We are THE バカップル41
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天気は悪くない。
窓の下方をゆっくりと雲海が流れている。
もちろん、体感的なものにすぎない。
一時間半で成田と長崎を繋ぐ鉄の塊は、実際には時速900キロで
雲間を突き抜けているはずだった。
地上から約33000フィート上空を飛行する機体の窓からは、
後方へ飛び去る家並みも雑木林も確認出来ない。だから錯覚が起こる。
ここ一時間ばかり、飛行機の小さな窓は青空と雲だけを映し出していた。

”雲を見下ろすなんて、すごい体験だよねえ”

弾む声が耳に蘇る。
俺は無意識のうちに隣の座席へ左手を伸ばしていた。
放り出していた携帯ゲーム機に指が当たる。
機内での慰めにラルモが貸してくれたものだ。
漢字の書き取りだの光ったパネルを順番にクリックするだの、
なんの得になるのか分からんことを延々とやるゲームだ。
俺の脳年齢を五十四歳だと指摘してくれたその四角い塊の感触で我に返る。

無意識に客席の合間を見渡す。季節外れの帰省のせいで客足はまばらだ。
そこに銀髪の少年の姿ははない。
いるはずもない。午後二時。今頃ピーク時の喫茶店で、盆を片手に右往左往しているだろう。

俺はまずい駅売り弁当を胃に詰め込んだ後、残りの三十分をやり過ごすために目を伏せた。
ぬくもりを得ることができなかった左手が、未練がましく腹の上で拳を作った。


*****************************



「ハウステンボス」

「ん〜、チャンポン」

「グラバー園」

「なんやそれ」

「幕末の貿易商の邸宅よ」

「ただの家やん。それって観光地なん?」

ラルモは斜向かいに座った俺の顔を見た。

「ほかにも色々入ってるがな。れっきとした観光地だ。
目玉は昇りのエスカレーターから隣の民家の洗濯物が見えるところ」

俺が答えると、セレーナはしてやったり顔で笑った。

「ほうら。大人はウソ言わないの。次はエルよ」

「うっ、う〜ん……あっ、カステラ!」

「それはさっき言いました」

「うっそおん。え〜、ほんなら……皿うどん!」

「オランダ坂」

「えぇ〜、ずるうい!勝てへんわあ」

「ふふふ、私に挑むのが間違いだったのよ。ほら、次々」

「うえぇ〜……」

ラルモは机の上で頭を抱えた。
どうやら”長崎しばり”の山の手線ゲームはセレーナの圧勝で終わりそうだ。

「ゆっくり考えていいわよ。それより、リカルドさん」

うんうん唸るラルモを微笑ましく見詰めていたセレーナが、くるっと振り返る。
振り返りついでに手元で突付いていたチョコケーキをぱくりと口に含んだ。

「いつのご予定でした?」

すぐに、長崎へ立つ日時を訪ねているのだと分かった。

「三日後だ」

「あら、じゃあちょうど良かったですね。今日にしてよかった」

「その三日間で仕事に一区切りつくはずだったんだがな」

「そうだったんですか。徹夜は控えめに。お疲れ様です」

悪びれなくセレーナは微笑んだ。周囲に充満した甘ったるい香りによく似合う笑顔。
頬杖をついた俺の顔の真下からも、同じような匂いが漂っている。
テーブルの上には、種類さまざまのケーキがはみ出さんばかりに並べられていた。

とあるホテルの一階、今はケーキバイキングの会場に化けたレストラン。
俺とセレーナとラルモの三人組は、ビュッフェコーナーの隣の席に陣取っていた。
新しいケーキが運び込まれてきたらすぐさまチェックできる位置である。
店内に入ってまず、円柱形のガラスに覆われたビュッフェコーナーに張り付いたラルモが
「ビュッフェってケーキはどれなん?」と大ボケをかましたのが二十分ほど前だ。

