俺はその日の晩、熱を出した。
高熱だった。体がだるく、胃がむかつく。酒のせいでさらに気分が悪かった。
体は丈夫なほうだと自負していたのだが、長いインドア生活のせいで、抵抗力が弱まっていたらしい。
俺は自分の額に薬局で購入した冷えピタを張りながら、己のお人よしを、憎憎しく思った。

――いつも、そうやって失敗してきただろうが

二度とああいう、三文脚本家が喜ぶような行為はすまい。
大体、駅前で傘を貸してやるなど、どこのドラマや映画だ。
これで偶然再会でもしたら、それこそ安いドラマだ。昼の二時ぐらいからやっているやつ。
次はどうなる。俺の義理の弟として、あのガキが転がりこんでくるのか。
それなら、どうせなら、あいつが女の子だったらよかったのにな。

「ロリコンか、俺は」

俺は馬鹿らしくなり、布団の中で自嘲した。
しかし、俺は一月後に、ドラマや映画のような展開は本当にあるのだ、と思いなおすことになる。
あの少年が再び俺の前に現れたからだ。





美術室の中央で、作りかけの木像をスタンバイしていた俺の前に、いつかの少年が唐突に現れた。
いや、向こうからすれば唐突に登場したのは俺のほうだったのだろう。
引き戸を開いた少年の目が、みるみる内に驚きに見開かれた。
彼の背後で、早く入れよ、クラスメートがどやしつけると同時に、少年は俺を指差した。

「傘の人!」

少年――ミルダは、制服を着ていた。
そして、ここはあの日、ミルダが入試を受け、入学した学校だった。



俺は高校の特別授業の一環で、一週間だけ、少年少女たちに彫刻を教えるために呼ばれていた。
講師活動は貴重な収入源のうちの一つだった。
ガキども物を教えるのも、別に嫌いではない。
あからさまに興味のない顔をする生徒もいたが、熱心に習ってくれる生徒もいる。
そして、ミルダは熱心な生徒だった。
もっとも手先が不器用で、出来る作品も不細工なものだったが、
見ているほうがいじらしく思うほど真剣に取り組む姿は好感が持てた。
ここはどう削ればいいのか、器具の使い方はどうすればいいのかなど、
わざわざ教壇に出向いてきては、俺に訪ねた。

もっとも、それは後に聞いたことによると、俺と会話をするため、だったそうだが、
そのときの俺は、もちろんそんなことを知るはずもない。
純粋に、この真面目な生徒をかわいいと思っていた。



ある日のこと、俺は、席を前後にした男女をほほえましく眺めていた。
他ならぬミルダと、アニーミと言う女子生徒だ。
アニーミが、ミルダの前の空席に勝手に腰掛け、
ミルダの不恰好な作品をいちいち指差しては、出来をからかっていた。

このアニーミは、いかにも活発そうな容貌をしていた。
そして、その容姿を裏切らない、闊達な気性を持っていた。
ミルダの作品を馬鹿にしてはいるが、彼女の作り上げたものも、決してうまいとは言えない。
というより、あまりにがさつだった。
四角い木のはしをがつがつと適当に削っただけで、
”はい、これうずくまった犬!”と、俺に提出してきたときには、
流石に目をまるくしたものだ。

しかし、俺は別段、そのことに対して気分を害さなかった。
彼女は彫刻だけに興味がないわけではない。
きっと、なんに対してもそうなんだろう。悪く言えば粗雑だが、神経が細いよりはいい。
聞けばソフトボール部に所属し、熱心に活動しているようだから、
情熱を傾けるものには真剣な少女なのだろう。
なにかとミルダを気にかけていることも、俺が彼女を観察するにあたって、
”見ていて気持ちのいい少女”とレッテル付ける一つの要素でもあった。

引っ込み思案なミルダの学校生活を少なからず心配していた俺にとって、
アニーミの存在は安心感を与えた。


しかし残念ながら、今は授業中だ。

「おい、そこ、無駄口を叩くな」

俺は彫刻刀の柄で、教壇を叩きながら言った。
アニーミはむっとして、折角いいところだったのに、という表情で自分の席に戻った。
俺の前を通り過ぎる際に、いーっと歯をむき出す。
そして、彼女の二作目となる”転がっている猫”なる木片を、無造作に削り出しながら、
左右の席の少女たちと、ひそひそとおしゃべりを始めた。
俺のほうをちらちら見ているから、恐らく俺の陰口でも言っているのだろう。

俺はため息をつき、ミルダに視線を戻した。
ミルダはにこにこと笑いながら、俺を見ていた。
俺と目が合うと、ぺこりと頭を下げる。
その瞬間、額が木像にぶつかった。
小さな悲鳴を上げながら椅子から飛び上がる。
すかさず、クラス中の視線が集まる。クスクスと笑い声が響いた。
彼は顔を赤らめ、慌てて椅子に座り直した。
そして、俺へ顔を戻すと、照れくさそうに笑った。

俺は笑い返した。どこまでも、憎めない少年だ。
俺はこのとき、この少年に傘を貸してやってよかった、と思った。



しかし、この三日後、俺はそのことを深く後悔することになる。


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