We are THE バカップル
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「辞めたのか?」

「うん?」

テーブルに向かい合わせて座った瞬間、俺はそう尋ねた。
挨拶もなしの第一声である。ヒュプノスは一瞬眉を歪めたが、すぐ得心がいったようにあぁ、と言った。

「煙草か?禁煙成功で諭吉二枚。まだ生きてたのか、その賭け」

それなら辛抱しておくべきだったな、とヒュプノスは慣れた仕草でつるりと禿げ上がった頭を撫でた。
蒼白と形容していいほど色素の薄い肌が地続きで広がっている様子は、妙な按配である。

「それじゃない」

スキンヘッドには健康的なイメージが付いてまわると思う。
例えば、日焼け頭にきりっとハチマキを巻きつけた漁師とか、力強くバラードを歌い上げる歌手だとか。
目の前の男はその実健康そのものだがどうにも不健康に見えるから、実にミスマッチである。
しかしヒュプノスの場合、下手に顔が整っているせいで似合っていないこともないのが問題だ。
ビジュアル系バンドの後方でベースでも鳴らしていそうな風采。とても警察官には見えない。

――顔色が悪い、不健康に見える、顔が整っている

途端、自分の顔をあれこれ批評しあまつさえ褒めているような気がして気分が悪くなった。
俺はため息を吐き、目下の問題に関して言いなおすことにした。

「警察、辞めたのか」

双子の弟ことハゲ男ことヒュプノスが再び不思議そうに目を開く。すぐに笑い出した。

「面白いな。なんでまた、そう思う」

「笑い事じゃない」

俺は若干安堵して、肩の力を抜いた。

「剃ったのはいつだ。上は知ってるのか」

暴力団対策課、いわゆるマル暴所属の刑事にも、流石にスキンヘッドのやつはいない。
警察は縦社会だ。組織の中での地位の浅い者が突然こんなカブいた髪型にしようものなら。
大目玉なんてものじゃない。場合によっては降格もありうる。

「剃ったんじゃないんだがなあ」

俺の懸念をよそに、ヒュプノスは飄々と禿頭を撫で続けた。

「生えてこないんだから仕方ないだろう」

「なんだと?」

「お前じゃあるまいし、折角苦労して入ったところを辞めてたまるか。
私はお前と違って堅実なのだ。そうそうギャンブルは打てんよ」

言外に俺の人生はギャンブルだと言われている。返す言葉がない。
俺のギャンブル人生を象徴する少年は、今頃来客に出すコーヒーが詰まったサーバーを、
出陣前の主の鎧を磨く小姓のような目つきで見張っていることだろう。

「腸チフスだ」

唐突にヒュプノスが言った。

「は?」

「一年前、アフリカに旅行にいったんだ。お前には言う義理も理由もないから言わなかったが。
腹は下すわ高熱は出るわでそれは酷い目にあった。インフルエンザなんて目じゃないぞ。
一週間近く、ホテルのベッドの上で唸るはめになった。この世の地獄だ」

「今時、世界の果てでもワクチンぐらいあるだろう」

ヒュプノスは渋い顔で腕を組んだ。

「飲み水にあたっただけだと思ってたんだ。しばらく寝ていれば治ると思った」

俺はうんざりとため息を吐いた。

「それで?医者にはかかったんだろうな」

NOと答えたら即刻家から追い出すぞ。そう言ったつもりだ。
親指の腹でこめかみを押さえながら、ヒュプノスが含み笑った。

「ご心配なく。延長料金を徴収しに来たホテルの人間に発見された。
意識を取り戻したときには病院のベッドの上だ。そんなわけで、ワクチンを打つのが遅れた。
かくして髪と眉毛はアフリカの大地に葬り去られ……」

「なにが、かくして、だ」

どこの陸軍士官だ、お前は。
俺の視線の意味を理解したのか、ヒュプノスは薄い唇の端を吊り上げた。

「まだ騎兵隊の父といわれるほど偉くはないよ。
秋山ヒュプノスと呼ぶのは二十年後にしてもらおうか」

呼ぶか。

「お、お待たせしました」

ちょうどそのとき、盆にコーヒーカップを載せたミルダがテーブルに付いた。
ご丁寧にソーサーまで用意してある。いつもはマグカップのくせして。
ミルダは震える手で俺とヒュプノスの前にカップ乗せソーサーを置くと、出方をお伺いする目を俺に向けた。
そんな目で見られても俺は知らん。
ヒュプノスは素早くミルダと俺の間に視線を走らせ、

