We are THE バカップル33
33



「お前は、俺になにか話したいことはないか?」

「は?なんで」

なるべく自然体を装って聞いてみたのだが、充分不審だったようだ。
ビニールに商品を詰める手を止めて、灰色の目が訝しげに俺を見返す。
若干の決まりの悪さを感じながら、俺はオレンジジュースのペットボトルを袋に入れた。

「いや、なに、最近、打ち明け話を相談される機会が多くてな。
ミルダとアニーミのものは聞いたし、ラルモのはこれから聞く予定だ。
せっかくだから全員コンプリートしようと思ってな」

ラルモの場合は、悩みと言うよりネタバラしになるだろうが。
ベルフォルマは実に嫌そうに顔を歪めた。

「なんだそりゃ。おりゃビックリマンシールじゃねぇぞ。人の悩みをなんだと思ってんだ」

「別に野次馬的な興味で聞いているわけじゃない。
他のやつのは聞いて、お前だけ手付かずなのもどうかと思っただけだ」

それもそれで、不純な動機だとは思うが。
ベルフォルマは、余計なお世話だなあ、と呟きながら、ポテトチップスを袋に押し込んだ。
ギリギリまで詰め込まれた袋から、チョコの箱が零れ落ちそうになっている。
それを手で直しながら、ベルフォルマはふっと息を付いた。

「ま、いっか。そうまでいうなら話してやんよ。何が聞きたい?」

「お前の話したいことでいい」

「そう言われてパッと打ち明け話が出てくるほど不満たらたらに人生送っちゃいねぇよ。
大体、お悩み相談ってな相談を持ちかけるほうがあらかじめ話を用意しとくもんだろ。
いきなり振られても思いつかねーよ」

そんなものか。滅多に相談を持ちかける側になどならないから、どうにも実感がわかない。

「じゃあ、聞いたことには答えるのか?」

「ハッ、いいぜ。あんたの胸の中だけにしまっておけるってならよ」

俺とベルフォルマは菓子とジュースで腹いっぱいにしたビニール袋を持って、詰め台から外れた。
そのまま駐車場を横断しようとするベルフォルマを呼び止めて、入り口近くに申し訳程度に作られた
喫煙所へ足を向ける。
ビニール袋を足元に置くと、ベルフォルマもそれにならった。
簡易野外お悩み相談室はここで決まったようだ。

「ベルフォルマ、お前、なんでグレてるんだ?」

「グレてぇからに決まってんだろうが」

ベルフォルマは一瞬しらけた表情を浮かべ、間髪をいれずに言った。
おそらく親や教師から何度も何度も質問されてきたので、食傷気味なのだろう。

「おおかた非行に走る原因に深刻なもんを見つけたいんだろうが、そりゃ前時代的ってなもんだぜ。
どいつもこいつもやりてぇことをやってるだけだ。俺もな。無駄だぜ、おっさん」

確か中坊時代のハスタも同じようなことを言っていた。
全国の不良が同じような考えなのか、ハスタとベルフォルマが似ているのかはわからないが。

「喧嘩や授業をサボることが、お前のやりたいことなのか?」

「突っかかった言い方すんなよ。けど、その質問にはイエスだ。
昔っから暴れん坊だったてのはあったけどよ、最近はやることもなくなっちまったしな」

「昔は他にやりたいことがあったんだな?」

「あぁ。あんたも知ってんだろ。忘れたか?」

俺は胸ポケットから煙草の箱を抜き出しながら、一瞬考えた。
あれはほんの一週間程度前。クイズ大会のとき。ベルフォルマの趣味。

「剣道か」

ベルフォルマは軽く頷き、

「三年になって退部して、ヒマでヒマでしょうがねぇから、二番目に好きな喧嘩をやってんのさ。
それもまあ、ここんとこ馬鹿やってたおかげでご無沙汰してるけどよ。
ずっと剣道ばっかやってきたからよ、それをいきなり取り上げられたらヒマぁもてあますさ」

