We are THE バカップル50
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結局、コンクールに出展した作品が入賞することはなかった。
やっつけ仕事な上、精神的にも混迷を極めていた時期の作品であるからして、
当然と言えば当然である。
しかし、賞を取った作品とは別に、別枠で展示されることになった。
というのも、どういうわけか、俺が勝手に敬愛を抱いている彫刻家の御大が、
是非にと推薦してくれたらしい。
人生、何があるか分からない、というのはこのことである……
と、後世の俺は残した。嘘だ。今の俺が、しみじみとそう思った。
ミルダと共に展示会に足を運んだ折、幸運にも当人と会う機会があった。

「技巧は未熟だし、女性像としてはギャラントリーにもコケットリーにも
 なりきれてないし、実はね、展示物としてはどうかと揉めんだ。
 彫刻というのは、やっぱり人に見てもらってなんぼの作品でしょう。
 でも、僕は君の作品が好きですよ。なんというか、感情がちゃんと入っている。
 一見、アンバランスだけど、あたたかい、人間味がある感じがするだろう」

痩せた初老の紳士は、そう言って品よく微笑んだ。
そして、俺の横に立っているミルダを見て、更に楽しそうに笑った。

「あぁ、そうか、そこの坊やがモデルなんだね?男の子だったのかい。
 ハハ、なるほどねえ。こんなところで原型にお目にかかれるとは」

横についていたミルダはたいそう嬉しそうにしていたが、
俺にとってはいままでの人生で一番恐縮し、そして死ぬほどはらわたが悶えた瞬間だった。
本当に、人生何があるか分からない。



で、だ。
ミルダの退院後、急ピッチで転居手続き、及び家具の運び込み作業を
善意のお手伝い要因ラルモと進めている矢先の朝方、兄者から連絡があった。
俺が唐突に約束を破った、いわばドタキャンをしてから一度も連絡を取っていなかった、
あの兄者からである。
そのときの心臓の嫌な高鳴りっぷりを、ご想像していただきたい。
十コール待った後に出た俺の耳には一言、

「馬鹿もんが」

即、通電が切られた。
あくまで、そんな兄者だった。
それから二分と経たないうちに、今度はヒュプノスから電話が入った。

「兄者からは、もうかかってきたか?」

悪戯が見つかったかと尋ねるような、軽い調子だった。

「そろそろだと思ってな。昨日の夜、明日の朝っぱらからかけて、
 ビビらせてやる、というようなことを言っていたからな」

「おおいにビビったところだ」

鼻で笑う気配が伝わった。

「お前は、なんでそう、兄者に対してビビりまくってるんだ」

こいつに言われると、とても屈辱的な台詞である。

「兄者も、本当は分かっているのさ。お前には、お前の人生があるってことを。
 あの人も、子供っぽいところがあるから、お前を手元に置いておきたいんだよ。
 けど、そんなことも、兄者はちゃんと分かってるんだ。
 お前が戻ってこなくて、内心ほっとしてる部分もあるのじゃないかな。
 素直じゃないから、伝わらないだけで」

つまり、盛大なツンデレだったってことか?
なんともはや、である。

「どうしたらいいのやら」

半ばため息交じりにつぶやいた俺に言葉に、ヒュプノスはこう答えた。

「少しずつ、分かりあっていくしかないだろうな。
 だが、そう、難しいことじゃないだろう。家族だからな」

それしかない、と俺も思う。
結局、ミルダと生きていく道を選んだ俺には、兄者にグチグチと言われながら、
そして時には、心の底から抉られるような言葉を言われながら、生きていくしかない。
けれど、なんだろうな。
そのことが、妙にありがたいと思えるようになったのは。

感慨に浸る俺の耳に、ヒュプノスの台無しな一言が飛び込んだ。

「協力はせんがな」

兄者も兄者だが、こいつもこいつである。
まあ、それぐらいがちょうどいい。

「シアンはどうだ?」

「あぁ……元気にしている。お前が心配するようなことは、何もない」

シアンの話に触れるときだけ、ヒュプノスの声のトーンが低くなった。
まだ、心に引っかかるものがあるのだと思う。
それも、少しずつ、何とかしていけるものだろうと、今の俺は信じられた。

