We are THE バカップル38
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季節が過ぎ去るのは早い。
そう感じ出すと年をとった証拠だと思う。
喧騒慌しく走り抜けた夏から早くも三ヶ月が過ぎようとしていた。
季節に神がいるなら、そいつはきっとローラースケートを履いているのだろう。
秋の神は坂道を滑降して過ぎ去り、早くも次の神にバトンを受け渡そうとしていた。
飲み干した冷めた日本茶から冬の気配を感じた。

寒い。ファンヒーターがいくらがんばったところで漏れ出て行く熱には追いつかない。
アトリエとは名ばかりの自室の一室を改造しただけのそこは、閑静な森の中にひっそりと建つそれのような
騒音と人間を遮断した快適な孤独とは程遠い。
そう厚くもない壁の向こうからはあらゆる生活音が聞えてくるし、窓の外には斜向かいのマンションの出窓が見えている。

俺は茶を飲み干したのを契機に一息いれることにして、ノミをサイドテーブルに置いた。
背もたれに背を沈ませ、眼前にそびえたつ巨大な木像を一望する。
いくらか女性の形を浮かび上がらせているものの、あちこちに目安の線が入ったそれは不恰好だ。
芸術には程遠い。
いや、筋金入りの芸術家ならこれにだって美を見出すのかもしれないが、
俺にとってこれは未完成のプラモデルと同じような存在だった。

顔のない木像から目を外し、室内を見渡す。
先住人がヤニをこびりつかせた黄ばんだ壁紙。左手の壁に飾り気のない棚。
棚に陳列した仕事道具とは名ばかりの、捨てる機会を探しあぐねて放置した粘土や木片。
未完成品やボツになり置き場に困った末、端に追いやられた失敗作たち。
右手のクリップボードには締め切りや今後の予定工程が貼り付けられている。
ごちゃごちゃとしていながら生活臭がない。そのせいかかなり手広に見える。家具でもあればさぞかし狭かろう。
この埃っぽい密室の中で上手くできたできなかったと一喜一憂する。
しかし、本当の戦場はここではない。
いくらこの場所で己の最高傑作ができたと舞い上がっていても、価値を決めるのは外にいる他人なのだ。
一人でこもっていると忘れがちになるが、己の生み出した結果の可否を決めるのは自分ではない。
いつだって戦う相手は他人である。それは警察官時代から変わっていない。
ドアの音に振り向くと、扉の隙間からミルダの顔がのぞいていた。

「どう?」

「ぼちぼちだ」

「入ってもいい?」

ミルダはそう言うと、首を少しだけ傾けた。
同居を決めたとき、仕事部屋にだけは勝手に入らないようにきつく言い含めてあるからだ。
ベルフォルマやアニーミも入れたことがない。
それは別に俺が潔癖症というわけでも、この埃臭い部屋を聖域と見立てているからでもない。
仕事柄刃物や電動の研ぎ機などもあるので、安全面を考慮してのことだ。鍵を付ける必要もない。
だから、例外もある。ラルモとハスタだ。
天と地ほどの差があったことは言うまでもない。
見たいと言うから招いたラルモはそれは行儀がいいものだった。
対するハスタは非常識というか当然というべきか、少し席を外している間に無断で侵入していたのだ。
あろうことかその場にあったノミやら砥石をべたべた触っていたので即刻家からたたき出した。

(ベルフォルマ、アニーミ、ラルモ)

そう懐かしむ名前でもない。
ベルフォルマとアニーミの二人は相変わらず家へ来る。
頻度は減ったが、それでも一月に三回は遊びに来ているのではないか。
ラルモは家が近いこともあって頻繁に顔を見せ、たまに夕食も一緒する。
一度、ハスタも来た。
家のことを漫画喫茶かなにかと勘違いしているのか知らないが、両手一杯のビニール袋に詰まった”ガラスの仮面”を
持ち込んで居間に寝転がり、たっぷり三時間は本を広げていた。
夕飯時になるとひょっこり立ち上がり、まだ途中なので次来たときに読む、と言い残してさっさと帰っていった。
燃えるゴミの日に一挙に処分しようと思っていたのだが、ミルダが読みたいと言い出したので
我が家の居間の隅にはいまだに大量の”ガラスの仮面”が積まれている。
ミルダが大層面白いとハマりこんでいたので興味がわかないこともなかったが、
一旦手を出してしまうと仕事に戻ることが困難な気がしたので今のところ自制している。