「ありがとう。で、君は誰だ?」

先手、ヒュプノス。

「あっ、あの、ぼっ、ぼく、僕は」

後手のミルダが面白いほどうろたえる。

「ぼ、ぼ、ぼ、僕は、リカルドの、その……」

「おぉ、呼び捨てか。親しいのだな」

「えっ!?ひゃい!?あの、その、親しいというか、なんというか……」

カッと音を立てそうな具合でミルダの顔が紅潮した。
面白いから見ていようと思ったが、これはいかん。誤解される。誤解じゃないんだが。

「知人の子だ。訳あって預かっている」

「知人の?ほう……」

下手に嘘をつくより、ある程度の真実を告げるほうがいい。
ヒュプノスの観察力は侮れない。同居していることなどすぐバレる。
俺は目を白黒させているミルダの足を、テーブルの下で蹴った。飛び上がる。

「挨拶しろ」

「あ、あの、こちらでお世話になっております、ルカ・ミルダです」

慌てて頭を下げる。お辞儀の途中で二度ほどカクカクになった。
ヒュプノスは表面上だけの笑みを浮かべ、親戚の子を見るように目を細めた。

「初めまして、ルカ・ミルダくん。挨拶が遅くなってすまない。私はヒュプノス・ソルダートだ。
不覚にも腹から出るのが五分ほど遅れたせいでそこの男の弟とされている」

いかにも不満ありげな言い方である。

「あ、はいっ、聞いてます。双子の兄弟がいるって。本当にそっくりなんで驚きました」

笑顔にほだされたか、ミルダは若干ほっとしたように言ったが、すぐに表情が曇る。

「あの、さっきは失礼をして」

「さっきとはどのことだね」

「えっ、あの、玄関先で」

「玄関先で君が何かしたかい」

「した、というか、言った、というか、僕は」

「言った?なんと言ったんだっけな、君は」

言葉を最後まで言わせない。弱気な人間には有効なテクニックだ。
一応最後まで聞いてしまう俺とは違う。こういうところに性格の差が現れるのか、
とのんびり俺は考えていたが、反面ミルダの顔色が紅潮から蒼白に移り変わっていた。
ものすごいスピードで色々考えているのだろう。
もしかして嫌われてる、だとか、言っちゃいけないことを言ってしまったか、など。気弱な人間はだいたいそうだ。
ここ数ヶ月でマシになったと思いきや、こいつの被害妄想癖もまだまだ健在らしい。

「ミルダ、気にせず話せ。こいつは誰にでもこうだ」

俺の助け舟にもミルダはまだまごまごしたままだった。
もう一度机の下で足を蹴りつけると、ピンと背筋を伸ばし、

「僕が玄関を開けたとき、頭のことを言っちゃって。ついでにリカルドと間違えちゃって」

ヒュプノスのほうは、あぁ、と意外そうに切れ長の目を見開いた。

「そういえばそんなこともあったか。いや、嫌味ではなく本当に忘れていた。
もちろん気にしていないよ。それより、驚かせたみたいで悪かったね。
驚かせるつもりもなかったのだが、連絡も入れずに訪れた私が悪い。謝ることはない」

いえ、そんな、とかしこまるミルダをよそに、ヒュプノスは横目で俺を見た。

「まさか、この部屋に二人目の住人がいるとは知らなかったものだからな」

おい、結局戻ってくる場所はそこか。
苦い顔をしただろう俺を無視して、ヒュプノスはテーブルを指で叩き、ミルダの注意をひきつけた。
俺の癖と同じだ。取調べ癖。相手の会話とペースを強制的に絶つ、些細で強引なテクニック。

