「あ〜あ、私も見たかったなー、リカルドの片割れ」 「片割れ言うな」 ガラスの仮面を手にアニーミが寝返りを打った。 午後四時。夕飯までの時間を持て余したガキどもが集う時間。 ちゃぶ台風テーブルに足を突っ込んだアニーミの隣には、 同じ表題の本を覗き込んだベルフォルマが転がっている。 ガラスの仮面はハスタを震源地にして着実に俺の周囲に広まりつつある。恐ろしいものだ。 「だって片割れじゃん。一卵性双生児でしょ?そんだけ似てんだったら。 中学のときクラスにいたなー。ほんとソックリでさ、しょっちゅう間違えたもんよ」 アニーミは漫画本を片手に持ち変え、仰向けに姿勢を変えた。 「あーあ、ヒュプノスさんがいたら色々面白いこと出来たのになあ」 「っんとにな。同じ服着せてさあどっちでしょう!とかよお。 おい、なんですぐ帰したんだよ。弟だろ弟」 「やめろ。あいつを弟と呼ばれるたびに鳥肌が立つ」 「あらあら、照れちゃって」 胸の上に本を移し、アニーミはにやにやと笑った。 興味の方向が本格的にこちらに向いてきたようだ。 「お前らなあ。いくら双子でもドッペルゲンガーじゃないんだぞ。 普通の兄弟と同じだ。例え同じ服と髪型にしていてもすぐに分かる」 「そんなん思ってるの本人だけだっつーの」 「だよね。私、全然見分けつかない自信あるわ」 「アニーミ……」 流石に失望した声が出る。 アニーミは一瞬目を泳がせた後ムッとして、漫画本で顔を隠した。 「だ、だって。アンタの顔なんか、じっくり見たことないもん」 そのアニーミの足を、ベルフォルマがぞんざいに蹴っ飛ばす。 「いったいわね、なによ」 即座に蹴り返すアニーミの顔の前に、ベルフォルマが手を差し出す。 「17巻。まだかよ」 「もう読み終わったわけ?こっちはまだ半分くらいよ」 「あぁ?とろとろ読んでんじゃねぇよ。ノロマな女だなあ」 「先に18巻から読めばいいじゃない!」 「んな邪道な読み方できるかっつーの!」 わいわいぎゃいぎゃい、活気とも喧騒とも付かないものに包まれる今からそっと離れる。 好きにやってくれ。どうぞどうぞ。 飲み物を取りにキッチンに入ると、便所から戻ってきたミルダとはちあった。 ミルダは居間のほうから漏れ聞えてくる声を聞いて、苦く笑った。 「……早めに帰ってもらって、よかったね」 「同感だ」 危うく玩具にされるところだった。 ヒュプノスも長崎から出てきたあげく顔も知らんガキどもにいじりまわされるのはごめんであろう。 無論、顔をよく知っている俺もごめんである。 冷蔵庫から小ペットボトル入りの水を取り出したとき、白い指が手首に触れた。 ミルダが何か言いたげな目で見上げている。 「なんだ」 「うん。さっきの話なんだけど」 表情が固い。さっきの話。 ヒュプノスと俺の会話のことだ。 「あのことか……」 あれは、にぎやかし二人組が侵入する小一時間前……。 *************************** 「断る」 自分で思っていたよりもきっぱりとした声が出た。ヒュプノスが深々とため息を吐く。 「予想通りだな」 「負け惜しみか」 ヒュプノスは首を左右に振りながら苦笑をきざんだ。 「読み筋通りだ。理由を聞いてもいいな」 「兄者の引いたレールを歩く気はない」 ぴくりと眉が、正確には眉があった位置が動く。 「理由になっていない」 「なっている。一度レールから外れた列車を戻す真似はしないのがルールだ。 列車本人も、併走する列車も、レールを作った主でさえも。そうだろう」 再びため息が場をさらう。 うつむけた目から表情は読み取れなかった。 「今の仕事が気にいっているんだ。