刻み付けること 後編






「は、ぁっ…」

肉を押し広げる抵抗は、押し進むというより、割り裂いて行くと比喩したほうがいいほど厳しい。
ハスタの額に浮いた汗が、ぽたりと俺のコートの襟に落ちる。
ほとんどない眉の間が、ぎゅ、と皺を作った。
人肌よりよほど熱い感触が、ゆるゆると俺のものを飲み込んで行く。

俺に馬乗りになりながら、むき出しの長い脚を持て余す様子と、
血に汚れたフリルで囲われた胸元が汗に光っている様がよく見えた。
信じられない光景だが、紛れもない現実だ。

「くっ、う…、う〜…」

やっと先端を全て飲み込んだとき、何かが断裂するような感触が肉に直接響いた。
ややあって、どろりと濡れた、ぬるい感触がまとわりつく。
俺の腕を掴む指に力がこもり、噛み締めた歯の間から、犬がうめくような声が漏れる。

(……出血したのか?)

俺はこのとき初めて、こいつが、男を相手にしたことがないことに気が付いた。
もしかしたら、あのハスタのことだ、女を相手にしたことすらないのかもしれないが、
どちらにしても知りようがないし、知りたくもない。

「いっ、つ…!…ん……」

血の滑りを助けにして、また腰が落とされた。
上下に腰を揺さぶりながら、少しずつ、少しずつ、俺のものを飲み込んでゆく。
ぬるぬると性器にまとわりつくものが血だと思うと、薄気味悪くなる一方で、
この男は、こういうときでさえ血と無縁ではいられないのか、と思った。
血流が早くなったせいだろうか、肩口の傷が、固まりかけた血をやぶって、どろり、とまた新しい血を排出した。

一方で、俺を無理矢理犯しているはずのハスタも苦しそうにしていた。
俺の喉元に突きつけられた槍を掴む手が、力を入れすぎて白くなっている。
数ミリ進んでは苦しげに息を付き、胸が上下するたびに、新しい汗が俺の服に落ちた。

ハスタが、この行為に性的快楽を感じていないことは明らかだった。

ならばなぜ、俺を相手にこんな真似をするのだろうか。
殺しにしか興味がない男が、ふと違うことをしてみようという気にでもなったか。
そのありがたい被害者が俺だったと?

(なぜ、俺が)

幾度となく考えたことだったが、答えはついぞ見つからなかった。
先ほどのハスタの言動から考えても、適当に目に付いた相手が俺だった、というわけでもないらしい。
俺だからこんな行為に及んだ、と考える方が自然だろう。


こんな状況なのに、悪い癖だ、考えてしまう。もっとも、形を変えた現実逃避なのかもしれない。
しかし、磔にされて動けない以上、俺に出来るのは憎まれ口を聞くことか、観察して、考えることぐらいだった。
そしてその憎まれ口は、今は開く余裕が失せている。
失った血の量は絶望的だろう。銃の照準を正しく合わせられる自信はない。
肩の傷は痺れるようで、早鐘を打つ心臓の脈に合わせて痛んだ。

(しかし、チャンスはある)

俺は諦めてはないなかった。
しかし、実行に移すためには、機を待つしかない。



どれほど経っただろうか、ハスタが俺のものを全て飲み込み終えたとき、やつは息も絶え絶えという風情だった。
どく、どく、とやつの中で脈打つそれを、弾力のある粘膜が食いちぎるように締め付ける。

「やっ、と、全、部…、ん、く…、だあぁ…痛ぇ…」

荒い息を付きながら、さも大儀そうにハスタは言ったが、それでもぴたりと俺の喉元にすえた刃は揺らがなかった。
巨大な槍の切っ先は、まんじりともせずに俺の喉元と行動を圧迫し続けている。
流石の集中力と言うべきだろうか、俺が妙な素振りをすれば、すぐさま首をかききる準備があるのだろう。
ハスタが、俺を見てニヤっと笑った。

「マ、ジ、で、…痛いんですけど。
リカちゃん、でかいねぇ〜。見掛け倒しじゃないわ。
やっぱ、り、ハッ…、逆にしとけば、よかった、かしらん」

俺は返事をしなかった。
喋る余力がなかったのが大体の理由だが、それ以上に、妙なことだが、やつにかける言葉が見つからなかった。
理不尽な暴力に晒され、犯されているのに、どういう心の推移だろうか。自分でも分からない。