「それならいい。じゃあな」

通電を切った後、ミルダの寮内に設置されていた冷蔵庫の中身を移し替えていた
ラルモが、遠慮がちに首を傾げた。

「なあ、聞いてもええ?」

「なんでも聞け、もう」

俺は投げやりに、携帯電話をソファーに放った。

「シアンって誰なん?」

そういえば、シアンはラルモと同学年だった。
中学一年生。その未来は明るいのか暗いのか、俺には分からない。
それを思うと胸にこみあげてくるものがあったが、押し隠して、言った。

「お前と同い年の、知り合いだ。長崎に住んでいるころに、知り合った。
 いつかお前に紹介したい。男の子なんだが、友達になってくれるか?」

ラルモは、しばらくきょとんとしていたが、

「アホいいなや。そんなん、あったりまえやん。
 なんなら、今度里帰りするとき、うちも一緒に連れてってや。
 タダで旅行出来るし、友達は増えるしで、ええことづくめやんなあ」

本当に、ラルモはラルモだった。



ラルモを帰した昼、アニーミが訪ねて来た。
彼女は開幕一番、こう言った。

「私、大学に行こうと思ってるんだ」

玄関先で言うことなのかと思ったが、いつもの、アニーミなりの照れ隠しなのだろう。
だから俺も、いつものテンプレート、言ってしまえば天丼にのっとって、こう言った。

「お前の学力でも行けるところがあるのか」

アニーミは頬をふくらませながら、両手を腰にあてた。

「は!?失礼しちゃうわね。あんた、どんだけ、私を馬鹿だって思ってんの?」

イノセンス戦隊で一、二を争う馬鹿だと思っているが。
そしてそれは、世界で一、二を争う馬鹿だということでもある。

アニーミは、少し眉を下げて、赤毛をかきむしった。

「まあ……実際、ちょ〜っとキビシいんだけど……」

ちょっと、で済ませるのが、アニーミ流ポジティブ思考なのだろう。

「うち、兄弟も多いしさ。学費も馬鹿にならないわけ。
 で、アスラにこの話、してみたんだけどさ。
 あ、軽くよ?別に相談ってノリじゃないから。勘違いしないでよ!
 あんなの全然タイプじゃないから、ぶっちゃけ!ありえないから!」

「それで?」

アニーミ流照れ隠しが延々と続きそうなので、俺は早々と催促することにした。
両手を前で組んだアニーミは、気恥かしげに斜め下を向いた。
まあ、説明するまでもなく、こんなところが、可愛いやつなんだが。

「うん、そしたらさあ……あいつ、やったらノリ気になっちゃって。
 サクヤ先生とイナンナ先生も呼んで、勉強会をしようって言うのよ!!!」

アニーミは、道端で犬の糞を踏んだ時の話をするような声色で叫んだ。

「行けばいいじゃないか。何が嫌なんだ」

俺がそう言うと、アニーミは憤然として腕を組んだ。

「はあ!?いやよ、勉強会なんて!あったりまえじゃん!」

何が当たり前なのか良く分からないが、いつものことなので流す。

「ぜいたくなやつだな」

「あんた、分かってないわね〜、学生の心を!まあ、オッサンだからしょうがないけど。
  あのね、まず勉強会って響きがイヤなの!分かる!?分からないでしょうね!
 地獄とか心霊写真百連発とかのほうが、まだぞっとしないわ!」

そういうものなのだろうか。

「あぁ、もうほら……!勉強会って言ってるだけで……見て、鳥肌!」

確かに、アニーミの二の腕には、びっしりと鳥肌が発生していた。
そこまで嫌なのか、勉強会が。
いや、俺も出来るならそんなもの、しかもアスラ主催の勉強会なぞ、
想像しただけで外出する気が失せるが。

「はー、マジ最悪。あいつに相談なんてするんじゃなかったわ。
 妙に熱血なのよねー、しかも竹刀とか、当たり前に持ちすぎてスルーしてたけど、
 時代遅れもはなはだしいじゃん。昭和かよって感じ」

「そうか。まあ、行って損はないだろうから、一応顔を出してみろ」

アニーミはふくれっ面をしたが、まあ、なんだかんだ言っても……。
結局は参加するんだろうなあ、その、勉強会とやらに。
アニーミのストレス発散にイジられたミルダの愚痴を聞くのが、
半分うんざりで、半分楽しみだ。