昼過ぎに起きても誰にも文句を言われん」 「あの件を気にしているなら、杞憂だ。あれは、私も――」 「そういうんじゃない」 あの時、額を切り裂かれ、年端も行かない子供に腹を抉られたあの日。 俺のショックはもとより、ヒュプノスの受けた衝撃も相当なものだったろう。 相棒が己の不注意で刺された。 責任感の強いヒュプノスが至りそうな思考回路だ。 何度も繰り返した問答が蘇る。 私のミスだ。いや、俺が悪かった。違う、私さえしっかりしていれば―― お前が悪いと言い争うより辛い議論だった。 しかし、あの時はそうするしかなかったのだと思う。俺もヒュプノスも。 「逃げたのは俺だ。それはもう終わった話だ。だが――」 ヒュプノスが顔を上げるのを待って、続けた。 「逃げた先で傷を癒し、治ったからといっていそいそと古巣へ戻れと言うのか。 俺がそんな節操も矜持もない人間だと思うのか」 三度目のため息と共に、ヒュプノスは眉に諦観の表情をひろげた。 俺はコーヒーで喉を湿し、 「兄者に伝えろ。戻る気はない。誰に、何を言われようとだ」 「少しは私の面子も考えたらどうだ」 唸るようにヒュプノスが言った。 「読み筋通りなんだろう。なら、あっちを説得するべきだった。お前の過失だ」 「とんだ言い草だな。次席に話を通した兄者の気持ちを理解していないのか。 お前がここまで親不孝者の冷血人間だとは思っていなかった」 「言われたとおりのレールに乗って、傀儡のように生きるのが孝行者の鏡か? なら、お前は日本一の孝行者の弟だ。勲章をもらえるぞ。部屋に飾れ」 バン、と音が立った。ヒュプノスが両手をテーブルに付いていた。 「東京に逃げた貴様になにが分かる。軟弱者の上に冷血とは救えん男だ」 「なんだと……?」 俺は眉を吊り上げた。ヒュプノスに眉があったら、同じ表情をしているだろう。 「こんな男と同じ血が流れているかと思ったら虫酸が走る!フヌケ野朗め!」 「それはこちらの台詞だ。兄者の金魚の糞め。 その年でブラコンか?はっ、虫酸どころか怖気が走るな。気持ちが悪い」 「貴様ぁ!」 「やるか!?」 俺たちは同時に立ち上がり、激しくにらみ合った。 漫画のように両目から火花が出るなら、今こそ散っていたであろう。 「ふっ、二人とも!やめてよ!」 ミルダが痙攣するように立ち上がり、俺の肩に手をかける。 俺は乱暴にそれを振り払った。 「うるさい!お前から殴られたいか!」 ミルダはたじろぎ、数歩下がった。 「ヒュプノスさんも、落ち着いてくださいよ!言い争ってなんになるんですか!?」 「部外者は黙っていろ!」 「そんなっ……」 じわじわとミルダの大きな瞳が水気を増す。 今や部屋の緊張はピークに達している。 俺とヒュプノスは二人して肩を震せ、こらえていた。 (もう、駄目だ) 「……ヒュプノス」 「なんだ、フヌケ野朗」 「降参だ」 「私もだ」 途端、爆笑がはじけた。 もちろんミルダでもない。いつの間にか侵入していた第三者でもない。 俺とヒュプノスが、腹を抱えて笑っていた。 ミルダだけ、中腰のまま硬直していた。 まだ涙目だ。俺も涙目だろうが。 「すまん、すまん。これは俺たちが高校時代開発した遊びでな」 「あ……そび……?」 壊れたレコードのようである。 「三年ぶりだな、”離婚間近の夫婦ごっこ”」 ヒュプノスが目の端を拭いながら言った。 「離婚……間近の夫婦ごっこ……?」 「そう。いかに言っても仕方がないことをそれらしく言うかが鍵なのだ。 徐々に当初の問題を棚あげし、最終的には相手の人格そのものを否定しあうのだよ」 大儀そうにコーヒーをすすりながら、ヒュプノスが言った。 「噴出したほうが負け。