俺は早々にもたれだした胃を落ち着かせるためにコーヒーをすすりながら、
なぜこの日、彼女たちにとっては休日だが俺にとっては休みでも何でもない今日に
客層の九割九分一厘が女で占められている女性専用車両のような場所に
放り込まれるハメになったのかについて、ぼんやりと思い起こしていた。


ことの始まりは一本の電話だった。
王道というか陳腐というべき展開だが、実際にそうだったのだから仕方がない。

「リカルドさん、相談があるんですけれど……エルも一緒に、どうですか?」

深刻な声だった。
俺は顔を刻み始めたばかりの女神像をほっぽりだし、一も二もなく会う約束を取り付けた。
我ながら迂闊というか単純というかお節介というか、いや、断言しよう。馬鹿である。
冠詞に”大”をつけて大馬鹿にしてもいい。

言い訳をするようだが、これがセレーナだけだったら行かなかった。
ちゃっちゃと電話で済ませていただろう。しかし、ラルモも一緒となると。
キッチンのてんぷら油が火を噴いている真っ最中であろうが駆けつけるのが男として、
いや人間として正しい姿なのではないかと問いかけたい。

それは俺が幼女溺愛趣味を持つわけでもなく、セレーナに冷たいわけでもない。
セレーナはもう二十歳を過ぎているが、ラルモは13歳だ。
子供に甘い。
いつか俺をそう評したオリフィエルの診断は間違っちゃいないと再確認させられた。

ともかく。
指定された場所にたどり着いて俺は愕然とした。
そこは相談だか悩みだか憂悶だかの後ろ暗い言葉とは無縁の、
豪華なミラーガラスが張り巡らされた、それはそれは立派な建物の前だったのである。
戸惑いを胸にピカピカに磨かれた自動ドアをくぐってみると、
そこには綺麗にめかし込んだセレーナとラルモが手を振り振り立っていた。

相変わらず青髪をクルックルに巻いだけのセレーナはともかく、
ラルモは短い髪を無理矢理花形のピンで留めていて、思わず五年後に思いを馳せ
我が子の花嫁姿を思い描く父親のようなほろ苦甘酸っぱい気分に浸っている間に
捕らえられた宇宙人のごとく両脇を抱えられて連行された場所が、ここ。
ケーキバイキングの四人掛けテーブルである。

「相談はどうした」

やっとその一言を搾り出せたのは、ラルモとセレーナが二つの皿いっぱいに
チョコケーキやムースなどありとあらゆる糖分の塊を携えてテーブルに落ち着いたときだった。

「あぁ、もういいんです。済みましたから」

セレーナは空のまま放置されていた俺の皿に割かし糖分控えめのチーズケーキを
おすそ分けしながら、目にも留まらぬスピードでショートケーキを口に詰め込んだ。

「………………」

投げっぱなしとはこのことである。
見事な投げっぱなしジャーマンに受身も取れず3カウント取られたプロレス選手の心地で、
俺は自らの掌の四分の一程度しかない小さなチーズケーキを、不精不精口に運んだ。

事の次第はこうである。
なんでもここは週に二度、休日にだけケーキバイキングを営むホテルレストランであり、
外観のとおり敷居の高い店で、デザートのみといってもかなりの値段を取る。 
そんな場所になぜこの俺が連れ出されたかというと。
これも明白であった。
セレーナとラルモに両腕を抱えられながら店内に連行される間際、
品の良い木製の立て札に書かれてあった文句が、いやがおうにも頭によぎる。

”いらっしゃいませ。通常四千円。三名様から二千円”

無論、最初から俺を担ぎ出そうとしたわけではなかったらしい。
当初の予定ではアニーミを誘って、女三人で楽しく甘物を突付こうという計画だった。
しかし当のアニーミはソフトボールの冬大会の特練があるため泣く泣く辞退し、
次に槍玉にあがったのがミルダだったが、やつもバイトがあったため駄目。
滑り止めのベルフォルマはケーキバイキングという単語を耳にした途端、
携帯をぶち切って音信不通になったらしい。
俺でもそうする。そうしたかった。

