We are THE バカップル
37




「ちょっとお話があるんですけど、よろしいですか」

セレーナがそう言ったとき、俺はまず、あぁそういうことか、と思った。


世間話もそこそこにお開きにしたときには、三時を回っていた。
レシートを見て目玉が飛び出そうになったのを覚えている。
頼んだ覚えのない商品名がずらずらと並んでいて、隣のテーブルと間違えていないか確認を取ったほどだ。
しかし俺の希望は空しく散った。
鳳翼熾天翔とかいう妙ちくりんな焼酎の名前が刻まれている紙切れが
俺が自ら支払い義務を課した金額を事務的に明示しているのだと悟ったとき、
財布の中の諭吉と食い逃げによってもたらされる社会的地位の失墜を天秤にかけたぐらいだ。

流石に悪いと思ったのか、オリフィエルとセレーナが折半で出してくれたおかげで助かった。
おごる約束は有効ですからね、と釘を刺すのを忘れていなかったが。
本当にいらんことを言った。
数時間前にタイムスリップして調子こいている自分を思い切りぶん殴りたい。

ともかく。問題はその後だ。
居酒屋を辞していざ解散という段取りになって、オリフィエルが便所に行きたいと言い出したのだ。
待っていてやるから早くしろと言うと、オリフィエルは困ったように笑い、
長引きそうだから先に行っていてくれ、それと女性に夜歩きはさせないでください、と言った。
つまり、俺にセレーナを送って行けと言ったのである。
その時点で、俺は若干訝しく思っていた。
多少待たせても他人である俺より、叔父であり、家も近いオリフィエルが送るのが筋だと思ったからだ。
問いただす前に当のオリフィエルはさっさと店の中に戻って行ってしまったので、真意は聞けなかった。
閉じた扉の中から、お客さん、忘れ物ですかあ、と声が聞えた。

それから五分ほど。
セレーナと肩を並べ、時折ぽつぽつと会話を交えながら民家の間を歩いている最中のことである。
くるりと立ち止まったセレーナは、俺の顔を見上げてこう言った。

「ちょっとお話があるんですけど、よろしいですか」

それを踏まえての、あぁそういうことか、だ。
この状況は示し合わせたか命令したかは知らないが、意図的な状況らしい。

「なんだ。俺に関する話か?」

よもや”実はあなたのことが好きだったんです”なんて少女趣味たっぷりな上に返答に困る話題を
期待していたわけではないが、二人きりという状況は不気味だったので、慎重に言葉を選んだ。
言っておくが別に俺が自意識過剰というわけではない。
”あとは若いもの同士で”ってな具合に二人きりにされたら、誰でも少しぐらいこういった想像をする。

「さっき、前世の話をされていたでしょう」

拍子抜けしたと同時に、気恥ずかしさを覚えた。
不覚を取られたと言ってもいい。ここでその話題が出るとは思わなかった。

「小学生の妄想の産物の話ならしたが」

俺はやはり慎重に答えた。宗教がらみの話だと思ったからである。
無宗教者に宗教の話はキツいし、勧誘ならもっと困る。
俺の葛藤をよそに、セレーナは人懐こげにころころと笑った。

「そう、それそれ。その妄想の産物話。覚えてらっしゃったなら話は早いです」

リカルドさん、ところどころ記憶が飛んでいるようでしたから、とセレーナは指を組みながら言った。

「私も同じなんです。私も自分の前世に前世をつけていました」

俺はそこで初めて、こいつが妙なことを言っているのだと気が付いた。
キリスト教というやつは、輪廻転生を認めていないはずである。
もっとも俺はカトリックとプロテスタントの違いすらよく分からないのだが、
確かにそんな話を聞いた覚えがある。
セレーナの信心深さの程度は知らないが、妙といえば妙である。

「どうなさいました?」

いつの間にか黙り込んでいたらしい。
俺の顔を不思議そうに見詰めながらセレーナが聞いた。
勘が鋭く弁が立つ女の目。苦手だ。

「あぁ…」

適当にお茶を濁そうとも思ったが、誤魔化しきれる自信がなかったので正直に話した。
途端、セレーナは腹を抱えて笑い出した。体が小刻みに揺れる。
時間帯を考慮してか控えめだったが、許される状況なら爆笑していたであろう。

「ごめんなさい。リカルドさんって、色々考えながら話してるんですね。
もっとお気楽になさったらいいのに」

俺は眉をひそめた。
セレーナは目じりの涙を細い指で拭いながら微笑んだ。

「とにかく、勧誘でも告白でもないので安心していただいて結構ですよ。
そうね、ただの昔話です。独り言だとでも思って聞いてください」

セレーナは腕を組んで、うん、何から話したらいいのかなあ、と唸った。

「私は前世で聖女だったんだー、っていうのはお話しましたよね?」

俺は頷いた。

「リカルドさんの前世の前世は死神でしたよね。シニガミ。
でも、なんで死神なんでしょう。子供のころから顔色が悪かったとか?
ちょっと悪いものに憧れる気持ちは分かるけど、死神ってチョイスは解せませんね」

