We are THE バカップル2

  

俺がイノセンス学園にやってきて、三日目のことだった。
件の運命の三日後を、二日後に待ち受けたその日、ミルダが怪我をした。
手を置く場所を誤り、彫刻刀で親指を削ってしまったのだ。
俺はすぐ、彼の席へ駆けつけ、手首を掴んで怪我の具合を確認した。
幸い刃は皮膚だけを削ぎ取っていて、肉にまで達してはいなかった。俺は安堵した。
深い傷ではないが、それでもけっこうな血が出ていて、ミルダは顔を真っ青にしている。
クラス中が、がやがやと騒がしくなる。
あのアニーミさえ、血の気が引いた顔をしていた。
彫刻の授業の中では珍しいことではないが、生徒たちにとってはそうではないのだろう。

「ちょっと…、だ、大丈夫?」

「心配ない。すぐ止まる。気にせず作業に戻れ。
……ミルダ、ここを押さえていろ。自分で出来るな?」

俺は駆けつけたアニーミに言った後、ミルダの無事なほうの片手を取り、
親指の付け根を押さえるように言った。

「気にすんなって言われて、はい気にしませんってわけにはいかないわよ!
…ルカ、大丈夫?ちょっと、やっだ…、すっごい血ぃ出てんじゃん」

アニーミが、ブレザーのポケットからハンカチを取り出した。
ミルダの親指に巻きつけようとでもいうのだろう。俺はそれを手で制し、

「悪いが、雑菌が入るんでな」

「そ、そっか、ごめん」

アニーミは、意外にも素直に引き下がった。
それからはずっと、心配そうにミルダの顔を眺めていた。

「保健委員はいるか?」

俺は、教室の中に視線を巡らせて訪ねた。
呆然と俺たちを見ていた生徒たちが、口々に騒ぎ出す。
彼らはまだ、入学して日が浅い。誰がどの委員会だったかなど覚えていないのだろう。
俺は内心じれったく思った。
少しした後、誰かが、”今日、休み”と言った。
俺は頷き返し、

「保健室へは俺が連れて行く。それまでは自習だ。
各自作品の完成に向けて取り掛かるように。あと、怪我をしないよう気をつけること」

生徒たちの顔を見ながら言う。
返事はなかった。日本の高校生だ、こんなもんだろう。
ミルダを立ち上がらせ、戸口へ向かう。
アニーミがその後ろを、とことこと付いてきた。

「……アニーミ」

「な、なによ」

「悪いが、な。掃除を頼めるか。嫌ならいいが」

俺は、血で汚れた机を顎で示しながら、
今にもミルダに付き添って教室を出ようとしていたアニーミに言った。
別に連れて行ってもいいが、彼女の性格なら、自ら治療をする、と言い出しかねない。
アニーミは、はっとしたように顔を上げて、ミルダと、彼の席を交互に見て、

「べ、別に平気よ、こんなん。んなことより、ルカのこと頼んだよ?」

と言い残し、ティッシュティッシュ!と言いながら、あわただしく教室の奥に戻った。
早くも、ティッシュ持ってる人、ちょっと出して!と、手際よく指示を出している。
アニーミを残して正解だったかもしれない。
クラスに一人はいるジャイアン的存在なのだろう。
俺はミルダの背を軽く押し、教室から出るよう促した。
その瞬間、ぱっとミルダは振り返り、

「あっ、イ、イリア、ありがとうね」

と、弱弱しく言った。イリア?誰だったか、と俺は思ったが、
すぐにその名の主が声を上げる。

「べっつに、心配してるわけじゃないんだからね。
早く戻って来なさいよ。あんたがいないと、イジるやつがいなくてつまんないんだから」

いまやクラスメートから没収したティッシュをうず高く積み上げている、アニーミが答えた。
…あいつ、イリアという名前だったのか。
まあいい。俺は再び、ミルダの背を叩いた。

「行くぞ」




保健室へは、迷わずたどり着くことが出来た。
こんなこともあろうかと、保健室への道筋を頭に入れておいてよかった。
保健室の戸を開くと、常駐している保険医の姿があった。