最終候補の俺に電話をかけるにあたってセレーナは一計を案じた。
俺の名前を電話帳でチェックしている間、笑いが止まらなかったであろうことは
想像に難くない。

「なあなあ、オランダ坂ってほんとに坂なん?」

記憶の引き出しを漁り終えた結果に勝負を放棄したラルモが、
小さなスプーンで苺ムースをぐちゃぐちゃにかき混ぜながら聞いた。
やめなさい。お行儀が悪い。

「日本三大ガッカリ観光地の一つだな。狭い、地味、短い。言われなきゃ分からん」

「ふ〜〜ん」

ラルモはさほど興味がなさそうに頷いた。

「ほんでも、ええなあ。住んでるとこが観光地やなんて。楽しそうやん」

京都に住んでいた人間も同じようなことを言われているのだろうな。

「その、なんやったっけ、グレープ園?」

「グラバー園よ」

「そうそ。グラバーさんのお宅。昔の人の家でさえ見所いっぱいなんやもん。
うち、大阪の記憶って公園のホームレスとヤンキーぐらいしか思い浮かべへんわ」

「そうねぇ。後はたこ焼き、お好み焼き、ヨシモト新喜劇。
観光地といえば天守閣ぐらいかしら?ほんとはもっと色々あるんでしょうけどね。
うぅん、私も行ってみたいなあ、長崎。和洋折衷って素敵よね」

夢見るような目で、セレーナはうっとりと(ケーキで頬を膨らませながら)遠くを眺めた。
セレーナは敬虔なクリスチャンでもあるから、長崎という場所は特に興味を
引かれる土地なのであろう。

「なあなあ、おっちゃんおっちゃん」

「ん?」

そんなセレーナをぼさっと眺めていた俺に、ラルモが好奇に満ちた目を向けていた。

「親御さんには紹介するん?ルカ兄ちゃん」

ミルダを連れて行くことは通達済みである。
三日間ほど家は無人になるわけだから、空き巣対策として
郵便受けに溜まった新聞紙やチラシを回収してくれるよう頼んであるのだ。

「するわけないだろう」

「なんで?向こうの両親には言ってあるんやろ。
あっちに伝えてこっちはダンマリっておかしいやん」

「同棲……同居の許可を取っただけだ。そこまで進んだ話はしていない」

そしてする勇気もない。
していたらミルダは今頃愛媛の高校でスクールライフを過ごしていたことだろう。

「同じことやと思うんやけどなあ」

「確かに……ミルダくんが高校に通っている間はそれでいいとして、
卒業したらどうなさるおつもりなんですか?」

セレーナは笑いながら、少しだけ、その実多分に真剣さを含んだ目で見詰めてきた。
言いたい事は分かる。
このままズルズルと関係を続けるのはどうか、ということだ。
いつかは一区切り、もっと言ってしまえば一波乱ぶちあげなければならない。
それも、そう遠くない未来に。避けては通れない道である。
だが、なんと説明するべきか。

”あなた方の一人息子は東京で出会った十二歳も年上の男に惚れこんで、
結婚までしたいと考えております。どうか許可をお願いします”

こめかみから発生した痛みが瞬く間に後頭部に広がる。
Jリーグ試合中のグラウンドに全裸で走りこんだほうがマシだ。
いや、言いすぎた。それよりはマシだが、かといって悩ましい出来事にはちがいない。