「寒いね。一昨日衣替えしといてよかった」

いつの間にか横に来たミルダが腕を伸ばす。
地味な藍色のセーターに包まれた細い腕が首に絡む。ついでにくんくんと頭の臭いを嗅いでくる。まるで犬だ。
慣れたものなので別段不快にも思わなかったが、はたから見ればそれはそれで異様な光景だろう。
ミルダはふとサイドテーブルに指を伸ばし、傾けたカップを首を伸ばして覗き込んだ。

「新しいの淹れようか?」

「コーヒーがいい」

「OK。ミルクと砂糖ナシナシだったよね」

どこのウエイターだと突っ込みたかったが、そういえばミルダは本当にウエイターなのである。
ミルダは二ヶ月前からバイトを始めていた。
関東中心にチェーンを構える喫茶店だ。
時給も安く、オーダーを取って品物を運ぶだけの簡単な仕事だったが、
バイト帰りのミルダは決まってサービス残業続きのサラリーマンのように憔悴しきっていた。
軟弱なやつめ、とは言わないでやった。
初めてのバイト経験に加え、人見知りに虚弱体質が重なっているのである。
そりゃあ疲れるだろう。二日ぐらい寝なくとも平気だった俺の十代時代と比べてはいけないと思う。

一人になった部屋の中で、俺は腕を組んでうんうんと頷いた。
時給など安くていい。簡単な仕事でもいい。一時的とはいえ社会経験を積むことが大事だ。
なんとも親父臭い持論であるが、本心からそう思う。

もちろん、最初から諸手を上げて大賛成したわけではない。
学生の本分は勉強である。そして俺はミルダの父母に代わってやつを監督する保護者である。
学期終わりの通知表やテストの答案は自宅に郵送しているらしいので、
ミルダの成績が下がるイコール俺の監督責任の不行き届きということになる。
そうなれば一緒に住むということすら危ない。許可が降りたということだけでも奇跡的なのだ。
と、ミルダを説得したのだが、やつは頑として首を縦に振らなかった。
家賃までは無理でも、自分の食べた分だけは払うと言ってきかない。
俺はしょうがなく”絶対に半年以上は続けること”を条件に面接へ送り出した。

しかし。履歴書の書き方すらよく知らん見るからに世間知らずの弱弱しいおぼっちゃんである。
ドラクエで言うならレベル1の遊び人のようなものだ。
受かるまいがやる気を出したことは評価しよう。そのときは当然そう思っていた。
慰める言葉を適当に探していたぐらいである。我ながら酷いと思うが仕方が無い。
そして。奇跡か俺がぼんやりしている間に世の中が甘くなったのか。
採用のもぎ取ったミルダがバイトを初めて二ヶ月。成績も下げる事なく続いている。

ミルダは変わった。
バイトを始めてからではない。夏休みも終盤のあの日。全ての馬鹿騒ぎが収束した日。
このままではいけない、とミルダは言った。
あれからミルダは皿洗い、掃除、買出しなど簡単な家事は積極的にやるようになった。  
料理と洗濯は難しかったらしく三日坊主だったが、及第点としよう。

順風満帆とは言わないまでも、まあ順調な生活である。
あのとき抱えていた懸念というか今思えば愚にもつかない感傷のようなものは心になかった。
改善すべき問題も不安もない。平和であり、悪く言えば退屈である。
ある一点をのぞけば。