「おやおや、今日はサボりの子ではないようですね。
おや、血が。まあまあ、かけて。傷を見ましょう」

ところどころにコーヒーの染みが付いた白衣を着た人物は、俺たちを見るや、
目の前の椅子を手で示した。
そして、ぼさぼさに寝癖が付いた髪をかきながら、消毒液の入った瓶を取り出す。
オリフィエルという男だ。
俺は昼飯を取るときは保険医の休憩室を使うように言われているので、
自然と、他の教師よりも彼と話す機会が多かった。

オリフィエルは、まだ三十代半ばだというのに、中学生の息子がいる。
こう見えて、意外と若い頃は遊び人だったのかもしれない。
元は大学病院で医者をしていたのだが、妻に先立たれ、息子の面倒を見るために医者を辞めたらしい。
大学病院に勤めるぐらいだから相当の学歴の持ち主なのだろうが、それを鼻にかけたところもなく、
本人はいたってのんびりとしていた。俺は結構この男のことを気に入っていた。

「ではミルダくん、少し染みますが、我慢をしてくださいね。
我慢できたら、後でクッキーをあげましょう。はい、我慢我慢はいい子ー」

息子を相手にしているような声色で言いながら、湿った綿を傷口に押し当てる。
ミルダは一瞬顔を歪めたが、ぐっと歯を噛みしめてこらえていた。
別にクッキーが欲しいわけではないだろうが。

オリフィエルが包帯を取り出したところで、不意に保健室の電話が鳴った。
彼はミルダに少し待っているように言うと、受話器を取り、
2、3言葉を交すと、すぐに内線を切った。
椅子をくるりと回して、腰かけたミルダと、その後ろに立つ俺へ向き直り、
眉を下げ、まいったなあ、と笑った。

「グラウンドのサッカーゴールが倒れて、生徒が数名潰されたようでしてね。
大したことはなさそうだが、すぐに来てくれとのことです。
やれやれ…、今日は悪い日ですねえ。いつもはサボり目的の不良しかやってこないのに」

オリフィエルはやる気のなさそうなことを言いながらも、
見事な手際で素早くミルダの親指に包帯を巻いていった。
別に絆創膏でもいいぐらいの傷だったのだが、慎重を期してのことだろう。
そして、包帯の端を医療用テープで繋ぎ止めると、さっさと立ち上がり、
救急箱を手に部屋の外へ出て行った。
立ち去り間際、部屋の中を振り返り、

「ではミルダくん、お大事に。
クッキーがその辺にありますから、どうぞ召し上がってください。
あっ、リカルドさん、サボり目的の子が来たら、追い返しておいてください。
もしかしたらベッドを使うことになるかもしれませんのでね」

と言って、早足で廊下を行ってしまった。


ミルダと二人で保健室に残された俺は、しばらくぽかんとしていた。
――俺も授業があるのだが
俺はため息を吐き出し、とりあえず、ドアを閉めてから、
オリフィエルが座っていた丸椅子に腰掛けた。
そして、ぼけっとドアを眺めているミルダに話しかける。

「まだ痛いか?」

ミルダが、はっと顔を上げた。
ふるふると、かすかに首を横に振る。

「う、うぅん、もう大丈夫です。心配、かけてごめんなさい」

大げさに頭を下げる。
俺は、いや、とだけ言って、黙り込んだ。
別段話すこともないので黙っていただけなのだが、
ミルダはそれを気まずい雰囲気と取ったのだろう。
あきらかに無理をしている様子で、話題をふってきた。