「結構長いのかい?」

「あっ、いえ、まだ半年足らずで……」

「半年?中途半端な時期だな。君は学生だろう?」

「えっ……あのっ」

「どうしたかね、学生ではないのか。そうは見えないが」

「い、いえ、学生です。高校生です」

「あぁ、高校生なのか。顔が幼いから中学生だと思っていた。
学年は何年だい?一年か、二年か……」

「い、一年生です」

「では入学してニ、三ヶ月でこの部屋に住んでいることになるね。
あぁ、転校かな?いや、二年生だったらまだしも、入学したてで転校はないか」

「あ、はい、そうです、転校ではないです。
あ、いや、転校とも呼べる、かな。今年の春から東京に来たものですから」

「なるほど。それで今まで住んでいたところから離れたのだね」

「そう、そうです。その通りです」

「しかしおかしいな。この男の世話になるなら引っ越してきた当初、春からじゃないかな。
春から三ヶ月まではどうしていたのかな。準備にそれほどかかるとは思えないが」

「それは、その……」

ミルダの目が再び白黒する。
バイトの面接だってもう少しお手柔らかだ。

「ヒュプノス、いい加減にしろ」

「私はこちらのルカ・ミルダくんと話しているのだ。割り込むな」

ヒュプノスの視線はミルダの顔にひたと止まったまま動じない。
対するミルダは蛇に睨まれたハムスターのようにつぶらな目いっぱいに不安の色を浮かべていた。

「ミルダが困っている」

「ん?困っているのか、君は?」

ヒュプノスはいかにも意外そうに目を見開いてミルダの顔を覗き込んだ。

「えっ!?あ、はい、困ってま……あ、いえ、困ってなんか!とんでもないです!」

この馬鹿。

「困ってないと言っているぞ」

「取り調べ気分で詮索するなと言ってるんだ。公私の分別を付けろ」

ヒュプノスは鼻で笑うようなため息を付いてから、コーヒーカップを持ち上げて一口付けた。
会話終了の合図。元々大した興味があったとは思えないが。

「俺の同居人をいじめるために来たわけじゃないだろう。用はなんだ。それをさっさと話せ」

「さっさも、なにも。本来ならすぐ済む話だったのだ。それこそさっさと数分でな。
それをお前がハゲの理由を聞いてきたり、私が同居人くんをいじめるのを
なかなか止めなかったりしたせいでここまでかかってしまったんじゃないか」

ヒュプノスはテーブルの上に乗っている俺の煙草の箱をかすめ取り、一本抜いた。
咥えずに、ライターと紙筒を手の中でもてあそぶ。

「まあいい」

「あの、僕、抜けましょうか?」

遠慮気味にミルダが訪ねる。

「いや、君にも聞いてもらったほうがいいし聞く権利もある。
仲間はずれは嫌だろう、ミルダくん」

「え、でも、こみいった話なら……」

「いい、ミルダ。そこにいろ」

ミルダはよろよろと、上げかけた腰を下ろした。

「単刀直入に言う」

火の付いていない煙草の穂先が俺へ向く。

「長崎に帰ってくる気はないか、リカルド」

話の流れから予想していたことだったが、それでも胸に矢を射られたような心地だった。

「なぜだ」

「お前は知らないだろうし知らなくて当然だが、先日新しい本部長が着任した。
組織内の構造改革だかの一環で教養課にも手入れがある。
こうだ。”犯罪を憎み国民に奉仕する健全なる初心を貫徹する警察官の育成”
建前のスローガンだ。だが、本音がどこにあるかはどうでもいい。
問題は、教養課で大規模な人事異動と増員が発生するということだ」

「それと俺に、何の関係がある」

「特に力を入れたいらしい拳銃訓練の指導官が手薄でな」

「俺にそこへ座れと?赤ら顔の若造に銃の撃ち方を教えろと言うのか。
セーフティの外し方、正しい姿勢、挨拶、心を鎮めるお祈りの仕方を伝授しろと」

冗談のつもりで言ったが、ヒュプノスはぴくりとも笑わない。

「無論、戻ってすぐにとは言わん。一年二年は雑務をしてもらうことになる」

「ふざけるな。今更、めんどうな」

「教養課の次席には話を通してある」

「なんだと?」

「先方はすべて承知の上だ」

自分でも眉が釣りあがるのを感じた。
次席、警部だ。面識はあるが会話をしたことはない。畑違いの上司。それはヒュプノスも同じだろう。

「誰の考えだ」

やりすぎている。これは説得ではなく脅迫、命令だ。

「私と、私の上司。それと……」

俺は煙草を取って、一本咥えた。ヒュプノスが腕を伸ばして火をつける。
煙を肺に入れながら、内心忸怩たる思いでヒュプノスの言葉を待った。

「兄者もそう望んでいる」

一番聞きたくない名前が出てきた。
ふと見ると、ミルダが泣きそうな顔でこちらを見詰めていた。
返す言葉を探しあぐねていたとき、ヒュプノスがテーブルを指で叩いた。

「二万円をよこせ」

「……なんだと?」

「賭けはまだ有効だ。あれから私は一本たりとも吸っていない。
背広でもなんでも嗅いでみるといい」

ヒュプノスは火の付いていない煙草とライターを机の上に放り出し、僅かに笑った。

「騙されやすい男だな、お前も」

あいにく、笑い返す気にはなれなかった。


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