「進路のためだろう」

アニーミから聞いたところによると、部活動というものは遅くとも
三学年の夏大会の後には退部するものらしい。
ベルフォルマは夏まで残らず、三年に進学したと同時に辞めたのだろう。
そんな制度があるのは、むろん、受験や就職活動のためだ。
俺は真っ直ぐ警察学校に行ったため、高校生が企業に自由応募できるのかどうかは知らないが、
それにしても手続きやらなんやらで手間取るものだろう。
もう八月。普通なら受験準備や就職準備でおおあらわのはずだが、
ベルフォルマにそんな気配は一切見られない。

「……まあな」

ベルフォルマは帽子のつばを押し下げると、決まり悪そうに眼をそらした。
俺の視線から逃げるように屈んでビニール袋を掴む。

「もう行こうぜ。聞きたいことは聞いたろ」

「まあ、待て。一服ぐらいさせろ」

「……話は、終わりだろ?一人で吸ってけよ」

「話は終わりだが、一服は終わってない。五分で終わるから付き合っていけ」

ビニール袋からゆっくり、指が離れた。ため息をつきながら、背を壁にもたらせる。
俺はそれを見届けて、一服点けた。
煙がゆっくりと流れている間、二人とも何も喋らなかった。
煙草が三分の一ほど削れたころ、さりげなくベルフォルマが言った。

「なあ、本当のとこ話していいか?」

「好きにしろ」

「重い話になるかもしんねぇぞ」

「ふん」

俺は軽く笑いながら、煙を吐いた。
一瞬噴き溜まった煙が風に散らされて消えてゆくのを待たず、ベルフォルマも笑った。

「あんたって、そういう奴だよなあ」

ベルフォルマはぐーっと伸びをしながら、一歩二歩前へ出た。

「俺さ、実は、将来の夢もなりたいもんも、なーんもねぇんだよ。
ガッコ卒業した後どう生きてくかなんて、さっぱり思いつかねぇ。ありがちだろ。
ラジオのお悩み相談で二日に一回は読み上げられてるくだらねぇ悩みさ」

伸ばした腕を解放させ、ぶらぶらと揺らしながら、力が抜けたような息をついた。

「親はどこでもいいから大学に行けって言ってる。それが一番いいんだろうなってのは俺にもわかる。
でもさ、いざ勉強しようとすると、ふっと思うんだ。このまま勉強して、受験して、
大学行ってリーマンなって。そのころの俺は俺でいられてんのかって。
そう考えると、勉強なんざやる気しねぇ。全部無意味なことに思えんだ。
ただ、だからってどうするって考えも一個もありゃしねぇんだよ。
専門学校の一覧も見てみたけど、どこもくだらねぇところにしか思えなかった。
いや、きっとどこもいい学校なんだろうけど、俺にはどこ行ったって真面目にやってく自信がねぇんだ。
海で、イナンナと話したのもそれさ。あとは俺だけだとよ、進路希望出してないの」

海の家で昼飯を食っているとき、イナンナとベルフォルマだけ席を外したことがあった。
そのときのことを言っているのだろう。あのときは、大したことじゃない、としか言っていなかったが。
ベルフォルマは続けた。

「俺はさ、あんたがた大人が聞きたがるような、切迫した悩みなんざなにも持ってやしねぇんだよ。
家は金持ちだし両親は仲良しだし、兄貴は意地悪いのも多いけど、別に気になんねーし。
欲しいもんはねぇし足りないものもねぇ。なんの不満もねぇ。毎日楽しいよ。
剣道して喧嘩してあんたらと馬鹿やって、その間はムチャクチャ面白いし充実してたよ。
ただ、やることなくすとこのザマだ。目の前にぶら下がってるモンがねぇと一歩も動けやしねぇ」

ベルフォルマは振り向いて、笑った。
自嘲しているような馬鹿にしているような、微妙な表情だった。

「あんた、知ってるか?ルカのやつさ、医者になりてぇんだとよ」

「知らなかった。そんな気はしていたが」

「いいよなあ。あいつなら、きっとなれるぜ。お似合いじゃねぇか」

ベルフォルマは一層複雑そうに顔を歪めた。

「俺はそれを聞いたとき、心底うらやましかった。ルカのやつがとんでもなく輝いて見えたよ。
あんたやハスタのこともうらやましいよ。夢もってその職業に就いたんだろ?」

ベルフォルマはそう言ったが、ハスタも俺も、最初からこの道を選んでいたわけではない。
迷走する時間があって初めて道に足を踏み入れて、そこからも長い時間を経て歩いてきた。
苦難や苦悩など数え切れないほどぶつかってきた。けして楽な道じゃなかった。これからもそうだろう。
夢を持つ者には持たない者の以上の苦しみを背負うことがある。