それでも、今すぐこいつを突き飛ばして脳天に弾をぶち込みたい気持ちには変わりがない。
可能ならばすぐに遂行していただろう。
だが、困ったことに、俺は頭の半分で逃げ道を探しながら、今俺に跨っている男のことを考えていた。
つばを吐きかけたとき、お前は狂っていると罵ったときの、感情失せた目を思い出す。
お前は狂っている、と罵ったとき、こいつは肯定したのだ。自分もそう思うと。

こいつは、自分が異常だと自覚しているのだろうか?
この行いの異常性も?

「…そこさ、ツッコむとこだから。言っとくけど、オレが粗チンって意味じゃ、ねぇぞ〜」

俺の無言をどう取ったのか、ハスタが軽薄に笑いながら、手を伸ばしてきた。
ハスタの片手が、するりと俺の上着をたくし上げる。
すぐに手が触れてきて、自然と腹が脈打った。
俺の肩を押さえつけたときのような、石のような冷たい手ではなかった。
むしろ熱っぽかった。こいつも人間なんだな、と当たり前のことを思い出す。
我ながら血色の悪い肌の上を、血と泥で爪の中を濁らせた手が奔放に這い回る。

「うっ、はっ…、すげー傷。オレ以上かも」

ニヤニヤ笑いながら俺の体をまさぐっていた手が、一際大きな傷跡の上で止まった。
五年ほど前に付けられた銃創だ。射線が数センチ横に逸れていれば心臓を射抜かれていただろう。
目にするたびに己の不覚を戒めさせられるそれを、ハスタの掌が押し込むように撫でた。

「危ねぇなあ。よく死ななかったデスネ〜」

白い斑点が浮き上がる視界の中で、ハスタの顔が近づく。
赤い舌をのばし、俺の顔に飛び散った血を辿るように舐め取る舌の動き。
犬に舐められるようなくすぐったさと、相手がハスタということの嫌悪感を同時に感じる。

「やめろ…」

久しぶりに口を付いて出た言葉は、やはり拒否の言葉だった。
ハスタが、はっ、と嘲笑うように息を吐いた。

「人に突っ込んで、勃てといて、説得力ないりゅん」

それとも、とハスタは続けた。

「男の性、ってやつかい。死に掛けるとぶっ勃てちゃう習性ってやつ?
それはそれは、お気づき申し上げませんで。……だったら、こうすりゃあもっとヨくなるよな」

言って、ハスタが槍を軽く横に揺らした。
ナイフで動物の皮を切るようなものだろう。ぷつ、と皮膚が裂けた。
あと少し進めば頚動脈に届く位置に、刃が潜り込む。

「…っ」

命そのものに刃を突きつけられているような恐怖と、耐え難い違和感と異物感。
首筋から抜けるような悪寒が走った。
一瞬後に訪れる死を予感して、指先の感覚が白むように失せ、体の中央が浮つく。

「ハッ…その顔。すげーイイ」

俺の顔を間近で観察していたハスタの瞳が、急速に陶酔を帯びた。

「ぞくぞくしてくる。あっ…、ヨくなってきた、かも、オレ」

ハスタがぶるりと背筋を震わせ、連動するように熱い肉が蠢いた。
蕩け切った吐息を吐いて、ハスタの体が緩慢な浮き沈みを始めた。

「あ、はっ…、あ…、あっ…」

「…ッ、…く…、う…」

ハスタの体が揺れる度に、不安定に槍の先も動く。
数ミリ筋を切り裂いたと思えば、気まぐれに刃を引き、また肉にもぐりこんだかと思えば、違う場所を引き裂く。
揺れる刃は生命線をかすりながら、少しずつ皮膚をズタズタに引き裂いていった。

(性質が、悪すぎる)

こいつほどの怪力があれば、槍の先などぴくりとも動かさずに済むだろうに。
ハスタは性交そのものより、俺の反応を観て快楽を得ている。
その証拠に、やつの指先の動き一つ一つに肝を冷やし、顔を青くしているだろう俺をつぶさに眺め、
目の奥の陶酔の色が濃くなった。顔から耳にかけての皮膚が、酔っ払いのように赤く染まっている。