「あ、あの、クッキーとか、オリフィエル先生って、ちょっと変わってますよね」

「そうだな」

俺はまた、一言だけ答えた。
ふっつりと会話が途切れる。
今度は俺にも分かる。空気が死んだ。
しばらく二人して黙り込んだ後、俺は立ち上がった。

「痛みがひいたなら、授業に戻れ。俺もその内戻る。
もし四時限目の終わりまで戻らんかったら、各自片づけをして帰るように言ってくれ」

「あ、は、はい、わかりました!」

ミルダが慌てて立ち上がり、扉まで走り寄った。
しかし、ノブに手を掛けたところで、ぴたりと足が止まった。

「……あ」

俺は不審に思って、彼の背中を眺めた。
すぐにミルダが振り向き、もじもじと足踏みをする。

「…あ、あの……、まだ居ても…いいですか?」

遠慮がちに聞いてくる。
俺は片眉を上げた。なんだというのだろう。気まずい空気愛好家か?
俺と二人きりで密室にいて彼の得になることがあるとは思えない。
そこまで考えたところで、俺はあることに思い至った。

「クッキーか?」

「えっ」

「食っていいと言ってただろう、別に遠慮することはない。もらっておけ」

席を立ち、保健室の奥の机から、オリフィエル私物のカップやコーヒー用のクリープを手でどけて、
クッキーの缶を探した。すぐに見つかった。
ご丁寧にも、”生徒用クッキー”と汚い字で書かれた付箋が貼り付けられていたからだ。
俺は缶を手に取り、ミルダに差し出した。

「ほら」

「…。…あ…りがとう、ございます…」

クッキーを両手で持つミルダの声は、小さかった。
どこか気合をそがれたような風情で、諦めさえ浮かべて缶の蓋を開けている。
俺は少し気になったが、まあ、この時期の少年なんてものは、
複雑な心理状態を持っているものだ。考えても仕方が無い。

俺は再び椅子に腰掛け、立ったままクッキーをかじっているミルダを指先で招いた。
目をまるくして近寄るミルダの手元の缶から、クッキーを取り出して口の中に放り込む。
ぼりぼりと菓子を噛み砕く俺を見て、ミルダが更に目を丸くした。

「食べれるんですか?」

「甘いものか?普通に好きだが」

俺が答えると、ミルダは、そっか、そうなんだ、と、何度も口にした。
まるでカルチャーショックを受けているようだ。

「嫌いだと思ってた。絶対、コーヒーもブラックしか飲まないタイプだって」

「なんでそうなる。砂糖もミルクも普通に入れるぞ」

「だって、そういうキャラじゃないかなって…」

俺はさすがに眉を寄せた。

「人のキャラを勝手に決めるな。そもそも、人間をキャラクター付けるのはやめろ。
俺はアニメや漫画の登場人物じゃないんだぞ」

出来る限り威圧的に言ったのだが、ミルダは予想に反して、うん、と笑って頷いた。
機嫌が良さそうな笑顔で、俺の対面の椅子に腰掛ける。

「その通りだと思います。だって、リカルド先生が、僕の想像してた通りの人なら、
きっとまた、僕の前に現れてくれることもなかったんだと思う。
まさか彫刻の先生だったなんて、夢にも思わなかった。
本当にびっくりしましたから」

駅前で傘を貸したときのことを思い出す。
あの一分にも満たない邂逅で、どんな想像をしていたんだ、こいつは。

「どんな職業の人間だと思ったんだ」

俺は少し気になったので、聞いてみることにした。

「マフィア」

ミルダはあっさり答えると、チラ、と俺の額に走った傷を盗み見た。
一方俺は、しかめっつらをしていたことだろう。
……マフィア。
俺の頭の中で、ゴッドファーザーのテーマが流れ出した。
確かに、こんなところに傷をこさえている人間を、サラリーマンだとは思わんだろうが。
よりによって、マフィアはないだろう。
そもそも、こいつの頭の中のマフィアは、ラッシュに揺られて通勤するものになってるのか。

さすがに俺の不機嫌を感じたのか、ミルダが慌てた様子で、顔の前で手を振った。

「あ、でも、すごくやさしい人だってのは、分かりましたから。
あの時は驚いてなにも言えなかったけど、でも、すごく嬉しかった」

ミルダの顔に、懐かしい思い出を語るような笑顔を浮かぶ。

「あの時、僕、受験だったんです。この高校の。
でも、傘忘れちゃって。財布もなくって。僕、コンビニで定期が使えるって、知らなかったし。
鞄には受験票も入ってたし、濡れてくわけにはいかなくてさ。
すごく自分が情けなくて…本気で死にたくなってた。
そんなとき、先生が助けてくれたんです」