「で、オランダのことなんだけど」

スキップで戻ってきたミルダの言葉に、長時間木像と睨み合った眼精疲労が頭痛に昇華する。

「呪いってやつが実在しないのが残念でならん」

「はい?」

「オランダという単語を口に出したら死に至る呪いがあれば、さぞかし楽だろうと思ってな」

「それじゃあオランダの人が困るでしょ。リカルドって意外とヌケてるよね」

まったく効いていない。
ミルダは両手を腰に当てて、ぶんむくれた顔を作った。

「いいじゃないか。そりゃあ、結婚しようってのは言い過ぎたかもしれないよ。
そんなの無理だっていくら僕でも分かってるって」

「そういう問題じゃないんだ」

「じゃあどういう問題なのさ。僕はただリカルドと旅行に行きたいって言ってるだけなのに」

「四国に行った。充分だろう。そんな余裕はない」

「あれはただの里帰りじゃないか。おまけに泊まるところは別々だったしさ。
僕は、もっとこう……ロマン溢れたいんだよ」

「なら箱根とかでいいだろう。チューリップを眺めるより温泉のほうがいい」

ミルダが唇を尖らせて、熟年夫婦が行くとこだよ、そこぉ、と文句を言った。
暗に”僕たちは新婚なんだから”と言われている気がして頭痛がレベル2にシフトする。

「とにかくさ。何も明日明後日に行こうって言ってるんじゃないんだ。
僕が十六歳になるときだから、まだ一ヶ月以上先のことだよ。
お金の心配してるなら、シフト長く入れてがんばるから」

指折り数えて給与の計算をしはじめたからたまらない。
俺がとにかく仕事の邪魔だからと追い出すと、ミルダはとにかく考えといてね、といい置いて去っていった。

静かになった部屋の中で、重い息を吐き出す。
オランダ。毎日二十回は聞かされる単語。耳にタコというレベルじゃない。
聞きすぎてオランダという言葉がゲシュタルト崩壊しそうだ。

なぜ、オランダにこだわるのかがまず分からない。
誕生日を記念して旅行に行きたい。ここまではいい。まだ分かる。
本当に同姓結婚が最初に認められた国だからという理由だけでこだわっているのだろうか。
真実そうなら、ミルダにとってオランダ旅行は儀式のようなものだ。
俺が二の足を踏む理由はそこである。これが箱根や伊豆なら一も二もなく賛成してやった。

(結婚)

重苦しい言葉だ。
結婚とは生涯の契約のことである。
書類一つで解消することが出来る時代になったとはいえ、結婚という文字は大きすぎる重さを持っている。
そもそも男同士だ。日本国内にいる限り正式に認められる婚姻はできない。それこそオランダにでも行かなければ。
いざ行くとしても障害は付きまとう。永住するのだ、旅行とは違う。
言葉も文化も異なる土地で暮らす努力は並大抵のことではない。切符の買い方一つから勉強しなければならない。
食生活も不安だ。あっちの料理がどんなものかは知らないが――いや、待て待て。

馬鹿か、俺は。
ミルダに毒されている。
今はそんな妄想よりも、目の前の物事をきちっと遂行することが大切だ。

俺は目の前ののっぺらぼうの女神に目を戻した。
もうじきでかい公募展がある。 
大勢の目の肥えた人間がこれは駄目だこれは良いと批評し、眼鏡にかなえば”実績”という名の勲章がもらえる。
半分は力試しのようなものだ。
今更自分の価値とやらを世間に認めてもらいたいわけでもないし、芸術家としてハクを付けたい訳でも無い。
賞を取れば仕事が増える、コネが増える。落ちれば現状維持。
俺にとっては、それだけの無味乾燥な事実しか含まない。
それでも駆け出しの若造にとっては重要だ。骨身を砕いて望む意義はある。

やる気も新たにノミを取った手をくじくかのように、電話が鳴った。
内心舌打ちし、携帯を手に取った。
俺に連絡を寄越すものなど限られている。大体が契約主かハスタか知っての通りの馬鹿教師どもの誰かである。
平日の三時だ。ハスタだろう。ハスタは連絡を取るときは必ず電話をする。
強要しているのではなく、メールアドレスを教えていないからそうするしかないのだ。
というのも、以前アドレスを教えたその日に”漫才と満腹中枢の関係について”という意味不明論文が綴られた
クソ長いメールを数分おきに送りつけられたせいで、携帯のメモリがパンクした事件があったからだ。
俗に言うメール爆弾である。よい子の皆ならずとも大人でも真似をしてはいけない。