「あっ、あ、あ、オレ、気持ちいい、あっ、気持ちいいよ、リカ、ルド氏、…んっ、あ」

鼻にかかった喘ぎ声が、ふさぎようのない耳から入り込む。
ぐちゅぐちゅと、血を滑りにする卑猥な音も。
やつがこぼした粘着質な液体が、俺の腹の上に垂れ落ち、溜まりを作っていった。

「はっ…、は…、…っ」

ぎちぎちに締め付ける肉が性器にもたらす強制的な快感に、失血とは違う眩暈がした。
汗の匂いが濃くなる。血と痛みを伴いながら、歪んだ形の性交が続く。



ストレスと屈辱で吐き気がした。
傭兵として生きている以上、生死の境目など数え切れないほど味わってきたが、
長時間、こんなにも直接的な方法で、死の恐怖にさらされたことはない。
やつの気まぐれが俺の命を奪うのが先か、出血多量で死ぬのが先か、という状況だ。
逃げ出すチャンスを見出すまで体が持つか、不安になる。

しかし、それでも、と俺は思った。
こいつに情けを請うぐらいなら、死んだ方がましだ、と。
それは俺が生きてきた27年の人生が思わせていることかもしれないし、違う要因からかもしれない。

傭兵として、依頼を完遂するまでは死ぬわけにはいかないのは確かだ。
俺個人の感情としても、男に馬乗りになられながら殺されるような、情けない死に方をするなど真っ平ごめんだった。

こんなときに、普段は意識していない、前世のことを思い出す。
愚かなことだが、俺の目の裏は、潔く散ったヒュプノスの最期を映し出していた。
人のために地上に落ちた前世の兄の誇り高さも。
国と民のために、または地上と人間のために殉じた彼らをばかばかしく思う一方、
心のどこかで、一抹の尊敬の念も抱いていない、といえば嘘になるだろう。

俺は目を強く伏せ、俺の人生から得たプライドと、前世の記憶に残る誇りを瞼の裏に映した。
そうしておいて、憤りと恐怖と、腰からせり上がってくる屈辱的な快楽を、努めて自分の中でかみ殺した。
自然に、うわ言のように何度も何度も俺の名を呼ぶハスタの声が、遠ざかってゆく。




「なに、考えてんだ」

不意にハスタの声が聞え、俺は目を開けてしまった。
それほどまでに真剣な声だった。いつもの、本意を悟らせない口調ではなく。

「オレの、下で…オレに、突っ込み、ながら、…んっ、く…なにを考えてん、だよ」

俺は半ば驚いて、半ばぎくりとして、ハスタの顔を見返した。
俺の顔を真っ直ぐに見詰める赤い目は、不可解なほど熱がこもっていた。
怒っていると言うよりは、むしろ不思議そうに。

「…何も、考えてはいない」

「オレとヤって、オレに命握られて…至れり、尽くせり、ハスタフルコースだぜ?」

熱に赤く染まり、肩で息をしながら、その声は冷ややかだった。
妙に抑揚のつかない声。この男の口からは、聞いた事がない響き。
腰を動かすのも止めて、俺を観察することに集中している。

「…ここまで、されて…、どうして違うこと考える余裕、あるんだよ。
……信じらんねーぜ、あんた」

「な、にが…」

言いたい、と続けたかった俺の言葉をさえぎって、すい、と俺の胸に指を置いた。

「オレは馬鹿じゃないって、言ったろ。
自分に突っ込んでる野朗の胸の中ぐらい読める子なのさ、オレは…」

俺は、少なからず混乱した。何が言いたいのだろう。
俺は疲れていた。瞼と唇が重く、言葉を吐くことさえ苦しい。
だが、俺はやつの言葉を無視しなかった。
単純に、やつの言いたいことが気になってもいたし、会話をすることで、
この状況を脱するチャンスになるかもしれない、と考えていた。