照れくさそうに、鼻の頭を掻く。

「あのときお礼を言い忘れてたから。次会うことがあったら、絶対に言おうと思ってた。
だから、先生が僕の前に現れてくれたとき、本当に嬉しかったんです」

「の、わりには…、まだ礼を告げてもらっていないような気がするんだが」

俺は、わざとぶっきらぼうに言い返した。
流石に、そこまで言われると照れくさいものがある。
俺は視線をそらし、髭をさするふりをして、口元を隠した。
ミルダは、気分を害した風もなく笑い声をあげて、さっと俺の手元に手を伸ばした。
俺は目を丸くした。ミルダの顔が近い。いつのまにか、彼は椅子から立ち上がっていた。

「言う機会が、なかったんです。
二人きりのときに、言いたかったから。
先生……僕……」

視界の中のミルダの顔が、どんどん大きくなる。
顔を近づけているのか。なんだこれは。どういう状況だ。
立ちくらみをしているのか?

「ミル……」

口を開きかけたとき、ミルダの片手が、ぐ、と俺の肩を押した。
体勢が崩れ、椅子から落ちそうになる。
俺は反射的にミルダの襟を掴んでいた。
考えるより先に、体が勝手に動いていた。
俺はミルダの足を払って、床に投げ飛ばしていた。
もちろん、そう強くはたたきつけていないが、相手は受身も取れない素人だ。
ミルダが呆気にとられたように目をまるくして、体を大の字に広げて床の上に転がっていた。

(しまった)

己の額を叩きたい衝動に駆られたが、それより先に、ミルダの安否を確認せねばならない。
床に転がったミルダのそばに膝を付き、顔を覗き込む。
見開いた青い瞳が、ゆっくり俺の顔をとらえた。

「大丈夫か」

俺が、そう告げた瞬間だった。保健室の外から、けたたましい物音が響いた。
ガラスが割れる音。悲鳴や怒号がそれに続く。
すぐに、殺気立った足音が駆けつける。

ただごとではない。暴漢だろうか?
俺は立ち上がると、やっと体を起こしだしたミルダを指差し、

「お前は出るな」

と言って、保健室から飛び出した。





「てめぇ!もういっぺん言ってみろよ!あぁ!?言ってみろってんだ!」

授業中だというのに、保健室前の廊下は、野次馬でごった返していた。
俺は持ち前の長身を生かし、首を伸ばして人ごみの向こうを覗き見た。
野次馬たちにまるく囲まれた中央で、制服を着た少年が、教師におさえつけられている。
廊下の窓ガラスが粉々に砕け、辺りに散らばっていた。

見覚えのない少年だった。
俺が彫刻を教えている生徒たちより若干大人びた顔つきをしているから、上級生なのかもしれない。
高校生にしては中々の長身で、学内だというのにキャップをかぶっていた。
まだ幼さの残る顔立ちは、怒りに歪んでいた。
体格のいい体育教師に取り押さえられながら、荒れ狂う獣のようにもがいて、
放せ、ぶっ殺してやる!と怒声を張り上げている。

しかし、その怒りが教師に向けられたものではないことを、俺はすぐに理解した。
少年が睨みつける先に、壁に背中を付けて情けなく座り込んでいる少年がいたからだ。
髪を金髪に染め、いかにも不良という出で立ちだが、その顔は恐怖に凍っていた。
失禁していないのが不思議なほどだ。
中学高校時代の学生というのは、失禁や脱糞などを異常にタブー視する傾向があるから、
彼は自分のあだ名が不名誉なものにならぬよう、必死で我慢しているのかもしれないが。

「スパーダ!いい加減にせんか」

2メートル近い巨躯を持つ教師が、暴れる少年に、厳しいながらもなだめるように言った。
確か、アスラとかいう体育教師だ。
生活指導の主任も兼任しているが、彼自身が銀髪を長く伸ばしているので、
指導員として説得力に欠けている。体躯の大きさで生徒を威圧するだけの男だな。
俺は初見で彼をそう判断した。
しかし、すぐにそれは誤解だったと気付いた。