コタツで足が触れ合う度にやったもんだ……おい、ミルダ?」 ミルダはすたすたと、自室のドアの前に遠ざかって行くところだった。 ドアを開きながら、半目で俺を見る。精一杯の睨み顔だ。 「……リカルドなんか、大っっっ嫌い!!!」 バタン!怒鳴り声よりも大きな音を立ててドアが閉まった。 取り残された俺とヒュプノスは顔をみあわせた。 「嫌われてるぞ」 「嫌われてるな」 「いいのか」 「なにが」 いつもこちらがされていることだ。たまには仕返ししてもいいだろう。 ヒュプノスは鼻を鳴らし、 「まあ、いい。私はここらへんでお暇させてもらう。ミルダくんの機嫌も崩れてしまったし」 立ち上がり、俺の顔の前にずいと掌を差し出す。 「どけろ、邪魔だ」 「諭吉くんをいただいた後になんなりと」 「強欲め」 舌打ちをしながら、財布を探る。万札を二枚抜き出して血色の悪い手の上へ置いた。 ここだけの話、万札はちょうどその二枚だけだった。 財布の中身が閑散としたことより面子を保てたほうにホッとしたので、 我ながらさもしいのやら潔いのやら妙な具合である。 ヒュプノスは札をそのまま背広の内ポケットに仕舞い、 「素直そうないい子じゃないか」 「素直だが、いい子かどうかは」 ヒュプノスは笑って俺の肩を叩いた。 「いい子さ。やさしくしてやれ。 お前のお稚児趣味は兄者には黙っておいてやるから」 「誰がお稚児趣味だ」 そんな会話をしているうちに、玄関に付いた。 ヒュプノスは几帳面に靴べらで革靴を履きながら、振り向いた。 「一度、長崎に帰って来い。直接兄者と話せ」 俺はこれみがしよに顔を歪めた。 「話そうが話すまいが同じだ。決心は変わらん」 「兄者は納得しない。電話攻撃を受けたくなかったら一度帰れ」 「忙しいんだ。旅費がない」 「言い訳は本人にしろ。私は知らん」 コーヒーごちそうさま、と言ってひょろりとした背広はあっさり扉の向こうへ消えた。 ******************************** 「……で、さっきの話なんだけど」 「ん?あぁ」 ぼーっとしていた。いかんいかん。 俺はミルダの肩に手をかけ、 「座れ」 と言ってガスレンジの陰に中腰になった。 居間の方向はあいかわらずうるさい。 ミルダは床の上にちょこんと正座になった。胡坐ではないのが彼らしい。 「あいつらが帰ってからと思ったが……今言っておく」 「え?」 「俺の口からはっきり聞きたいだろうと思ってな」 碧色の目が見開いた。 「す、すごいねリカルド、分かるんだ」 「馬鹿が、一日何時間顔を突き合わせてると思ってる」 「え、へへへ。そう?」 ミルダは嬉しそうに頷いた。ああもう、可愛いのやら馬鹿なのやら。 「ともかく。前言撤回はなしだ。 長崎に帰る気はない。今の仕事も辞める気もない」 「ほんとに?」 真偽を疑うほんとに、ではなく、確認する口調だ。 「本当だ。俺はこの土地で、この職で戦うと決めたんだ。 二度逃げては男が廃る。それだけのことだ。しかし……」 ミルダが首を傾けた。 「お前には、話していなかったが。 俺の兄という人が、なかなか曲者でな。一度言い出したら聞かん」 「ふうん、頑固なとこって遺伝なんだ」 いかにも納得した、というようにミルダが手を打った。 この野朗。さんざっぱら人を流しておいて。 怒鳴ってもしかたがないので、ぐっとこらえる。 「ともかく。そういう人相手だから、直談判しに行く。逃げてると思われるのもシャクだ。 だから、近々長崎に行くつもりだ。数日家を空けることになる」 「あぁ、うん、行ってきたら?長いこと帰ってなかったんでしょ」 「お前も一緒に来ないかと聞いているんだ」 「へっ?」 