前例
前例 1




 これは夢だ。
 ソルディアは吹きすさぶ風の中に立っていた。けぶる砂煙。乾ききってひび割れた大地からのぞく大小さまざまの鉱石。見たこともない景色。

 そんな中、冴え冴えと青い月光に照らしだされた異形が数十匹、彼女にかしずいている。ワインをぶちまけたシーツを頭からかぶったかのように紫一色で、目も鼻も口もどこにあるのやらわからないくせに、こうもりのような翼と尻尾を持つ、正真の怪物たちである。そしてどういうことか、彼女は、いや、彼女が主観を借りている男は、このモンスターどもをかけがえのない部下だと思っているのだ。
 
 なんて荒唐無稽な夢だろう。
 自分にこんな想像力があったなんて驚きだ。
 自嘲してみるソルディアの意識はしかし、どんどん片隅に追いやられてゆく。彼女の自我はポケットに入れるためにくしゃくしゃに丸め込まれた羊皮紙のように縮小され、際限なくちぢこまり、やがて小さな点になった。

 彼女の意識を塗りつぶした男の心は張り詰めていた。
 これから、勝ち目の薄い戦いへ赴くのだ。

 ソルディアは彼の姿を……夢の中の自分の姿を思い出そうとしてみた。
 すると、桶底の水がわっと流れ出すように、きわめて明瞭にうかびあがった。

 青白い肌。そう、肌がとても白い。まるで血が通っていないようだ。樫の木のように痩せた体躯をぐるぐると包帯が覆っている。いや、違う、違うだろう。これは装束だ。ぴったりと体に張り付き、体さばきの邪魔にならない戦装束。同じ色のフードを頭に戴いていて、その影から、爛々と青く燃える双眸がのぞいている。
 目の前の毛布お化けたちも相当な異形だが、この男だって、とても人間とは思えない。

 男は化け物たちに激励を発し、別れを告げた。
 分の悪い戦いだ。何人が生きて帰れるだろう……? ……彼の心は痛んでいる。それはソルディアの心が痛むことと同じだ。
 彼の心、彼が愛用する大鎌(サイズ)を握る手触り、力む腕の筋肉、フードの先にぶらさがった金飾りの音……それらすべてが、確かなにそこにある感触でソルディアに流れ込むのだ。
 
 大鎌――そう、大鎌。点の意識がふつふつと自我を取り戻す。
 農業に用いる鎌とは似ても似つかない巨大な凶器、身の丈ほどもある大鎌が二対。それを細身の男が、自分が、軽々と担いでいる。

 ほら、やっぱり夢だ。このひょろ長い腕で、どうしたらこんな獲物が持てるのか……。
 それに、こんなものを持っているなんて、まるで死神のようではないか。縁起でもない。

 死神?

 そう、私は死神だ。この鎌は人間の魂を刈り取るための道具でもある。
 勤めを果たさなくてはならない。
 天上のため、部下のため、自分のため、そして、兄のために……。
 夢の中の青年はそう思っている。ソルディアも同じことを思う。
 二人の中の境界は、もはやほとんどなくなっている。
 青年は勇み足でひび割れた大地を歩く……。

 と、世界がぐにゃりとゆがんだ。
 あぁ、目が覚める。
 親元から引き離される子供のような気分だ。
 これから彼はどうなるのだろう?
 彼は……自分は、立派に勤めを果たせただろうか?
 