だが、それをこいつに言って、何になるだろう。
そんなことは、こいつも分かって言っているはずなのだから。
スタートラインにすら立てない自分に苛立っている少年に、夢を持つ苦しさを説教して満足するほど、
愚昧の輩ではないつもりだ。

黙り込んだ俺をどう思ったのか、ベルフォルマは帽子に手を差し込んで頭を掻いた。

「恵まれた環境に甘えてるって思うだろ。俺もそう思ってんだから、遠慮するこたねーぜ。
所詮こんなことは、差し当たって問題のないガキしか言えねぇヌルい悩みさ。
あんたの耳に入る価値なんざねぇ、金持ちのボンボンの戯言だ。ルカやイリアとは違うんだ、俺は」

あいつらの悩みも、そうそう切迫したものではなかったがな。
そう思ったが、言わなかった。意味がない。

「悩みに貴賎はない」

ベルフォルマが口をつぐんだ。

「尊い悩みなんてのは、例えばどんなものだ。重い病魔に侵されている、親が離婚しかけている、
人を信じられない過去がある、失恋した、金がない、そんなこところか」

煙草を灰皿に押し付けてねじり消し、茶色く変色した水に落とす。

「高所が怖い、朝起きられない、夕飯の献立が思いつかないことは唾棄すべき悩みなのか。
そういう小さな悩みは、尊い悩みとやらに頭を垂れて道を譲らなければならないのか。
くだらん。人が抱える悩みに解決してゆく順番こそあれ、上下などない」

それに、と俺は言った。

「お前は話し出す前、重い話になるかも、と言ったな。お前にとっては重い悩みだということだ。
なら、それでいいじゃないか。くだらんものだとこき下ろす必要はどこにもない」

ベルフォルマはそれきり黙り込んだが、立ち去ろうとはしなかった。
俺はもう一本煙草を抜き出すと、火を付けずベルフォルマの顔の前に示した。

「お前、煙草を吸ったことは?」

ベルフォルマは、ない、と答えた。

「そうか。煙草はな、こう、ライターというやつで火をつけて、煙を吸うわけだが」

ライターを箱の中から引っ張り出してみせると、ベルフォルマが目を細くした。

「…誰でも知ってるよ。馬鹿にしてんのか?」

「黙って聞け」

一言置いて、煙草に火をつける。ニコチンを摂取したばかりの舌が、食傷気味の反応を示した。
二本の指ではさんだ煙草を軽く揺らす。

「このタールとニコチンを服有した葉を紙で包んだだけの筒は、それはそれは恐ろしくてな。
中毒性があり、食後やイライラしたときなどは…わからんか。
まあ、こいつを無性に吸いたくなるときというのがあるんだ。
だからといって急いで吸いすぎると…」

口元にフィルタを寄せ、深く、何度か吸った。ほんと味わうひまもなく口内から煙を排出する。
みるみる内に削れる薄っぺらい紙の向こうの赤黒い火種が、灰色に燃え尽きることなく露出した。
煙草をくわえたまま、赤い部分を指差す。

「こう、火種の部分が長くなる。こうなると少し面倒だ。うかつに吸殻が落とせなくなる。
ぼろっと芯から落ちてしまってもう一度火を付け直さねばならんし、第一危険だ。
俺はこれのせいで背広に穴をあけたことがある」

ベルフォルマが、かすかに笑った。

「馬鹿みてぇ」

「喫煙者など全員馬鹿だ」

煙草を口元から外し、僅かに仰ぎ見る位置へ掲げる。
やっと先が燃え尽きた火種が、吸殻に変わってほろほろと風に崩された。
灰色の目が煙草の穂先をみつめる。

「こうなったときの対処法はな、しばらく放っておくことだ。
火種が先から燃え尽きるのをただゆっくりと待って……吸殻を落とす」

1センチほど燃え尽きるのを待ち、灰皿の上で紙筒を叩く。
火種を残したまま、吸殻だけが濁った水の中へ消えていった。

「欲しいものを急いて手に入れようとしてもうまくいかない。
動くのと待つの、どちらも重要なことなんだ。お前は今、待ちの状態なんだろう」

「……待ち?」

「あぁ。しばらく待ってみればいい。契機というのは確実にやってくるものだ。
卒業しかり、親の尻叩きしかり、自分の精神状態しかり。
葉を燃やし尽くした火種が放っておけば落ちて服に穴を開けてしまうように、
やりたいことがやらねばならないことに変わる時期が、必ずある」