「だったら、なんなんだ。お前に、どう関係がある」

俺の言葉を、ハスタは鼻で笑った。

「少なくとも、オレの本意じゃない」

「本意だと…?」

「そっ…オレの本意。あんたには分からない、オレの本意さ」

唐突に、俺の首元から刃が離れる。
血が糸を引き、ぷつりと切れた。つう、と俺の首を伝う赤い筋に加わる。
直接的な死の脅しから解放されたのも束の間、ハスタは槍を逆手に持ち直すと、刃を下にして構えた。

「だから、恨むなら、…自分を恨めよぉ?後で訴訟起こすの、ナシね」

左手に、ぬるついた何かが重ねられた。
汗ばみ、じとりと濡れたハスタの手だった。
骨ばった熱い手が、一つ一つ確かめるように指を折り、大事そうに俺の手を包み込む。
恋人でも相手にしているような慎重な手つきだ。
全身に悪寒が走った。予感と言ってもいいかもしれない。

「やめ…!」

反射的に振りほどこうとした瞬間、掌全体に衝撃が走った。
重量のある鈍器で殴りつけられたような重い打撃感。
赤いものが、びしゃりと視界を染めた。
赤い色の向こうに、曲線を描く平たい鉄の板が目に入った。

巨大な槍が、俺の掌を貫いていた。――ハスタと手を重ねたまま。
肉が割れ、骨が砕ける。
二つの手が地面に縫われ、二人分の鮮血が迸った。
ハスタが、手の中の槍をくじる。骨がひび割れる音が響いた。

俺は叫んだ。
全身が魚のように痙攣する。
明滅を繰り返す赤い視界の中、ハスタの体が、びくんと跳ねた。

「あ、はぁッ…!」

己と、俺の手を刺し貫く槍にすがるようにして、腰を揺り動かす。
じくじくと骨と肉を揺さぶる衝撃に、
肩の傷の比ではない。
指が残らずちぎれてしまったのではないかと思えた。

「ぐ、あっ、あっ…!あぁ…!」

同じ痛みを感じているはずのハスタは、興奮しきった様子だった。
夢中で腰を振って、俺を犯し続けている。
痛みと快楽に喘ぎ、熱にうかされた目で、俺を見詰めながら。
俺が苦痛に浮かべる些細な仕草を見咎め、その度に嬌声を高くした。
容赦なく、自分の掌ごと、骨をくじり続けながら。


今この瞬間だけ、俺は一切の冷静さを忘れた。
過去も未来も、前世も、これからやるべきことも全てが陽炎のように遠くかすみ、消えてゆく。
肩を貫かれた痛みと、掌の骨がくじける痛み、皮膚を刻まれた痛み、
肉がぶつかり合う音と、卑猥な水音と、汗の匂い、血の匂い、目の前で跳ねるハスタの体。
そして、下腹部からわきあがる、痛みの中で僅かに感じる、強制的な快楽だけが俺の全てになった。
嫌悪感も、やめろ、と思うことすら、逃げ出そうと思うことさえ忘れた。
あれほど感じた、死への恐怖心すら遠い出来事のように虚ろだった。
今のこの一瞬一瞬を、痛みに喘いだ。
何かを考えるひまなどなかった。体の変化は急激で、俺の全てを徹底的に圧迫した。

ときどき、その圧迫感すら遠くなった。夢の中の出来事のように、現実感が失せて行く。
そして、しばしば電撃のような痛みに意識が呼び戻される。
散々痛みに喘ぎ、唐突にそれらが遠くなって、また唐突に現実に引き戻された。
俺の意識は、綱渡りのようにぐらぐらと覚束なく、暗い場所と明るい場所を行き来していた。
永遠にそれが続くかと思われた。
遠くで、男の喘ぐ声が聞えた。俺の名前を呼んでいるようだったが、わからなかった。



「あ、あ、あ、ん、く、ふぅっ…!」

何度目か、意識を取り戻したとき、痛みに紛れて感じたのは、腰の奥でふくらんだ快楽だった。
全身が痺れるような感覚。俺は息を乱しながら、腰を跳ねさせていた。
焼けるように熱い肉の中で、どく、どく、と陰茎が脈打つ。
しばらくして、俺は自分が吐精しているのだ、と気が付いた。

「うあ…!あ、あっ!…………ッ!」

腹の中に精液を注ぎこまれながら、ハスタはびくびくと全身を振るわせた。
間近に見えるむき出しの脚が、かたく張り詰めている。
俺の腹の上に、ハスタの精液が飛び散った。
ハスタの唇の端から、つ、と唾液が滴り落ちる。
二人の荒い息が、どちらのものともなく混ざり合った。