確かに、彼は拘束についてはとやかく言わないが、
その代わりに、筋の通らないことを激しく嫌った。
例えば、未成年の煙草や酒、人に迷惑をかける行動などである。
見つけ次第、彼はそれを厳しく取り締まった。

その性格や指導は公正明大で、どこかの執政者のような威厳すら持っていた。
厳しいが、スパルタではない。やさしいが、人気を取るためのような媚は見えない。
しかし、気さくなところもあって、よく生徒たちに囲まれていた。

オリフィエルから聞いた話だが、彼が常に持っている竹刀に、こっそり男子生徒が、
”聖剣デュランダル参上”と油性マジックで悪戯書きをした事件があったらしい。
しかし、このおおらかな教師は怒るどころか、落書きを見つけた瞬間笑い飛ばし、
竹刀をうやうやしく掲げて、

『この聖剣デュランダルが目に入らぬか』

と言ってのけたのだそうだ。
寛大で、ユーモアもある男なのだろう。
しかし、今やその竹刀も、スパーダと呼ばれた少年を押さえつけるために、
床に放られたまま転がっている。

「ベルフォルマくん!」

やにわに、俺の背後から、喧騒の中でよく通る女性の声が聞えた。
上品なスーツを着ている女性だ。格好からして、この学校の教師だろう。
と言っても、教員というより、むしろモデルのように見えた。
それぐらい、テレビでもちょっと見ない美人だった。
慌てて騒ぎの中心に駆けつける彼女に、俺は道を譲った。
綺麗にセットした髪を乱しながら、野次馬をかきわける。
そして、ガラスが散乱する床に座り込んだ少年と、アスラに抑えられている少年を目にして、
口元に手を当てて、絶句した。

「おぉ、イナンナ。遅かったな」

アスラが、女性に向けて言い放った。
かすかに口元に笑みを浮かべている。少し、嬉しそうにも見えた。

「授業中でしたから。これは、どういうことです?」

アスラは簡単な事情を説明した。
聞くところによると、スパーダなる少年がもう一人の少年と話していたところ、
いきなりスパーダがガラスを叩き割ったそうだ。
これが、キレる10代ということか。
俺はのん気にそう思ったが、イナンナと呼ばれた女教師は、顔を真っ青にしていた。

「大丈夫?怪我はない?」

それでも気丈に、へたり込んだ少年の元に屈みこみ、顔を覗き込んだ。
金髪の少年は曖昧にうなるだけで、答える言葉を失っている。

「ケッ…!安心しな、傷一つ付けちゃねぇよ。
…こんなやつ、殴る価値すらありゃしねぇ」

帽子の少年は吐き捨てるように言うと、アスラの拘束を、腕の一振りで払った。
アスラも、もはや落ち着いたと見て、力をゆるめていたのだろう。
イナンナが立ち上がり、スパーダをキっと睨みつける。

「ベルフォルマ君…、なんでこんなことをしたの?
次に問題を起こしたら、停学になるって聞かなかったの」

「うるっせぇな…、担任ってだけで保護者面すんじゃねぇ」

少年はそう言うと、すたすたと歩き出した。
野次馬が割れる。彼はその中央を、何の物怖じもせず、堂々と歩いた。
驚くことに、アスラもイナンナも、彼の歩みを止めようとはしなかった。
野次馬を抜け、ブレザーのポケットに手を突っ込んで、肩越しに見返った。

「行くぜイナンナ。どうせまた、生活指導室でお説教なんだろ」

「先生、を付けんか。馬鹿者」

彼の頭を、アスラが素早く拾い上げた竹刀で強かに殴りつけた。
イテッ、とうめいたスパーダが、”聖剣デュランダル参上”の”デュ”の辺りに手をそえて、
うっとうしそうに竹刀を払う。

スパーダが何かを言い返そうとした瞬間、どこかで、カシャ、とシャッターを切る音が響いた。
一同の注目が、野次馬の中から飛び出した、派手なデコレーションの携帯電話に集まる。
まずいことに、携帯の液晶画面には、竹刀を払った瞬間のスパーダが映し出されていた。