「そう深刻に考えることでもないと思いますけどね」

セレーナが俺の内心を見透かしたように言った。

「そりゃあ最初はビックリするでしょうけれど。要は真剣かどうかです。
心の底から頼み込む子供を前にして、首を縦に振らない親はなかなかいないと思いますよ」

「そやそや。そんなんアカン!勘当や!って言われてしまえばそれまでや。
そんな頭のかったい親は、縁でもなんでもバシッと切ったればええんや」

「まあエル。それは過激ってものよ。親だって好きで勘当するわけじゃないんだから」

「せやけど最優先するべきは愛やで、愛。親と恋人を天秤にかけるって言うと
言葉が悪いけどな、うちはおっちゃんと兄ちゃんの恋路を全力で応援するで」

「ちょっと待て。勘当されることを前提に話をするな」

俺は掌を前に出し、二人の応酬を止めた。

「そもそも俺の両親は、まあ、なんというか、すでに……」

見ぬまいと思っても、自然とラルモのほうを見てしまう。
そこで二人は、あぁ、と声にならない吐息を漏らした。

「あ、そうやったんか……」

「すみません、知らないとはいえ……」

二人の肩がそろってしゅんとした。
一瞬にして空気が萎む。だから言いたくなかったのだが。

「い、いや、まあ、年の離れた兄がいるから、そっちに話は通すべきだと思うが」

取り繕うために、思ってもみないことを口走ってしまった。
あの兄には一生話すことはあるまいと決めていたのだが。

「あら、双子の弟さん以外に、ご兄弟が?」

「あぁ、まあ……その人に会いに行くための帰省だからな」

「ほえ〜、三人兄弟かいな。むっさいなあ、おっちゃんの家族構成」

地雷を踏まないよう気を遣ったセレーナの言葉とは裏腹に、
ラルモはあっけらかんと言い放った。
彼女も両親を亡くしている。
腫れ物に触るような扱いは、余計にやりにくいと分かっているのだろう。

「まあ、ぞんぶんにイチャイチャしてきてや。
チラシと新聞は任せとき。ちょうど足らへんかったから都合ええわ」

その言葉を皮切りに、和やかな空気が戻った。
結局制限時間ギリギリの90分をあますことなく使い果たし、
ジーンズとワンピースの腹周りをパンパンにした女二人組と駅前に出る。
なんでもこれからショッピングに出かけるらしい。

夏休みの騒動中はほとんど接点を持たなかった二人組は、存外気が合うようだ。
顔こそ似ても似つかないが、すでに年の離れた姉妹のような雰囲気である。
俺は買い物に付き合えとうるさい申し出というか命令を全力で辞退し、
言い訳に入ってもいない契約主とのミーティングを持ち出した。
腹がいっぱいのときの荷物持ちは真っ平だし、この凸凹コンビを
もう少し二人きりにさせてみたい気持ちがあった。

「それでは、良い旅を」

「お土産、期待してるで〜!」

二者二様の別れの言葉を背に受け、電車に飛び乗る。
俺はつり革につかまりながら、半年は甘いものを食いたくない、いや、食うものかと、
食い放題系の店に寄った帰り道に必ず抱く淡い決意を胸に、帰路についた。



家に戻ると四時半をまわっていた。
上がり框の下にきっちりと踵のそろえられたスニーカーが並べてある。
スニーカーの主はソファに寝転がり、テレビを眺めている最中だった。
コートを脱ぎながらその背に近寄ると、銀髪がふっと振り向く。

「相談、どうだった?」

電話の件はすでに伝えてあったから、心配そうな声色だ。

「あぁ、腹いっぱい食わされた。主にケーキを」

俺があらましを話して聞かせると、ミルダは腹を抱えて爆笑した。

「まさにいっぱい食わされたってことだね。リカルドらしいや」

俺は聞えるように舌打ちしながら、コートをかけるために自室へ戻ろうとした。

「あ、ちょっと待って」

呼び止められ、促されるままにソファに腰かける。
ミルダはそれが当たり前とでもいうように、俺の膝の上に頭を乗せた。

「皺になるから早く吊りたいんだが」

「もうちょっとだけ」

俺はため息をはきながら、まんざらでもなかった。
だってそうだろう。いくら同性とはいえ、素直に甘えられていやな気分はしない。
手を伸ばして頭を撫でると、驚くほどさらさらとした髪が指にすべる。

見た目は兎、態度は小型犬だが、さわり心地は猫。
大して動物が好きなわけではないが、ミルダを評するとき、頭をよぎるのは
いつもそんなことだった。
ミルダはしばらく心地良さそうに目を細めていたが、
時計の針が四時四十五分を回ったのを合図に体を起こした。