その瞬間、掌を抉り続ける手が止まった。
俺を圧迫していた現実から、俺が考えるべき現実を思う余裕が、一瞬生まれる。

俺は最後の気力を振り絞り、意識を繋いだ。
霧散しそうな精神を掻き集め、集中させる。

ずる、とハスタの中から、萎えたものが引き抜かれた。
どろりと滴った生暖かい精液が、俺の陰茎を塗らす。
焦点の曖昧なハスタの目が、何か語りかけようとするように俺を見た。
その口が開かれようとした瞬間、ほのかな紫色の光が、地面から迸った。

一瞬にして光が急速に収束し、俺を中心に地面を流下し、複雑な紋様の陣を描いた。
発光する陣は完成するやいなや、緑色に移り変わり、太陽光に似た色が真上に立ち上がる。
急速に痛みが消え失せ、血の気が戻り、意識がはっきりとしてゆく。

俺が使える唯一の、傷を癒す天術だった。
ヒュプノスが使える唯一の、と言ったほうがいいかもしれない。
今の俺には発動が難しく、実戦で用いることは出来ない技だったが、
この窮地から抜け出すには充分な効果を果たしてくれた。

俺はすかさずハスタの槍を掴み、癒えて行こうとする掌の傷から、刀身を引きずり出した。
筋骨と癒着しかけていた鋼は少なからず肉を引きずり出したが、構ってはいられない。
槍の先を地面に突き刺し、やつが動くより早く銃剣を肩から引き抜き、身を起こし様、喉元に突きつける。

やつは動かなかった。動けなかったのか、わざと動かなかったのかは、俺にはわからない。

「……ふぅん。へ〜、そお」

刃を突きつけられながら、まるで頓着せず、唇に滴った唾液をぺろりと舌で舐め取る。

「ピロー、トークぐらい、サービスしてくれても、いいんじゃないの?」

「黙れ」

俺は銃剣を持つ手に力を入れた。ぷつ、とやつの喉仏が裂け、玉を作る血が鎖骨に垂れ落ちる。
ハスタはぴくりと唇の端を持ち上げた。
見れば、やつの掌の傷からも出血が止まっている。
未熟な技は、敵味方の判別も付かず効能を発揮してしまったのだろう。

「黙りますん」

ハスタは薄笑いを浮かべながら、首をあらぬ方向に傾けた。
その拍子に銃剣が喉を切り裂く。胸を伝って腹まで滴り落ちる血を、どうでもよさそうに眺めていた。

「なぜこんなことをした、とはもはや聞かん」

「オレはしゃべりたい」

「黙れ。即刻、俺の前から失せろ」

「失せろ、ね……」

ハスタはしばらく考えるように自らの濡れた下腹部を眺めていたが、不意に顔を上げた。
何を考えているか分からない、赤い目が俺を見る。

「本当に、気にならない?オレの本意」

言いながら、ハスタは、自ら銃剣の先に喉を押し付けた。
ぷ、ぷつ、と肉を裂いて行く感触が直接伝わる。
小さく血が噴出した。

「教えてやろうか」

秘密でも囁くようなひそめた声色と同時に、ずぶ、と肉に刃がめりこんだ。
少しずつ、銃剣が皮膚の中に飲み込まれてゆく。
あふれた血液がハスタの裸の胸を濡らし、腹に流れ落ちる。
それでも、ハスタはまるで何事もないように、俺に顔を近づける。

「それはね」

言うが早いか、ハスタが頭を前に倒した。
銃剣が奥深くまで、やつの喉を貫く。
反対側の皮膚から、赤く染まった銃剣の先が飛び出していた。

自害ではない。急所を逸れた位置に自ら突き刺したのだ。
俺は咄嗟に、自由を失った銃剣を手放した。
ハスタは素早く体を反らせ、地面に突き刺さった槍を引き抜いた。
土を舞い上げながら、槍の切っ先を薙ぐ。