散々愚痴り、わめきかえしたアニーミが去り、
冷凍ビーフンを電子レンジで解凍していた昼過ぎ、今度はベルフォルマが訪れた。

「ちょっとこれ、見てくんねえ?」

薄い紙を手渡すベルフォルマも、またもや玄関先である。
こいつらは、真面目な話をするとき、敷居をまたがない主義であるらしい。
なんとも、似たものカップル……ではなく、似たものコンビである。

「入隊するのか?」

ベルフォルマから受け取った紙っきれは、
『来たれ若人!海は君たちの力を求めているぞ!』
といった暑苦しい赤字の煽り文句とともに、ビシっとポーズを付けている……
海上自衛隊のりりしい姿が印刷された、チラシだった。
紛うことなき、海上自衛隊の求人広告のチラシである。

「本気か?」

ベルフォルマは、いつものように帽子のつばを下げ、口を尖らせた。

「俺、体力だけはあるからよ。だから、うってつけじゃねぇかって」

「甘くないぞ」

「わぁってるって!」

両手を腰にあてたベルフォルマは、沓脱ぎのあたりをにらみながら叫んだ。

「んなこた、承知の上さ。今の俺の根性じゃ、きっとすぐへこたれちまうだろうよ」

尖らせた口先しか見えないほどうつむいたベルフォルマが、
ガンガンと、俺の皮靴をつま先で蹴りながら言った。
人の敷地内にあるものを蹴るんじゃない。

「だからさ、今のうちに根性をつけとくのさ。
 そうとーキツいってことは、俺も分かってんだよ。
 けど、俺は、それを、今まで中途半端してきた俺への試練だって思うんだ」

うつむいていた灰色の目が、こちらを向いた。
出会ったときから比べたら、最近いい目をするようになったと思っていたが……。
今回は特別、熱さを持てあました若者によく見る、
ぎらぎらしているが迷いのない、本当にいい目をしていた。

「そんでさ、ここで、さらに根性をたたき直してもらって来る。
 どんなことがあっても、絶対へこたれねぇ、世界一根性のある男によ」

こいつなら、本当に、そんな男になれるだろう。
根拠はないが、確信はあった。
一回り大きくなったベルフォルマは、俺の目からも、どこか頼もしく思った。




その後、展示会に出展されたおかげでオーダーが微増したクライアント先との
飲み会をひかえ、腹をすかしてバイトから帰ってくるミルダのために
夕食をこしらえる材料を買いに最寄りのスーパーへ向かっていた時、
遠目に、こちらに向かって歩いてくる、見覚えのある姿を認めた。

やたらとフリルを効かせたワンピースに、華奢なデザインのピンヒール、
外出必需品が入るのかと疑いたくなるほど小さなバッグ。
一目で「私、これからデートなんですの」と知らしめるそんな服装の女性は、
お察しの通り、セレーナだった。

「あ、リカルドさん?」

先に声をかけてきたのは、セレーナのほうだった。
今にもヘシ折れそうな細いヒールで、なぜそんなに素早く動けるのかと疑うぐらいの
身軽さで、カッツンカッツンと俺に近づく。

なぜ、先に声をかけれなかったか。
答えは簡単である。正直に言って、一瞬声を失うほど、愛らしい容貌であったからだ。
なぜ俺はこんな女性では無く、一回り年下の男と添い遂げることを心に決めたのかと
一瞬ほの暗い葛藤を生んだが、そこは男の性ということでご容赦願いたい。