「それがやりたくないことだったら、どうすんだよ」

「そのときはそのときだ。
せいぜい自分の意思でやろうと思えるうちに、やりたいものを見つけることだな。
心配しなくともそのうち、なにか神様みたいなものがお前の頭にぽんと夢を降らせてくれるさ」

「ハッ…馬鹿。人事だと思って」

「人事だからな」

俺とベルフォルマは顔を突き合わせて、笑った。
会話が途切れた瞬間に、ぷつりと緊張も途切れてしまったようだ。
吸い差しの煙草を再び揉み消して、腕を組む。

「さて、俺の言えることはこんなもんだ。参考になったか?」

「全っ然。アホみたいな例え話だった。もっと薀蓄っぽいの期待してたのによ」

どうやら、馬鹿からアホに乗り換えたらしい。

「アホみたいで悪かったな。これ以上は逆立ちしたってなにも出んぞ。
俺はお前のために就職先を斡旋したり専門学校のチラシを掻き集めてやったり、
そういうしちめんどくさいことをするつもりは毛頭ないからな」

へいへい、とベルフォルマが手を振る。
それから正面に回って、俺の顔を悪戯っぽく覗き見た。

「あんたの元に悩める子羊が飛び込む理由がわかったぜ」

俺は眉を上げた。そんな理由など、考えたこともない。

「バランスがいいんだ」

「バランス?」

「あぁ。深刻になりすぎず、突っ込みすぎず、説教しすぎず。
なんかな、あんたは踏み入り過ぎないって確信がもてるんだ。
一緒に落ち込んだりもしねぇし、ひきずられもしねぇから。ある程度無関心っつーか」

「フン。そういう意味では、俺は冷たいのかもしれんな」

ベルフォルマはあっさり、そうかもな、と肯定した。

「でも、その冷たさが心地いいってこともあるんだぜ。
熱あるときにホッカイロ額に当てられてもムカつくだけだろ」

「お前もなかなか例え話の才能があるじゃないか。
せめて、淡水魚を海に放しても死んでしまう、ぐらいに美麗に例えて欲しいものだ」

帽子の少年は鼻白んだ息を付き、再び、へいへい、と手を揺らした。
俺は時計を見た。六時過ぎ。昼飯を食ったのが12時だったから、今頃飢えたガキどもが、
雛鳥よろしくピヨピヨと騒いでいるだろう。特に、赤い雛鳥が。

「そろそろ戻るぞ」

「オッケイ!」

ベルフォルマはおどけたように握りこぶしを作って、ビニール袋をがちゃこらと肩に担ぎ上げた。
元気は回復したようだ。若さのせいか、俺が話を聞いてやったおかげか。
後者であったなら、まあ、多少は嬉しいこともない。

六人分の冷やし中華とペットボトルが入っているビニール袋に手をかけたとき、

「あ、ちょい、ちょい待ち。忘れるとこだった」

ベルフォルマが止めた。

「なんだ、買い忘れか?しっかりしろ」

「だぁら、違うっつの」

帽子のつばを後ろに回し、色素の薄い両目をよく見せる。

「リカルドの話も聞こうと思ってたんだ」

「俺の…話?」

首を傾けるように頷く。「あぁ、あんたの話」

「いっつも聞いてるばっかじゃ、それこそ不公平だろ。
これでも二番目に年長なんだ。話ぐれぇ聞いてやるぜ。
つーか俺が聞かせてるだけじゃシャクなんだよ。なんか話せ」

「俺は別に悩みなどないぞ。ミルダのこと以外は」

そしてミルダのことを相談するつもりもない。家中の恥は外へ持ち込まず、だ。
ベルフォルマが噴出す。

「そいつぁ聞きたくねぇなあ。うひ〜、生生しそうだ。ホモの私生活」

「だろうと思ってな」

「まあ、あんたが話したいなら別にいいぜ。つーかマジで何でもいいんだけどよ。
さっきあんたが言ってたような、朝弱いだの夕飯の献立が思いつかないでも。
あれ、全部あんたのことだろ?じゃねぇとスラっと出てこねぇもんな」