「文句は二十年前の俺に言ってくれ」

なんでそんな設定にしたのか今では当の俺ですら分からないので、
あれこれ言われても答えようがない。

「で、昔話のほうはどうなった?」

水を向けると、セレーナは頷き返した。

「ちょっと恥ずかしいですけど、私の考えた設定をお話します。
私の前世は聖女ですけど、その前世…つまり前世の前世は男の人だったんです。
その人っていうのが、とっても強い将軍を助ける軍師でね。
一見ボーっとしているんですけど、すごく頭がよくて、分からないことなんて何にもなくって…。
まあ、設定です。そんな設定だったんです」

セレーナはそこで言葉を止めて、人差し指を俺の顎の下にぴたりと添えた。

「あなたは十秒後にあっと驚きます」

予告されたドッキリほど驚き辛いものはないと思う。

「その軍師さん。私の前世の前世の名前は…オリフィエル、っていうんです」

それでも俺は、少しだけ驚いた。
腰に両手を当てて、セレーナはあかるく笑った。

「おっかしいでしょう。オリフィエルさんは生きてらっしゃるのに。
でも、子供の考えることですから。そう、子供の発想です。だから…」

ふっと俺から目をそらし、遠くの電柱を眺める。

「今でこそ寝癖モジャモジャの冴えない人なんですけどね。
その頃のオリフィエルさんは今よりはきちっとしていらして。
頭がよくておしゃべりが上手でいつも堂々としていて、王子様みたいだった。
私がそう見えてただけかもしれませんけど、それでも白衣を着てる姿なんて、
うん、ちょっとカッコよかったな」

セレーナは目を細め、自分にだけしか見えていないものを眺めた。
俺には想像すら難しい、昔日のオリフィエルの姿。
それはセレーナだけが見ていい思い出なのだろう。
俺は電柱から目を外した。

「だから私、オリフィエルさんになりたかったんですね。
でも、そんなこと無理だってちゃんと分かってたから、前世の前世なんてものを持ち出した。
ありていに言うなら…思春期の歪んだリビドーが意識表層上に発露した結果、かなあ」

「それは…」

違うだろう、と思った。セレーナはおそらく、ただ単に、

「わかってます。私、きっとオリフィエルさんのことが好きだったんだわ。
叔父と姪って結婚できないんだって聞いたとき、すごくガッカリしたもの」

そう、好きだっただけなのだ。
だからそれは、おかしいことでも異常なことでもないと思う。
どんな形で発露しても、好意は好意だ。
思春期だとかリビドーだとかいう単語を使って説明すると、とたんに生臭くなるだけだ。

「そのうちオリフィエルさんは結婚して、子供が出来て。
あぁ私このまんまじゃ駄目になっちゃうって思ったから、神に頼ったんです。
神は輪廻転生を否定しているから…」

セレーナは暖かい思い出を見るのをやめて、俺へ振り返った。
セレーナは俺の顔を見て苦笑した。

「誤解しないでくださいね。これは私の問題。
慰めも癒しもいりません。あなたにお節介を焼いて欲しくて話したんじゃありません」

自分がどんな表情をしているのか分からなかったが、
そう言われるぐらいには何か言いたげな顔をしていたらしい。
でも、ただ一つだけ、とセレーナは言った。

「相談って字を思い出してください。相互に談話するって書くでしょう?
自分だけじゃ相談はできないんです。相手がいるからするんです。
相談はするほうだけに意味がある問題じゃないんです。
打ち明け話も一緒。ほら、打って、開けるってことでしょう。
それって、こう…コンコンって。話を聞いてくれる人の心をノックして。
私の話をあなたの中に入れてくださーい、ってお願いすることだと思って」

セレーナは、コン、コン、と言いながら俺の胸を拳で突付いた。

「だから、そういう話ってね、聞いているほうにも影響があるんです、きっと。
私の話を聞いて、リカルドさんは何か考えたはずでしょう。
そして少しだけ、ほんの少しだけ五分前のリカルドさんとは変わった。
もし私の話をすっかり忘れてしまっても、あなたは五分前のリカルドさんには決して戻れない。
私も五分前の私には絶対に戻れない。そういう意味で、するほうとされるほうは等価な存在なんです」

それが影響というものです、とセレーナは呟いた。

「それが良いことなのか悪いことなのかは、今は誰にもわかりません。
でも、願わくば…と思っています。みんな、思っているはずです」

あなたに自分のことを話した人はみんな、と付け足す。
セレーナは肩の荷が降りたようにふうっと息を吐いて、胸を押さえた。

「私はリカルドさんに、そういうことが言いたくて自らの恥を晒しました」

「難しい話だ」

「うぅん、だんぜん簡単なことですよ。難しく考えると難しくなるだけ。
木を綺麗に彫るのだってリカルドさんにしてみれば簡単かもしれませんけど、
私はぶきっちょだから難しいもの。同じことです。
分かるときが来たら、きっと分かります」