「言わなきゃいけないことがあって」

穏やかな口調だが、思いがけぬ深刻さがあった。
俺は内心、身構えるのを忘れた。
今日という日に流れていたゆるい空気がそうさせたのかもしれない。

「一緒に長崎にはいけない。ごめん」

だから、言葉を失った。

「店長が、どうしてもその時間に入って欲しいって。
ホール担当のキャストがインフルエンザと法事で、両方出られなくて」

店長。ホール担当。キャスト。
ミルダの口から出る言葉が、どこか異世界の呪文のように感じる。

「どうしても休めないのか」

「店が回らなくなるんだ。僕が入ってるの、ピークタイムだから」

「バイトだろう。融通、効かないのか」

「非番の人もインフルエンザ移されて、当分出られないんだよ。それに……。
どんな仕事でも責任を持ってやれって言ったのは、リカルドじゃないか」

後半は責めるような口調だった。
頭が空転していたのだと思う。言葉にしたかったことがみるみる萎む。
胸中の何かが、多分理性だとか体面だとかつまらないものが、言いたいことのブレーキをかけた。
”空を見下ろすなんて、すごい経験だよねえ”
弾む声はまだ耳に新しい。

「……仕方ないな」

俺はため息を吐き出し、コートを折り目正しく畳んだ。

「どれだけ忙しくても、ミスがないようにするんだぞ。
急がば回れだ。ノロくてもいい。ミスしないことが一番の貢献だ」

口が勝手に喋る。笑って言ったつもりが、どこか空疎に響いた。

「わかってるって。店長に散々言われてるもん、それ。
……本当にごめん。早く帰って来てね。一人だと、さびしいから」

ミルダの言葉も、同じ調子だった。



その日の夕食はつつがなく終わった。
アニーミも、ベルフォルマも、ラルモも、ハスタも来ない。
俺とミルダだけの、日常の食卓。
だからこそなのだろうか、どこかよそよそしい。
いつのまにか、やつらがいる時間のほうが日常に取って代わっていたのだと、
今更ながらに思い知らされる。

(一過性のものだ)

すぐにこれが日常に戻る。そう思い込むことにした。
食事の間にした会話といえば、飛行機のキャンセル料のことやら、
土産物はなにがいいかという話ぐらいだった。
その間、ミルダは何度も謝ったが、俺は上の空でそれを聞いていた。
こうしている間にミルダの携帯が鳴り出し、アルバイトのインフルエンザが
完治した旨の連絡が来ないかと、心の奥底で念じていたのだと思う。



だからというわけではないが、薄っぺらな着信音が響いたときは飛び上がりかけた。
なんのことはない。俺の携帯の着メロだ。
ハスタが勝手にドリフのテーマに設定して以降、直すのがめんどくさいので
そのままにしている。俺は自室の扉をくぐりながら、通話ボタンを押した。

「「こんばんは。ご飯もう食べました?」」

セレーナからだった。

「さっき食ったが」

「「そうですか。私はまだです。だから手短に」」

「何の用だ」

ヒュプノスからの電話以降、携帯電話にトラブルの匂いを
嗅いでしまう俺からしてみたら、今回のセレーナの電話も例外なく不気味だった。
しかも、セレーナとは数時間前に顔をつき合わせている。