「あ、いっけね、音するんだった!」

携帯が引っ込むとともに、あせった声が聞える。
俺は瞬間的に頭を抱えそうになった。
他ならぬ、アニーミの声だった。

スパーダの目尻がぴくりと動いた。
大股で、野次馬の中に舞い戻る。
人ごみがざざぁっと見事に割れる。まるでモーゼだ。
野次馬がひらけた中央に、携帯を持ったままのアニーミが立っていた。

「おい、お前か?」

帽子の少年が、アニーミに詰め寄る。

「ち、ちっがうわよ!勘違いしないでくんない!?」

強気に言い返しているが、今更携帯を隠したところで説得力がない。
二人はしばらく睨み合い、今にも一触即発な雰囲気だ。

それを打ち壊したのは、ほかならぬ聖剣デュランダルだった。
竹刀が、綺麗に同じ音を立てて、二人の頭をすぱんすぱんと叩く。

「そこまでだ。喧嘩なら校外でしろ。イナンナ、スパーダを連れて行け。
野次馬どもも、とっとと授業に戻れ」

イナンナなる教師が頷き、帽子の少年をなだめるように語り掛けると、
連れ立って廊下の向こうへ去っていった。
それを見届けた野次馬たちがパラパラと散りだす中で、
俺とアスラとアニーミだけが、彼らの背中を眺めていた。
アニーミが、憤慨したように、だん、と床を踏みつける。

「なっによあいつ…!超野蛮!マジでアブないんじゃないの!?」

「その意見には同感だがな」

いつの前にか、アニーミの隣に、ずん、と音を立てそうな威圧感で、アスラが佇んでいた。

「だがな、お前のしたこととて、立派なモラル違反だ。指導の必要があるな」

アスラはアニーミの二の腕をぐわしと掴むと、引きずり出した。
アニーミが、首根っこをつかまれた小動物のように暴れる。

「キャー!変態ヘンタイへんたーい!助けてー!乱暴される〜!」

「抗わぬほうがいい。この聖剣デュランダルを、二度振らせるな」

「おい」

俺は、アニーミを連行して立ち去ろうとしたアスラを呼び止めた。
アスラが、竹刀を肩に置きながら振り返る。

「あのスパーダとかいう生徒を、女教師に任せていていいのか」

俺は、そう問いかけた。
さきほどの帽子の少年が凶暴なのは、疑いようがないだろう。
なにしろガラスを素手で叩き割るような人物だ。
そんな危険な少年を、あの、見るだにか弱そうな女教師だけにゆだねていいのか。
俺の意図を察したのか、アスラは口の端に笑みを浮かべた。

「問題ない。スパーダはああ見えて、なかなか紳士的な男だ。
己にも非があると分かっているからこそ、大人しくなったのだ。
激しやすいところはあるが、決して悪い少年ではない。
俺はあの少年を信じている」

そう言い放ったアスラには、ジャージを着ていながら、ある種帝王のような威厳があった。
俺は、素直に感心してした。器の大きい人物であることは間違いない。
しかし、彼はすぐに、陶酔するように目を細めた。

「それに、あの美しい女を害することが出来る男など、いようはずもない。
イナンナこそこの学校の宝、至高の玉石のような女。そして、この俺のマドンナなのだ」

その声は、あきらかに、のろ気の色を帯びていた。
俺は二人の関係性に気付くと同時に、全身から力が抜けるのを感じた。
彼があの女教師に入れ込むあまり、身を持ち崩さぬことを祈るばかりだ。

「ちょっと!んなことどうでもいいっての!リカルド、助けてよ!」

アニーミが両手をばたつかせ、抗議の言葉を上げた。
俺は腕を組んで、彼女をひややかに見下ろしてやった。

「先ほどの行いに加え、目上にタメ口、授業中に許可なく外出…。
指導すべきところは山ほどあるな。しっかり更正させてもらえ」

「あ、あんたねぇ…!」

アニーミが悔しげに歯軋りをする。
そんなアニーミを引き連れて、アスラは去って行った。
ドナドナでも流すべきか。いや、子牛という風情でもない。闘牛だ、あの女は。
俺は、すっかり静かになった廊下に立ったまま、やれやれ、と呟いた。