 しかし、捻転する世界は窓から差し込む陽の光でもたなびくカーテンでもなく、次のシーンを映し出した。

 
 どう、と白いばけものが倒れる。
 その向こう、崖を背に、戦場を俯瞰しながら、男が立っていた。
 巨大な剣を担いだ男。無骨な巨躯に似合わない優美な髪が、黒い甲冑の上を流れる水のように這っている。そして、その流れをかきわけて、ねじり曲がりながら天を目指す角の先は焼き入れした直後の鋼のような赤。

 たくましい筋骨を覆う甲冑の背中は不動の山岳だ。不意打ちなど成功するはずもない。ただそこにあるだけで場を制する王者の貫禄が、背部から斬りかかることを許さない。

 その男が、今、剣に帯びた金色の燐光と同色の瞳で振り返った。
 私は武者震いをする。 

 この男だ。
 私はこの男を打ち倒しに来た。
 多くの部下の命を犠牲にして、やっと一騎打ちに持ち込んだのだ。
 
 ともすれば気圧されかける心を奮い立たすため、私は声をしぼり出した。

「逃げないとは大した胆力だ。それとも、足がすくんで動けないか?」

 私の挑発に、目の前の男は少年のような好奇心を目に映して笑った。

「誰かと思えば、……ス、……か、兄……は、…………で……」

 まぶたの裏が明るい。そろそろ起きなければ。



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 カーテンを貫く朝日のまぶしさに、ソルディアは目を覚ました。

 クリーム色のシーツを足でよけ、身を起こす。
 鹿の皮でこしらえた敷き物に、窓枠の影が十字に落ちている。
 燻されたテーブルの上の果物皿。中身の残った酒杯。瓶。水差し。二組の椅子。食器棚のとなりにぶらさげた内臓を抜いた鳥とうさぎ。壁に張り付いた鏡と、たてかけた猟銃。 
 いつもの、彼女の、日々の営みを映し出す風景。

 荒涼とした景色も、ワイン色のばけものも、銀髪をなびかせる武人もいるはずがない。

 頭に今朝の夢と昨日の酒が残っている。

 死神。

 目が覚めてみて、とたんにばかばかしくなった。
 なんと途方もない想像だろう。
 無意識の願望ということか。あと数年と数えないうちに三十路にもなろうという女が、よくも少女のようなたくましい妄想を持ったものだ。

 ソルディアは部屋の四分の一を占領する広いベッドから抜け出し、水差しから直接口に含んだ。胃と喉を洗う水分が、酒の名残と夢の余韻を流す。頭はもう、外出の用意のほうへ飛んでいた。もうすぐ、生活必需品がなくなる。この季節中に溜めこんだ毛皮や燻製肉を交換しに行かなければならない。

 それにしたって。
 水差しを置きながら、ソルディアは思った。
 せっかく神や悪魔になってみるのだったら、どうせなら、見目麗しい天使か女神にでもなればよかっただろうに。その美しさに比肩しうるものなしと謳われた、大地の豊穣神のように。死神で、男で、しかも覚悟を決めて戦いに赴くなど、甘いロマンチシズムの欠片もない。

――もう女でもないということか 

 ソルディアは、鏡の前に立って、不精に伸びた黒髪をかきあげた。細い髪の毛がするすると指先を通り抜けて、額のよぎり傷をくすぐり、すぐに頬を覆い隠す。こんなところばかり女らしくなくてもよいと思うのに、けれど切る気にはなれなかった。
 腰まで届かんばかりの髪は無尽蔵にシーツに散らばり、二人用のベッドの空白に滑り込む。まるで最初から、そのためにもうけられたスペースであるかのように。
 
 そのことが、さみしくなくなった。だから、もう、自分は女ではないのだろう。ソルディアはそうひとり決めし、今朝見た夢についても納得した。

 窓の外、森林の隙間から空をうかがう。少し雲が出ているが、流れは早くない。過ごしやすい日になりそうだ。まずは腹ごしらえ。それから広場へ向かおう。いや、その前にヴィクトリア夫人が訪ねてくる。さっさと空きっ腹をやっつけてしまおう。たしか、夫人にもらったパンが残っていたはずだ。それと、ひとかけらのチーズ。今日は猟にはでかけないから、朝からぶどう酒を飲んだってかまわないだろう。一応水で薄めておくか。
 
 計画を立ててしまうと早かった。ソルディアはてきぱきと朝食を整えはじめた。
 二人分の用意をしてしまう癖も、二年前になくなっていた。




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