「「昼間、言い忘れたことを伝えようと思いまして」」

「なんだ?」

ラルモの前では言えない話だろうか。不気味な予感が膨らむ。

「「前に私が言っていたこと、覚えていますか?」」

「前世がどうとかいうやつか」

「「ふふふっ」」

笑う吐息がかすかな雑音になった。

「「そこから発展してちょっと後」」

「色々話したからな。検討がつかん。全部覚えていることは覚えているが」

「「あぁ、そうですか?ありがとうございます」」

「用件はそれだけか?」

「「えぇ、まあ。それだけっちゃそれだけですね」」

身構えていた分肩透かしを食らい、力が抜けた。

「それだけなら切るぞ。忙しいんでな」

「「あっ、ちょっと待って。まだ続きがあるんです」」

言葉を選ぶ間があった。

「「リカルドさん、エルとかスパーダくんとか……、
あの子たちから相談みたいなこと、されたことってあります?
些細なことでもいいんですけど」」

「相談されたのか?」

一瞬にして、点と点が繋がった気がした。
セレーナはラルモかベルフォルマから俺がされたような話をぶつけられ、
返答に困って電話をかけたのではなかろうか。
同じように相談されやすい体質を持つらしい俺に、それこそ”相談”するつもりで。
だが、セレーナの返答は予想を反していた。

「「えっ?いいえ、なんにも聞いてませんけど」」

俺は息をついた。

「だったらなんなんだ。一体なんの用だ」

「「あら、私とは電話するのもお嫌?ずいぶん冷たいこと」」

「忙しいと言っただろう」

ミルダの件がまだ尾を引いていたのだろう、自然と声が荒々しくなる。
スピーカーがまた雑音を拾った。

「「少しくらいいいでしょう。息抜きです」」

「ただでさえ昼間の野暮用のせいで遅れが出てるんだぞ」

「「後々への投資ですよ。ずぅっと仕事してるわけにもいかないんですから。
本当に忙しかったら、ケーキ食べたり無駄話したりできませんよ」」

「お前な……」

柳に風。少しも動揺も気後れもしたところがないセレーナの口調に、
俺はいくばくかの冷静さを取り戻した。
電話の向こうの相手がセレーナでよかった。心底そう思う。

「……で、何が言いたいんだ」

俺がいくらか落ち着いたと感じ取ったのだろう、セレーナは続きを切り出した。

「「相談は、相互に談話する。打ち明けるは、打って開ける。
そして相談するほうとされるほうは等価な存在。
それが良いことなのか悪いことなのかは、結果が出るまでは分からない。
そう言ったのを覚えてますか」」

俺は頷いた。言葉こそ発しなかったが、伝わったようだ。

「「リカルドさんは多分、いろんな人の人生を垣間見て来たんだと思います。
ルカくんの、イリアの、スパーダくんの、エルの、そして私の、その他の色んな人も。
私、あのときあんな風だったけど。精一杯でした。恥ずかしくて、情けなくて。
話しているうちに自分の闇を覗き込んでるみたいで、膝が震えてました」」

三度、拾った雑音は、心なしか苦笑を帯びているように感じられた。

「「それは、あなたに私の荷を半分背負わせてしまった行為かもしれないけれど。
でも、どうか私たちの闇だけを見ないでください。
よく言うでしょう。闇あるところに光あり。
あなたに負わせてしまった荷物が、闇だけだとは思いたくないから……」」

それきり、会話が途絶えた。
セレーナの携帯のマイクはかすかな息遣いだけを伝えている。
俺はしばらく言うべき言葉を考えて、

「わかった」

とだけ言った。
四度目の雑音は、鈴が鳴るような笑い声で半分かき消された。

「「ありがとうございます。忘れないでくださいね。きっとですよ」」

「得意のお節介か」

「「心外ですね。リカルドさんほどじゃありません。
それに、私は今、リカルドさん専属お節介屋さんですもの。
では、良い旅を。楽しんで行ってらっしゃい」」

通話を切り、深い息を吐き出す。
身中の鉛を吐き出したような心地になった。

俺は携帯を机に置き、自室を出た。
ミルダの部屋の前に立つ。
ノックの手を伸ばしながら、日持ちするメニューを相談するための一言を、
どう言おうかと考えていた。



***********************************



揺れを感じ、浅く漂っていた意識が覚醒した。
小窓から茶と緑の色彩が見て取れる。
削れた山肌とまばらな森林。すぐに灰色の滑走路がのぞく。
こなれた抑揚の付いたアナウンスが流れた。
”みなさま、当機はまもなく長崎空港に着陸いたします。お座席のシートベルトを……”




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