監禁
監禁



足元に”ルカ”がすりよる。柔らかな毛皮の感触。高い鳴き声を上げる子猫。 銀色の毛皮に翠色の目を持つその猫を、俺は”ルカ”と名づけた。 俺はふるびた本棚にもたれかかりながら”ルカ”を見下ろした。 ”ルカ”は足元をするりとすりぬけ、ベッドへ向かう。 長い尻尾にひっかかった鎖が短く揺れた。 鎖、そう、俺は今、鎖に繋がれている。 左足に巻きついた足枷から長い鎖が伸びていた。 鎖の先は部屋の中央に生えた柱に結わえ付けられている。 屋根と床に一体化したようなその柱は、頑丈だった。 実際に試してみたが、足枷も鎖も柱も、とても打ち壊せそうなものではない。 左足にがっちりとまつわる鉄の輪は、堅固な鎧のように俺の行動を制限した。 しかし、生活に困ることはなかった。 鎖は長く、そう広くない部屋の中のほとんどを行き来することが出来た。 この部屋には生活に必要なものがそろっている。 せまいが柔らかなベッド、机に椅子、暖炉、難しそうな本が並んだ本棚。 便所まである。窓がないことさえ除けば十分快適な部屋だった。 なにより、毎日、朝晩と二度食事を運んでくる人間――俺をここにブチ込んだやつだ―― がいるおかげで、俺はむしろ、グリゴリの里に滞在していた頃より健康的な生活をしていた。 とはいえ、足枷につながれているようなこの状況を快適とは呼びたくない。 きっかり鎖がぎりぎり届かない位置にあるドアには登り階段がついている。 恐らくこの部屋は地下にあるのだろう。窓が無いのでここがどこだかも分からないが、 常に暖炉の火が絶えないことから、寒い地方であるとはうかがえた。 テノスの辺りなのかもしれない。なにしろ俺が最後に触れ合った外界は、 テノス都市部のアルベールの屋敷の中だった。彼の屋敷に、俺が自ら訪れた。 グリゴリの里の解放に向けて、アルベールの力を借りるためだ。 グリゴリの里は完全な孤島だ。港もひとつしかない。 その港も、もとより軍事用にしつらえたもので、転生者を拘束する任務を失った今 この島に訪れる船など数ヶ月に一度あればいいものだった。 彼らは自給自足で暮らしていたが、まずしかった。 医者もおらず、埋葬を指示する聖職者すらいない。 食に窮し、不衛生な暮らしは病を呼んだ。 風穴の開いた家屋は修理する人手がおらず、なにより長らく島を閉ざしていたため、 彼らの多くは圧倒的に知識が足りなかった。 これが一番致命的だった。 彼らの生活レベルの向上には時間がかかるな、と俺は思った。 俺が懸案を抱えているうちにも、状況は刻一刻と悪くなっていく。 しかし、彼らには神の血が流れている。 人間との交配によっていくらか薄まっていたが、 それでも彼らが身体的に窮したときにはその力を遺憾なく発揮した。 つまり、死にたくても死ねないのだ、彼らは。 餓死寸前に追い込まれても、病に伏せても、 彼らの体は頑丈で、なかなか死に至らない。 俺が滞在している最中も、そういうものたちはまだいた。 いっそ殺してくれ、と呟いた言葉は、彼らの魂の慟哭なのだろう。 俺はグリゴリたちに、豊かな生活を与えてやりたかった。 体だけではなく、魂も豊かにするような暮らしを。 そのためにはアルベールの助力が不可欠だった。 彼に手紙を出してすぐ、俺は船でテノスの屋敷へ向かった。 広い応接間のソファに腰かけながら、俺はアルベールに、港を増設するための人員の依頼、 知識者と医者の派遣、そして目下のところの食料と医療品の贈与を懇願した。 飛行船が普及した未来の空輸ルートについてすら話し合った。 彼の権力を頼みのつるにするような俺の不躾な願いに、アルベールは頷き、 品の良い微笑みを浮かべながら、検討する、と言ってくれた。 俺はこの縁に深く感謝した。 話題を、輸出ルートにグリゴリの里を加える案をテノス上部へのかけあってくれるよう 依頼する方向に持って行こうとした瞬間、ドアが開いた。 見慣れた法衣をまとったセレーナが、盆に紅茶を載せて優雅に部屋に入って来る。 