「むっ…」

俺は言葉につまった。
なるほど、こいつは馬鹿ではないらしい。妙なところで、聡い。
しかし、何でもいいと言われても困る。夕飯の献立も『何でもいい』が一番困るのだ。
先ほどベルフォルマがぶちぶちと文句を言っていた気持ちが、今なら分かる。
それを見越してのことだったのだろう、ベルフォルマは意地が悪そうに笑っていた。

「ほら。言われてぱっと思いつくもんじゃねぇだろ」

「わかった、わかった。お前の言って欲しいことはこうだな」

俺は半ば苦々しい思いで、この逆転した立場の流れに乗ることにした。

「今度はお前が指名しろ。お前だけの胸に留めておけるなら、なんなりと答えてやる」

ベルフォルマは勝ち誇った顔で、自分の額の真ん中に指を当てた。
すっと斜めになぞり、今度は俺の額を指差す。

「それ。いまどき、そんなとこに傷こさえてる奴なんざそうそういねぇぜ。
獲物はなんだ?ポン刀か?ナイフか?酔っ払ってトイレにでも突っ込んだか?」

事故という選択肢がないのがこいつらしいが、それにしても、三番目は本当にやりかねんから困る。

「残念。ビール瓶だ」

「あぁ?なんだそりゃ。酔っ払って喧嘩でもしたのかよ。
あんた、人のことグレてるとか言える筋合いじゃねぇよな〜ほんとに」

要するにそれが言いたかったのか。
俺は首を振って、暫し迷った後言った。

「違う。捜査に入った先の男にやられたんだ」

「へ?捜査?」

きょとんとするベルフォルマの顔を見て、俺は先ほどより長く逡巡した。

「俺は警察官だったんだ。ガサ入れに行った先の手違いで、額を切られた。
男はすぐに相棒が取り押さえたんだが、そのせいで気が緩んでいたんだろう。
今度は子供に刺された。まだ小学生だった。彼は今も施設に入って暮らしているらしい」

ベルフォルマの顔から笑みが消えた。
ここらへんで話を止めるべきだ、と思ったが、口は勝手に喋っていた。

「だから、腹にも傷がある。鏡を見るたび、風呂に入るたび、思い出す。
あのとき俺を見ていた怯えた目を。見てもいない裁判の様子を」

話してゆくうち、自分の弱点を晒すような、あるいは不幸自慢でもしているような嫌な気分になったが、
口は止まらない。ベルフォルマも、こんな気分だったのだろうか。

「それでもまだマシだ。地元にいたころは毎晩夢を見た。
何を見てもあの少年のことを思い出した。だが、もう終わったことだ。
今は、警察官という職業に就いていたことを誇りに思っているし、命があったことに感謝している」

話は終わり、とばかりにビニール袋を持ち上げたが、ベルフォルマは動かなかった。
俺を見る目には隠しきれない気後れが宿っていた。
それを見て、俺はこの先を言ってやりたくなった。

「ベルフォルマ、俺は、その後すぐに警察官を辞めた。
職を変え、住む土地を変え、全てから逃げた。俺は東京に逃げに来たんだ。
こっちで運良く仕事を見つけて、それから一度も地元に帰っていない。
ミルダと暮らし、お前の悩みを聞き、飯を作ってやってたのはそんな男だ。
だが、そんな男でも、多少なりともお前達の力になれたと自負している。
そんな男でも今生きて、仕事をして、たまには馬鹿をやって、のうのうと暮らしていけている。
……俺の言いたいことが、分かるか?」

ベルフォルマは答えなかった。
俺は息混じりに笑って、やつの背中を叩き、歩き出した。
すぐに、ベルフォルマが隣に並ぶ。
戸惑っていたが、哀れむような気配はなかったのがせめてもの救いだ。
本当に、こいつは聡い。

