監禁17

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俺はレグヌムに来ていた。”ルカ”も一緒だ。
むろん置いていこうとしたのだが、俺が旅立とうとするとそれを素早く察し、
激しく暴れた。俺はそのたび”ルカ”をベッドの上に放り投げて部屋に閉じ込めたのだが、
とうとう”ルカ”が三枚目の食器を割ったとき、
俺の家の家事をとりしきっている女性が泣きそうな顔で頼んできた。
”頼むから連れて行ってくれ。これ以上皿を割られたら食事が出来ない”
俺は仕方なく、”ルカ”を懐に押し込み、船に乗った。


俺はレグヌムに着くと、真っ先にミルダの実家をたずねた。
すぐに母親と思われる女性がドアを開く。目元がミルダに似ていた。
俺は努めて慇懃に自己紹介をし、ミルダについて訪ねた。
彼は不在だった。ミルダの所在を問うと、ミルダの母親は、
食器でも洗っていたのだろう、濡れた指先をエプロンで拭いながら、
頬に手をあてて首をかしげた。

「今頃はお友達と遊んでいるんじゃないかしら。たぶん運動場のあたり。
……あらあら、まあ」

俺の懐の中に身をすべりこませていた”ルカ”が鼻先を出す。
彼女は目を見開き、すぐに笑った。

「おチビちゃんね」

家事で荒れた母親の指先で、”ルカ”の額をやさしくこする。
ミルダによく似た、あたたかい笑顔だった。




しきりに、茶でも出すから家で待つよう勧める彼女の申し出を丁重に断り、
俺は彼女の書いてくれたお世辞にも上手いとは言えない地図を持って、
運動場へ向かっていた。
波の音が響く場所にさしかかり、活気に満ちた騒ぎ声が大きくなる。
海のそばのグラウンドに、ミルダはいた。

運動場の上は少年たちでごった返していたが、日差しに反射する銀髪が目立ち、
俺はすぐに彼を見つけられた。
顔つきはあまり変わっていなかったが、背がずいぶん伸びて、体格がよくなっている。
それでもあいかわらず運動は得意ではないようで、
ボールを追いかける少年たちから離れた位置でまごまごしていたが、楽しそうだった。
恰幅のいい少年と痩躯の少年が彼をからかうが、
ミルダは笑って言い返した。

「苦手なんだよ」

俺はしばらく、そのまま彼らを眺めていた。



ミルダのチームが逆転ゴールを叩き込んで、試合は終わった。
少年たちは互いの健闘をたたえ合い、または友人を家に誘いながら、去っていった。
運動場から人がひける。辺りに人影はほとんど見当たらない。
ミルダはというと、なぜか友人たちの誘いを断り、運動場の端のベンチに腰かけていた。
膝の上に腕をのせ、何か考え事をしている。
そういう、どこかマイペースなところは変わりがない。



人気が完全に引けたころ、俺はベンチのそばまで歩み寄った。
ミルダが目の前にかかった影に気付き、なんとはなしに顔を上げる。
その目が驚きに見開かれた。

「リカルド」

「背が伸びたな」

ミルダがぱっとベンチから立ち上がって、俺の手を握った。
なかなか言葉が出ないようで、口を開けたり閉じたりしている。
息をつめて、揺れる瞳で俺の顔を、信じられないものを見るように見詰めた。

「嫌われたのかと思ってた」

「馬鹿」

俺はミルダの頭を小突いた。
痛いよ、と文句を言うミルダの目は、かすかにうるんでいた。

「忙しくてな。手紙の返事もできなかった。すまん」

俺は出来るかぎり自然を装って言った。
だが、声が震える。笑ったつもりの唇の端がひきつった。

「そうだったんだ。そっか、うん」

ミルダは俺の様子には気付かず、素直にうなずき、俺の手を自分の頬に押しあてた。
俺の指を確かめるようになでながら、目を閉じ、眉を歪め、震える息をついた。

「今日来てくれただけで十分だよ。……会いたかった。
でも、あんまり心配させないでよね。僕、気が弱いんだから」

冗談を言うような声色の中に、泣きそうな響きが含まれていて、俺は笑った。
あらためて、この少年が愛しいと思った。




どれぐらいそうしていただろうか、不意に懐の中の”ルカ”が、
きまぐれに体を動かし、足をつっぱねた。俺は懐の中に手をいれ、猫の腹を掴み、
地面にやんわり放り投げてやった。
”ルカ”は小さな足で器用に着地をし、おっかなびっくり周囲の状況を確認しだす。
唐突に現れた猫を見て、ミルダが、どうしたの、この子、と不思議そうにたずねた。

「拾った」

俺は素っ気無く答えた。
それから、俺は港のほうを指差し、

「ミルダ、あれはなんだ?」

と言った。

ミルダがそちらへ気を取られた瞬間、
俺はミルダの背に素早く腕をまわし、抱き締めた。
銀髪に鼻先を埋める。日差しのにおいがした。


「卒業、おめでとう」


腕の中の体が、硬直する気配がした。
ミルダはすぐに体の力を緩め、俺の背に手をからませた。

「うん」

泣きそうな声で、ミルダがつぶやいた。



俺は安堵していた。
安心して、このままミルダの体温だけを感じていようと思った。
俺は安らいでいる。陽にあたって、心があたたかかった。
ここには陽が差している。
陽が――




その瞬間、俺の体から現実感が麻痺した。
ぐにゃりと視界が歪む。


――あぁ、そういうことか


ミルダを抱き締めているはずなのに、俺の鼻は本棚のにおいを嗅いでいた。
かび臭い古い本。興味をそそられない書架。せまいベッドに真新しいシーツ。
鞭打たれ、皮膚が焼ける痛み。
鎖が揺れる音がする。
靴に囲まれているはずの左足に、重い鉄の輪を感じた。
足元に”ルカ”がすりよる。柔らかな毛皮の感触。高い鳴き声を上げる子猫。

ミルダのぬくもりが遠くなった。
腕に力をこめてみたが、どうしようもなく遠い。


――これがお前の呪いか、セレーナ


まどろむ幻覚の中で、俺とセレーナは背中合わせに立っていた。
ふっとセレーナの背中が離れる。
振り返らずに、笑いながら走り去る。
その姿がみえなくなる瞬間、青い瞳が寂しげに揺れた。
地下室の扉がゆっくりと閉まる。
俺は一人取り残され、立ち尽くしていた。




そして、あの地下室には、俺しかいなくなってしまった。


そこにミルダはいない。セレーナはいない。”ルカ”すらいなかった。

俺だけがいた。
書架とベッドと大きな柱の狭間に、永遠に俺一人だけが立っていた。








ミルダの頬にぽつぽつと液体が落ちる。
ミルダは何か言いたげだったが、黙って俺に抱かれてくれていた。


あの地下室の八ヶ月間。
そのにおいは、俺に永遠に染み付いて離れないだろう。









扉の外から、か細い”ルカ”の声が聞こえた。
そこでは銀髪の少年が猫を抱えて、いつまでもいつまでも座り込んでいるのだろう。




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