ともかく。契約主とは昨日連絡を取ったばかりだ。次の進捗具合はこちらから連絡することにしている。
どうせハスタがくだらない用事で掛けてきたのだろうと当たりを付け、ぶっきらぼうに出た。

「「俺だ」」

ぎょっとした。電話口から聞えてきたのは俺の声だった。これが本当のオレオレ詐欺か。
なわけがあるか。

「ヒュプノスか」

うり二つの声が笑った。

「「そうだ、私だ。なんだ、ひっかからなかったな」」

ドッペルゲンガーだとでも思ってくれると期待してたのに、とヒュプノスは言った。
ハスタではなかったが、くだらない電話というところは当たったらしい。

「何の用だ」

ヒュプノスは少し間を置いて、

「「まあいいではないか。そっちはどうだ。何か事件はあったか」」

「あったはあったが、大したことじゃない」

「「それは良かった」」

「なにが良かっただ。何か隠してるな?」

連絡が来たのなど正月以来だ。それも年賀状を送るのがめんどくさいという理由でだった。
俺たちは滅多なことでは電話などしない。
それは刑事時代に培った知恵でもあった。どれほど熟睡していても着信音一つで飛び起きる。
兄弟間の雑談に用いるなどもっての他である。その頃の習慣はまだ残っていて、
一年に一度。正月に連絡が来ればいいほうだった。
ヒュプノスの場合まだ現職の警察官なのだから、その色は俺よりよっぽど濃いはずである。
不気味な電話だったが、暗い雰囲気ではなかった。身内の不運を告げる電話ではない。
ヒュプノスは含み笑いした。

「「さあな。当ててみろ」」

息と一緒に力まで抜けてゆくようだった。
ゲームだ。休日のひまを持て余したか。腐っても現職刑事が本部と繋ぐ連絡ツールで
無駄電話などするなと思ったが、自宅なのかもしれない。それなら電話はそちらに掛かる。

「俺で遊ぼうとするな」

くだらない、と思いながらも反射的に探っていた。
耳に神経を集中させる。かすかな騒音。少し遠いところを車が通る。井戸端会議中の主婦の声。
住宅地。自宅ではないのか。不審に思った。

「無駄電話するな」

「「心配無用。休暇中だ」」

足音が変わる。固い。室内、それもホテルのロビーのような材質の床を踏んでいる。
ややあって低く唸るような機械音が聞えた。足音が消える。エレベーター。

「ホテルか?ホテルで何してる。今どこだ」

「「それを言ってはお終いだ。趣を重視しろ」」

「お前のヒマ潰しにかかずってる余裕はないんだ。仕事中だぞ」

「「二十四時間仕事中で、365日の休日があるのがお前の仕事だろう」」

「締め切りがある」

ヒュプノスは答えず、やや考える間を空けた。

「「ヒントをやろう」」

苛立ちを発散させるために舌打ちをする。半分はヒュプノスに聞かせている。

「「メリーさんって知ってるか?」」

なにを言い出すんだこの馬鹿が、と思った次の瞬間、頭の中に電撃が走った。

「お前、もしかして……」

「「おっと、残念。時間切れだ」」

ぷつ。通話が切れる。同時に玄関のチャイムが鳴り響いた。
嫌な予感に突き動かされるまま、部屋のドアを開けた。
コーヒーサーバーの前から離れたミルダが玄関に向かうところだった。

「ミルダ!開けるな!」

「えっ…、なんで?」

遅かった。ミルダが玄関に立ち、鍵を開けた。扉が勝手に開く。
長身の猫背がのぞく。背広を着ているが、耳にじゃらじゃらとピアスをつけている。
ぱっと見て懐かしさより違和感が勝った。記憶にあるものより肌色が多い。
来客に振り返ったミルダが絶句した。

「……っ!?」

ミルダがよろよろと後じさる。

「リ、リ、リ……」

一歩、二歩、三歩下がってへなへなと尻餅を付いた。

「リカルドがハゲたーーー!」

腰を抜かしたミルダの向こうに、青白い顔をした男が立っていた。
俺と瓜二つの顔は驚きに目を見開いていた。

「……誰だ、この子は?」

携帯電話を手に持ったヒュプノスの頭部は、毛筋一つ残さず禿げ上がっていた。


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