いつになく真剣な顔つきで話をする俺を軽くからかって、湯気の立つ紅茶を机に置く。 相変わらず世間慣れした食えない女だと思ったが、ともあれ懐かしかった。 しばらく見ない内にセレーナは更に美しくなっていた。 髪が少し伸び、ふとした仕草に落ち着きと色気が滲んでいる。 僅かな変化はあったが、見慣れた笑顔だった。疑うことなど考え付きもしなかった。 俺はあっさり紅茶を口にして、アルベールとの会話に専念した。 俺はこの幸運を逃すまいと必死だった。だからかもしれない、己の不調を見逃していた。 しばらくして、ふっと目の前が暗くなった。 異変に気付いたときにはすでに手足が重く、俺はソファから崩れ落ちた。 指先すら麻痺したように動かせない。声を上げることすら出来なかった。 猛烈な眠気が襲う。唇を噛み、しばらく抗ったが、無駄な抵抗だった。 いよいよ意識を失う瞬間、アルベールの顔が見えた。 その顔は複雑そうに歪んでいた。 目を覚ましたとき、俺はこの部屋のベッドの上に転がっていた。 すかさず銃を探すが、どこにも見当たらない。 コートも、靴もなかった。常にぶらさげていた薬莢も、 身にまとった細々とした小物すら失せている。 ベッドから飛び起き床に足をつけた拍子の違和感で、 俺はやっと自分が監禁されたのだ、と気付いた。 左足に嵌められた足枷を呆然と見下ろしながら、 俺に茶を手渡したときのセレーナの柔らかな笑みを思い出していた。 そう、セレーナが俺をここに押し込んだ。 薬で眠らせ、足かせを嵌め、鎖に繋ぎ、見知らぬ部屋のベッドに俺を放り込んだ。 理由も告げず、唐突に、それが当たり前のような顔をして。 俺は、自分の腕に巻きついた包帯を見下ろした。 俺の体の内部はおおむね健康だったが、表面にいたっては見る影がない。 あちこちに鞭傷が付き、ただれている。 二重三重に重なる真新しい傷が、俺を苦しめていた。 緩んだ包帯をしめようと手を伸ばした瞬間、見計らったようにドアが開いた。 その音を聞きながら、俺は、そうか、もうそんな時間か、と思った。 後ろ手にドアを閉めながら階段を降る軽やかな足先から目を上げる。 セレーナが鞭を片手に微笑んでいた。 「ぐぅ……!」 一層強い力が背を打ち、俺は呻いた。 柱に額を押し付けながら、歯を噛み締める。 今や俺を拘束しているのは足枷だけではなく、後ろ手に手枷まで嵌められていた。 俺の上着を脱がせ、手枷を嵌めた後、セレーナは俺を容赦なく鞭打った。 耐え切れず体が跳ねるたびに、ぎしりと肩の関節が軋む。 晩飯を運んでしばらくすると、セレーナは毎日欠かさず俺をいたぶる。 ひとしきり俺をいたぶり終えると、怪我の手当てをし、傷口に丁寧に包帯を巻いて去っていく。 そして朝、俺が目覚めるころには朝食を運んできて、しばらくして今度は晩飯を持ってくる。 それがここ数週間、毎日繰り返されていた。 「が…!…くッ…!」 俺は柱に顔をこすりつけながら、休む事無く俺を打つセレーナが、 早く飽きることを祈った。死ぬような傷ではないが、痛みはこらえようがない。 背中が濡れる感触がする。血が出ているのだろう。 セレーナの用いる鞭は太い。俺の手首の半分はあるのではないか。 最初にセレーナがそれを手にしてやってきたときには、 細い指先でつかまれたそれが何だか理解するのに数秒かかったほどだ。 何時間か、もしかしたら何分と経っていないかもしれないが、 背中を襲う激痛が止まった。終わったのだろうか。 ふう、とセレーナが疲れたような息を吐いた。 鞭が軽く跳ねる音が聞える。肩でも叩いているのだろう。 もはや目の奥に姿が浮かぶほど、見慣れた光景だった。 「しばらく休憩したら、また始めます。 ……それまで、息を整えておいてくださいね。 すぐに失神されても面白くないですから」 散歩の途中のような、気楽な声だった。


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