「なあ、リカルド。俺さ」

多少、遠慮がちにベルフォルマが切り出した。

「なんか、こんなの不謹慎かもしれねぇけど」

俺は黙って先を待った。
ベルフォルマの目が、真っ直ぐ俺を見る。

「俺、あんたと会えてうれしいよ。あんたがここに逃げてくれてよかった」

面食らった。
柄にもなく心が揺れる。とんだ殺し文句だ。

「…珍しく、素直だな」

「あんたは素直じゃねぇみたいだけどな」

「ありがとう、と言ったつもりだったのだが」

「……どこが。聞こえねぇよ、馬鹿」

ベルフォルマは帽子のつばを前に回し、ぐっと押し下げて顔を隠した。
照れているらしい。照れ臭いのはこちらも同じなのだが。
初めてお見合い相手と顔を合わせた雰囲気だ。
男二人そろってなにをしているのやらと思ったが、満更悪い気分でもなかった。



「……あっ」

なんとなく気まずい空気が流れたまま帰宅する途中、ベルフォルマがやにわに立ち止まった。
一点を見つめたまま、どこか呆けた表情をしている。

「…あ〜、そうかそうか、そうだよなあ…。……プッ、ヒャヒャヒャヒャヒャ!」

抱腹絶倒、けたたましく笑い出した。
恥ずかしさのあまり気が触れたのだろうか。躁鬱というやつか。

「なんだ、いきなり」

「いやあ〜、あのさぁ〜、…ブッ!ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!
あ〜もうダメ!おっさん、最高!ダヒャヒャヒャヒャ!ヒーッヒッヒッヒッヒッヒ!」

……意味がわからん。俺は一気に興ざめした。

「楽しそうでいいな。一生そこで笑っていろ」

笑い袋のような男を置いて歩き出すが、ベルフォルマはまだゲラゲラと笑い続けていた。
俺はうんざりしながら振り返った。

「……おい」

「ごっめんごっめん」

ベルフォルマが、ヒーヒー言いながら駆け寄る。
俺の肩に手を置いて、くくくっ、と喉から笑いの残滓をこぼした。

「思い出したんだよ」

「何をだ」

「アンジュのやつが、何科で看護士やってたか」

数秒、凍りつく。

「そ〜だよなあ〜。時期的にも合うもんなあ〜。ヒッヒ…、大変だねぇリカちゃん。
いやいや、大した内臓のご病気で。そりゃあなかなか直らないわな、うん」

「……お前」

「どんな気分よ?女にそんなとこ見られんのは?
ヒャヒャ!変われるもんなら変わってやりたいわ〜マジで俺…イデッ!ぬおお…!」

力いっぱい、脳天に拳骨を食らわせる。
比喩ではなく力いっぱいだ。俺にハルクほどの腕力があっても、おそらく力いっぱい殴ったであろう。
今度は本気で置いて行くつもりで歩く。
背後から悶絶の声に混じって「舌噛んだ!」叫ぶ言葉が聞えたが、無視した。

二本目の電柱を過ぎたころ、ベルフォルマが追いついてきた。
懲りずに、まだニヤニヤしている。

「なあ〜、おっさん!」

その声に妙な馴れ馴れしさを覚えて、俺はやつを睨んだ。

「なんだ、足りんか?いくらでもくれてやるぞ、ん?」

「違ぇよ!マジで謝るから機嫌直せって!」

ベルフォルマが両手を挙げて降参のポーズを取り、俺は拳を降ろした。
わざとらしく胸を撫で下ろす仕草がまた癇に障る。
「大ぇした話じゃねぇんだけど」と前置いて、ベルフォルマは言った。

「警察官って、どうやったらなれんだ?」

再び面食らった。怒りが一時的にどこかに吹き飛ぶ。

「お前、まさか」

「あーあー、勘違いすんなよ!道の一つとして考えとくだけだ。
俺は今待ちの体勢だからよ。ちっとでも目に入ったもんに興味持たねぇとな。
どこでこの俺様の才能が花開くかわかんねぇし、ま、お試しってこった」

俺の語尾をかき消す勢いで、ベルフォルマがまくし立てた。

「そ・れ・に」

言葉を失っている俺の顔を、ビシッと指差して笑う。

「あんたの後輩になるのなんかなあ、まっぴらごめんだぜ!
手加減なしに殴りやがって。これ以上馬鹿になったらあんたのせいだからな」



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