「未成年を残して何日も空けるのもどうかと思うし、お前の里帰りには付き合ったからな。 ついでにオランダに行った気分にもなれるぞ。観光名所も山ほどある。飯もうまい」 語るうちに、ミルダは両手を握り締めて目を輝かせた。 「行く!行く、行く!絶対行く!やった、旅行だ!」 「馬鹿、声がでかい」 首を押さえつけると、ガバッと銀髪が胸に飛び込む。 見上げる目が、にや〜っと歪んだ。 「でも、オランダは別口だからね」 ため息を吐かずにはいられなかった。 細い肩を突き放し、ペットボトルを手に立ち上がろうとしたとき、きゅっと指に圧力を感じた。 ミルダが指を握っていた。俺の三分の二程度の大きさしかない、小さな手。 すがるような目が見ている。 「なんだ」 「うぅん」 碧の目が数秒さまよって、俺の顔に照準を直す。 「ずっと一緒にいられるよね?」 なぜか、すぐに言葉が出なかった。大きな瞳の揺れが大きくなる。 俺は誤魔化すように笑って、ミルダの頭に手を置いた。 「あぁ……きっとな」 ふと、ミルダが複雑そうな顔をした。何か言おうと口を開きかける。そのとき。 「うっぎゃああああああ〜!!!」 「ぐあっ…!」 ものすごい叫び声が鼓膜に響いた。 思わず立ち上がった際、したたかにガスレンジに頭をぶつけた。 声の方向と俺のほうを交互に見ているミルダに、いいから行け、と怒鳴る。 間近で見るな、人の醜態を。 「お前、馬鹿!このアマ!」 ベルフォルマの憤る声が聞える。ばたばたと足音を立ててミルダが駆けつける。 「どうしたの!?」 「携帯にジュースこぼしたあ!」 ほぼ悲鳴に近い声が轟いた。 「えぇっ!?」 「なんだと!」 俺も駆けつけた。素早く居間の隅々に目を走らせる。 「ガラスの仮面は無事!?」 「ガラスの仮面は無事か?」 俺とミルダが同時に叫んだ。壁際までのけぞったベルフォルマが手を上げた。 「確保してるぜ!」 見ると、両手いっぱいに見覚えのあるカバーの漫画を抱えている。 「あっぶねぇあぶねぇ。あわや大惨事だったな」 「ほんとにね。あ〜よかった。僕まだ、二十巻までしか読んでないんだ」 「一応飛び散ってないか確認しろよ。シミになる」 ピシ、パシ、と音がした。 アニーミが、オレンジ色の雫したたる携帯を力いっぱい握り締めていた。 おい、壊れるぞ。もう壊れてるか。 「あんったらねぇ……!」 爆発するかと思いきや、意外にもへなへなとその場にへたりこんでしまった。 「あぁ、もう最っ悪……!メモリとか全部吹っ飛んじゃったワケ!? 後一ヶ月で一年だったのに……、がんばって通話控えめにしたのに……。 新しいバッグ買おうと思ってやりくりしてたお小遣いが……うう、ううぅ……」 携帯を手に泣き伏せる。おおげさすぎると思ったが、流石にかわいそうになってきた。 俺は電源ボタンに手を伸ばしかけたアニーミを止め、 「無理に点けるとショートするぞ。まず電池パックを外せ。 おいミルダ、タオルとドライヤー持ってきてやれ。あと雑巾」 ミルダが、アイアイサーと洗面所に向かった。 それから、目をぱちくりさせているアニーミの腰のあたりをバンと叩く。 「ひゃ!?」 「しっかりしろ。保険は加入してるか?」 「ほ、けん?」 「購入のとき聞かれただろう。思い出せ」 「あ、あー!入ってた!入ったわ! 私は必要ないと思ったんだけど、お母さんが入っとけって!」 「保障期間は?」 「一番長いやつだから……一年!」 「よし、ならいい。直らなかったら持っていけ」 ちゃっかり17巻を手にしたベルフォルマが、ひゃひゃひゃと笑い声をあげた。 「すげぇリカルド!オカンみてぇ!」 なんだかなあ……。 |