「デートか?」

「あら、分かります?」

微笑む口元が、薄いピンク色に華やいだ。
なぜ俺は男と……いや、もう、やめておこう。

「誰とだ?」

「オリフィエルさんと」

真顔で答えるセレーナに、思わず硬直する。

「あ、ひっかかった。ウソウソ、アルベールさんと」

「お前な……」

気の置けない仲とは良く聞くが、こいつとは気が抜けない仲だ。

しかし……アルベール?聞いたことがあるような、ないような名前だ。
先読みしていたかのようにセレーナが口を開いた。

「覚えてません?病院で、ミルダくんを見てらっしゃったお医者さんですよ。
 金髪で、眼鏡の……」

「あぁ……」

あいつか。そういえば、やたらと見目が整った男だった。
しげしげ観察する暇も余裕もなかったので、記憶がおぼろげだが。

セレーナは、なんとも悩ましげに腕を組み、首をちょこんと傾けた。

「私って、もしかして眼鏡好きだったのかしら……?どう思います?」

知らん。

「あ、ねぇ、リカルドさん、ちょっと眼鏡かけてみません?
 きっと似合いますよ。ミルダくんも……あら、この世の天国?」

「いらん」

セレーナは、それは残念、とそれほど残念そうでもない声色で言いながら、
ちらと、手首にかけた細い時計に目を落とした。

「急がなくていいのか」

「はい、余裕を持って二十分前に出たんですけど……、
 なんで、地元なのに、迷子になるかなあ」

本当に、なんでだ。

「途中で、大きな犬を飼ってるお宅があって……
 怖くって、迂回したんです。それが悪かったのかなあ?」

この、絶妙なヌケっぷり。
セレーナは、やはりセレーナであった。

「案内するか?分かるところなら、だが」

「いえ、大丈夫です。リカルドさんも、お忙しいでしょう?
 財布だけ持ってってことは……お買い物ですね?
 うーん、ミルダくんの夕御飯を作る材料を買いに……ってとこかしら。
 あら、大当たり?うふ、私って鋭いでしょう?
 それだったら更にお邪魔しちゃうわけにはいきません。
 美味しいご飯、作ってあげてくださいね。育ち盛りなんですもの」

しつこいようだが、セレーナは、やはりセレーナだった。
途中まで一緒した道の分かれ道、セレーナは振り返って行った。

「それじゃあ、行ってまいります」

「あぁ。せいぜい楽しんで来い」

心底楽しそうに、青髪の女は笑った。

「えぇ、せいぜい最近の医療体制とか、そういう話を楽しんできますよ。それじゃあ」




スーパーでハンバーグ用の買い物プラス三日分の昼飯と夕飯の材料を買い込んだ証として
ビニール袋を両手に満載しアパートの玄関先で見たものは、久々の姿だった。

「やっほー、リカルド氏。あれ、ナニソレ?買い物袋?主婦っぽーい!
 んでもですねぇ、エコじゃないねぇ、マイ買い物袋持っていないなんて……
 キャー!主婦の名が廃っちゃう!」

俺はハスタの脳天に拳骨をくれ、黙って玄関の鍵を開けた。

キッチンでハンバーグをこねている最中、ピンク色のあいつは、
ひたすら、もくもくと、ガラスの仮面を読み漁っていた。
静かなのはいが、静かなら静かで、気持ちが悪いものがある。

ハンバーグのタネを作り終え、冷蔵庫へ仕舞い準備万端、となったところで、
俺はようやくハスタにコーヒーを出してやった。

「女ってコエー!」

ハスタはコーヒーには目もくれず、そう叫んだ。

「七時には帰れ」

無駄に成長した長身が、机の向こうでむくりと(ガラスの仮面を頭に乗せながら)
起き上がった。

「別れたんじゃなかったの?」

僅かな文脈から、そこまで察するこいつの洞察力は褒めてやりたいが、
なぜそこまで出来て空気を読むことが壊滅的に出来ないのだろうかと不思議でならない。

「元鞘だ」

「アララ、そりゃどびっくり」

ハスタが、自分の瞼を上下にひっぱりながら、目玉を剥きだしにして言った。
いちいち、挙動が白々しくてムカつく。

「人生なんてどびっくりの連続だ。」

「そーゆうもんデスか?」

「そーゆうもんだ」

俺はほんのりと生肉とナツメグの匂いただよう指先に煙草を挟みながら、
ハスタの顔を藪に睨んだ。

「地元の駐在を困らせていた不良のガキも、
 なぜか服飾の学校に通うしな」

皮肉のつもりだったのだが、ハスタはニヤっと白い歯を見せた。

「そのガキが、見事縫製の技術を買われて、就職先が決まったって言ったらどうする?」

思わず、正面からハスタを見返す。

「本当か?」

ハスタはいつものニヤニヤ笑いを浮かべながら、テーブルの上に、
投げ捨てるように紙袋を放った。
いつもの、雑な包装の紙袋だ。
なにが入っているかは分かりきっていたが、俺はそれを開けた。
リング状のピアスが四つ、照明の明かりに反射して、鈍く、鋭く光った。

「これからもどうぞハスタ魔槍ゲイボルグ店をごひいきに!」

そんなブランド名だったのか、これ、と突っ込みを入れるより先に、
ハスタが立ち上がった。背中を向けて、首をこきこきと鳴らしている。
その瞬間に、なんとなく分かった。
これから、こいつは、どうにも言えなかったことを、言うつもりだと。