うまく煙に巻かれた気がする。

「聖職者みたいだな」

セレーナはクスクスと笑って首を振った。

「とんでもありません。神の僕として話すならもっと気が効いたこと言います」

それから首を傾けて、悩むように眉根を寄せる。

「だから今のは、そうね、ちょっとお姉さんぶってみたかったんです。
あの子たちに出来なかった分、まとめてリカルドさんにゴー、みたいな?」

「慈悲深いことだ」

「余計なお世話でしたか?」

俺は曖昧に唸って、数秒逡巡した後、少しな、と答えた。

「だが、どちらにせよ俺は五分前の俺には戻れんのだろう。
なら、お節介かどうかは関係ない。
結果の良し悪しは結果が出てからでなくては分からない」

そうだろう、と俺が言うと、セレーナはそういうことです、と微笑んだ。
それから、十分程度肩を並べて歩いた。
会話はなかったが、気まずくはなかった。
セレーナを取り巻く雰囲気は、喋らないことを許容してくれる。
なるほど確かに聖女だな、と俺は思った。

別れ際、そのことを言うと、セレーナはまたもや笑い出した。
ひとしきり笑った後、わざと怒った顔を作り、

「もう、誰に向かって口を聞いてるんですか?
私の前世は聖女ですよ。聖女っぽくて当たり前です」

リカルドさんもクレー射撃でもしたら金メダルがとれるかもしれませんよ、とセレーナがからかう。
俺も笑い返した。





寝付ける気がしなかったので、散歩をすることにした。
少しだけ目が霞む。もう若くもないのだと改めて実感する。
コンビニで新聞を買い、公園でそれを広げた。
もっとも手持ち無沙汰でベンチに座っているだけでは格好が付かないと購入しただけなので、
薄ら明るい街灯に照らされた活字はただ表層を滑るだけで、意味を解することはなかった。

一服つけて気分を落ち着けると、様々な考えが頭をよぎった。
目を開けながら、眠っているようなものだったろう。
今までの人生を反芻していると言えば聞えはいいが、
思い浮かぶのはぐだぐだと突拍子もなく浮かんでくる雑然とした記憶たちだ。
それは足元に積もってゆく吸殻のように、確かにあったはずなのだけれど、
今の俺には用済みの過去だ。

比較的新しいあの子たちとの記憶が蘇る。

ミルダは心を許せる友達を見つけた。アニーミは自分の弱さを受け入れた。
ラルモは前のように寂しげな目をしなくなったし、ベルフォルマもいずれ目的を見つけるだろう。

あの四人がこの夏休みで、いい方向に変わったのは間違いようがない。
アスラの計画は成功したのだろう。
少し肌寒さを感じる。八月も下旬だ。
夏休みは、もう終わりだ。

あいつらは変わった。
ただ、俺だけが変わっていない。
俺は変えるほうであって変わる側の人間ではないと、ずっとそう思っていた。

だが、セレーナは相談するほうとされるほうは等価な存在だと言った。
やつらが変わったということは。

俺も変わったのだろうか?





気が付くと、夜はすっかり明けていた。さすがに尻が痛い。
煙草も切れたので、帰宅することにした。
少しだけでも眠りたい。やることはまだまだある。
夏休みの宿題の手伝いに加え、なにはともあれそろそろ仕事を再開せねばならない。
明日からはまた、そこそこ忙しい一日が始まるのだ。

自宅のマンションが見えたとき、一軒の民家の前に小柄な人影を認めた。
小麦色の肌に男児のような短い髪。やけに大きい瞳が利発な印象を与える。

「おかえりぃ」

薄手のパーカーを羽織ったラルモは陽気に手を振った。

「早いな」

「何言うとるねん、早起きは三文の得っていうやろ。うちはいっつもこのぐらいや。
朝ごはん作らなアカンしな。おっちゃん、一緒に食べてかへん?」

「遠慮しておく」

ラルモはなんやあ、つれないなあおっちゃん、とうそぶいてから、俺を見上げた。

「なあなあ、リカルドのおっちゃん」

「なんだ」

「どこまで聞いたん?」

「まあ、全部」

ラルモはふうん、とそっけなく鼻を鳴らした。
照れているのかもしれない。

「それならええわ。そんじゃあ、そゆことで。
あんま朝帰りしなさんなよ」

そう言って、ラルモは玄関の引き戸に手をかけた。
僅かにだけうかがえる頬がほんの少しだけ赤い。

「ラルモ」

俺が呼び止めると、ラルモは玄関から手を外して向き直った。

「お疲れさま」

俺は指をそろえて額にあて、敬礼してやった。
ラルモは朝陽よりありがたい満面の笑顔を浮かべて、

「ごくろーさん!」

と敬礼し返した。



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