俺は後ろに転がってそれを避けると、銃を探すため、視線をあたりにめぐらせた。
すぐに見つかった。無造作に、土の上に転がった銃。やつより俺のほうが近い。

だが、容易に動くわけには行かない。
まだハスタの間合いの中だった。
俺は地面に片手を付けたまま、身構えた。

銃と己の位置、そして己とハスタの位置を目算する俺を尻目に、やつは無頓着だった。
構えもせず、首から銃剣を生やしたまま、槍の石突きで自分の靴をひょいと拾い上げていた。

「肉を切らせて窮地大脱出、だポン。ぐぇ…!げっ、おぇっ…!」

ハスタが、ずるりと喉から銃剣を引き抜いた。
ゴミでも捨てるように、ぽん、と背後に放る。



俺はふと、妙だ、と思った。
あれほどまでに熱心に俺を見ていた目が、今は他人を見るような目つきだった。
それでも、他の人間を見るときの、石ころを眺めるような目とは違っていたが、
そのどこにも、あの、浮かされたような熱は見えない。
おおむね、いつもの――この行為以前のハスタの目だった。

俺は調子を狂わされていた。
あれほどの目に合ったのに、憎しみも怒りもやり場をなくしていた。

ハスタは、用は済んだとばかりに、ふらふらと、独特の歩き方でその場を去っていった。
どこにも、別れを惜しむような風情は見えない。
下半身をむき出しにしたまま戦場を歩く姿は滑稽だが、ハスタは気にもしていない様子だった。

俺はやつの姿が消えるのを眺めながら、その背中に銃弾をぶちこんでやることを忘れていた。
我ながら愚図な真似だ。
五分前に戻れるなら、迷わず銃を取ってやつの脳漿をぶちまけていただろう。


(一体、なんだったんだ)

戦場に一人取り残され、俺はしばらく、呆然と立ちすくんでいた。
まるで狐に化かされたような気分だった。

――狐?狐に化かされて死に掛ける人間はいない

自分の甘さに反吐が出そうだった。
口ではやつの言葉を拒否しながら、俺は答えを知りたかったのだろう。
なぜ、あんなことをしたのか。なにを考えていたのか。なぜ俺だったのか。
その疑問はいまだ、俺の中で、怒りと同時に渦巻いている。

だが、全ては過ぎ去ってしまったことだ。
答えを知る機会は、永遠に訪れはしないだろう。
俺の心に残った疑問も、時とともに薄らいで行くに違いないからだ。

俺は深く息をつき、服の乱れを直した。
幾多の足で蹂躙され、掘り返された土の上にぽつんと落ちた銃剣を拾い上げる。
もともと何度も人体を貫く強度を備えていない鉄は、無残に歪んでいた。
こうなったら、新しいものを買ったほうが早い。
俺は銃剣を、再び地面にうちやった。そして、じっと銃剣を眺めた。
乾きかけた血が張り付いた刃が、沈みかけた日を反射して、赤く光っている。

(ハスタ)

冷酷で、残虐で、ふざけた言葉で相手を翻弄する、ただの殺人狂。
ガキの頃から今まで、いや、生まれてこの方殺人しか生きる興味を持たなかった男。
近寄るのもおぞましい、関わり合いになりたくない人間。
人の評価は、おおむねそんなものだろう。

そんなやつでも、ふとしたときに、思うことがあるのだろうか。
自分の存在を誰かに刻み付けたい、と思うことが。
刻み付けたい、と思う人間がいることが。
のらりくらりと言葉を交わすのではなく、本当の言葉で語りたいと思うこと、
体を重ねて、自分だけを見て欲しいと思う、人間らしい心が。

そして、そうしたいと思わせる人間が現れたとき、殺し合いしか術を持たない人間はどう動くのだろうか。
無理矢理体を縛り付けて、跨ってみせるのか?
剣を肩に刺し、掌を槍で貫きながら、一方的に行為を強いるのか。
お眼鏡にかなった不幸な被害者は、わけの分からない内に死に掛けているのだろう。

俺は自然と、深いため息を吐いていた。

――お前は、分かりにくいんだ

片手で額を覆う。
完全には癒しきれなかった傷跡が、ずくりと痛みを発した。
この傷もやがて、いつかは乾いて、体中の傷の一部に加わるのだろう。
それでも刻み付けられた傷跡は、一生消えることはない。






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