「あんたから貰った軍手、本当にあったかかったんスよ」

ハスタの首が、左右に大きく動いた。
先を言うべきか、迷っている、と俺は察した。
なんだかんだで、シャイなやつだ。

「百円かそこらなモンなのに、あんなにあったかいモン貰ったの初めてでサー。
 オレは、そういう服が作れる職人になりたくてここまで来まシタ」

そう言うと、ハスタは耳まで赤くなった。
これぞ天然記念物、とはいえ誰が得をするのだろうと一瞬のうちに考ている間に、
ぼそぼそと、ハスタの声が聞こえた。

「今までありがとうございマシタ、はい。マジ、感謝してるんス……はぇ」

数秒、沈黙が流れた。
俺はため息まじりに立ちあがって、ハスタの頭に、いつもどおりに、
思い切りゲンコをくれてやった。

「礼ぐらいハッキリ言え」

広い額を両手で押さえたハスタは、やはりいつもどおり、ニヤニヤ笑い、

「あざぁーーーーーッス!!!」

と叫ぶやいなや、玄関先から飛び出した。
キッチンに出しっぱなしにしていた、ひき割りの納豆のパックをさらって。

まあ……あれだ。
照れ隠しにも、人によって種類がある。そういうことなのだろう。




バイトから帰還したミルダが夕飯のハンバーグを平らげた夜、
俺たちは旅行に向けてトランクに衣服を詰め込んでいた。
旅行と言っても、オランダではない。そんな金はない。
箱根である。旅行といったら箱根。そんな時代の男だ、俺は。
ミルダは最初ぶーたれていたが、俺が駅前でさらってきたパンフレットを
見せるや否や、水道管工事後の蛇口の水流のような勢いで食い付いて来た。

「あー、楽しみだなあ、箱根!ロマンスカー、乗ってみたかったんだあ」

それはなにより。
本当に、しつこいようだが、ミルダはミルダだった。

俺がトランクに詰める前のシャツにアイロンをかけている最中、
例によってミルダがじゃれついてきた。

「やめろ」

危ないだろう、普通に。

「えへへへ、やーめなーい」

一瞬だけ、殺すぞ、このガキ、と口走りかけた。
アイロンがけをしている最中の人間にちょっかいをかけるな、駄目、ゼッタイ。

「なんなんだ」

俺はアイロンを定位置に収め、ミルダの顔をにらんだ。
あいかわらず、憎たらしいほど満面の笑顔だ、こいつは。
俺が仏頂面な分、バランスが取れているのかもしれんが。

「リカルドに一生、僕のシャツにアイロンかけてもらうんだって思ったら……。
 なんだか嬉しくってさ。うん、僕って幸せ者だよね」

「いや、それはお断りだ」

「えっ!?」

ミルダの顔が、みるみる真っ青になる。

「アイロンがけぐらい覚えてくれねば困る」

「もう!リカルドったらー!」

首元に、ミルダが抱きついてくる。
俺は、その背中をぽんぽんと叩いてやる。いつものように。
自分でも、めまいがするほどのバカップルだな、と思った。


ミルダと夕食を採った後、俺はようやく、今日唯一のスケジュール、
打ち合わせへと出発することになった。
着替えをしている最中、肩に冷たさを感じた。
小雨が窓から降りこんできていた。いつの間にやら、降っていたらしい。
雨戸を閉め、窓に施錠をし、カーテンを閉める間、俺は空を眺めた。
見事なほどの曇り空だ。

もし、これが物語の終わりなら、すっきりとしない幕切れだろうな。
ふと、そんなことを思った。
だが、俺たちの物語は、人生は、まだまだ、本当に、気が遠くなるほど、
歩き疲れて立ち止まるその時まで、ずっと続いていく。
あの重苦しく立ち込めた雲は、俺たちの行く末を暗示しているのかもしれない。

確かに、その通りだ。
仕事もプライベートも、まだまだ、もうひと頑張りしましょう、といったところだし、
この先待ち受けている障害や試練や苦難も、数え切れないほどあるだろう。
俺も、ミルダも、俺たちバカップルを支えてくれた、あいつらも。

靴を履きながら、玄関の脇にぽつんと立つ傘立てを見た。
俺は迷わず、あの日の傘を選んで抜き出した。

「それじゃ、行ってくる」

「はーい、行ってらっしゃい!」

それでも。
もう、雨の日が鬱陶しいなんてことは、二度と思わないだろう。
なんとはなしに、そう思った。




完




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