「おやおや…、これはどうしたことですか」

不意に、背後からのんびりとした声が聞えた。
オリフィエルが、救急箱を片手に、ガラスの四散した廊下を見て、目を丸くしていた。
生徒を連れていないことから、ゴールポストの下敷きになったという生徒も、
恐らくその場の処置だけで間に合ったのだろう。

「暴れた生徒がいてな。すぐに片付けが来るから、そのままにしておけ」

「ほう、穏やかではありませんなぁ。
…ふ〜む、なるほど、綺麗に割れている。生半な力ではこうはいきません。
もしかしてその生徒は、帽子をかぶっておりませんでしたか?」

俺はいささか面食らいながら、頷いた。
スパーダという生徒は、どうやら有名人らしい。
オリフィエルは柔和な笑みを浮かべると、保健室のドアの前まで歩んだ。

「ふふ、まあ、悪い子ではありませんよ。
少し、家族との折り合いが悪いみたいでね。
そのせいでしょうか、時折ああやって問題を起こすのです。
めっぽう喧嘩が強いのがまた問題でしてねぇ…。
それ以外は、正義感のあるいい子なのですが」

オリフィエルは、アスラと似たようなことを言って、ドアを開いた。

「あっ…!」

入り口のすぐ近くで、不安げな顔をして立っていたミルダが振り返った。
ミルダはオリフィエルに軽くお辞儀をすると、俺のほうへ駆け寄ってきた。

「あの、大丈夫でした?なんだかすごい怒鳴り声が聞えてきたけど…」

「心配ない。ただの生徒間のトラブルだ。
俺が止める間もなく終わった。…それより、さっきはすまなかったな。
どこか打たなかったか?」

俺は、ミルダに、先ほどのことを謝った。

「あっ、え、ううん、平気です。ちょっとビックリしたけど…」

ミルダはなぜかさっと顔を赤らめて、首を振った。

「ならいいが、一応診てもらえ。ちょうど診れるやつが帰ってきたからな。
オリフィエル、戻ってきたばかりのところ悪いが、頼めるか」

俺の言葉に、オリフィエルはいやな顔一つせず、穏やかに笑んだまま頷いた。

「はい、もちろんです。それが仕事ですしね。
さ、ミルダくん、上着を脱いでもらえますか」

ミルダに指示を飛ばすと、オリフィエルは、えー、湿布湿布、と呟きながら、棚をあさりだした。
すぐに、湿布、とマジックで無造作に書かれた紙袋を取り出す。
この男は物に名前を書くのが趣味なのだろうか。
オリフィエルは湿布の数を確認しながら、思い出したように笑った。

「あー、しかしですねぇ、ふふっ…」

俺が眉を寄せたのを見て、眼鏡を上げる。

「いえ、私が居ない間に何があったのかなー、と思いまして。
もしかして、プロレスごっこですか?あなたもまだまだお若いようで。
でも、保健室では遠慮して欲しいですね」

「するか。…ただ、少し手違いがあっただけだ」

オリフィエルが、ほう?と笑みを深めた。
瞳が好奇心に光っている。あきらかに、詳しく聞かせてくださいな、と言いたげだ。
そこに、半裸になったミルダが戻ってきた。
寒そうに白い二の腕をこすっている。

「それ、僕も聞きたいと思ってました。
……あ、いえ、僕が原因だってのは分かってるけど…」

申し訳無さそうに眉を下げるミルダを見て、俺はうなった。

「別にお前のせいじゃない。……ただ、昔の癖が出ただけだ。
長年染み付いた…、そうだな、職業病とでも言うべきか……」

「ほほう」

オリフィエルが、すかさず身を乗り出す。
こうなったら、はぐらかすのも面倒だった。

「穏やかな職業ではないことは確かですな。なんですか?」

単刀直入な問いに、俺は、


「刑事」


とだけ答えた。


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