We are THE バカップル42
42



「ようこそ、長崎へ」

ベルトコンベアーを横切った先に、見慣れた青白い顔が待ち構えていた。
俺はかすかに笑い返した。
いつ誰に見られるか分からないからだろう、ヒュプノスはピアスもサングラスもしていなかった。
警察人とはそういうものである。それが懐かしくもあり、虚しくもあった。

「出迎えのリムジンを用意してある。車内禁煙、火気厳禁だ」

先導に従い、空港の駐車場に向かう。
ヒュプノスは泥跳ねの汚れがかすかに残る紺色のセダンのドアを開けた。
洗車するヒマがないのか。ただ面倒なだけか。
妙なところに几帳面で妙なところにズボラである。
まあ俺も同じようなもんだが。

俺はセダンに乗り込む前に、薄い雲に飾られた空港を見上げた。
雨避けひさしの向こうに、教会のような佇まいの全貌が見える。
一つ飛びぬけた突端から、大層立派な金色の鐘がぶらさがっていた。
広々とした花壇は花で満ちている。一見規則性のない色とりどりの群れ。
機内で見たから分かる。花文字だ。”長崎へようこそ”

――あんなもの、あっただろうか。

幾度も目にしたことがあるはずの空港の姿は、新鮮な景色として網膜に映った。

「どうした、早く乗れ」

ドアから顔を覗かせたヒュプノスが急かした瞬間、二人組の女性の声が聞えた。
九州人らしく目鼻立ちがくっきりとした女性たちが、鶏のようにけたたましく
わめきながら、水色のコンパクトカーに乗り込むところだった。
まくしたてるように喋る、せかせかした長崎弁。
それを耳にしてようやく、長崎に戻ってきた実感を得た。



いくつかのトンネルを抜けた。
ウィンドウが荒々しく削られた山肌と、すし詰めにされたコンクリート壁を映し出す。
合間合間から痩せた木と乾いた草が見え隠れした。
車道は塗装されきっていて綺麗なものだから、どこかアンバランスな印象だ。

点在する飲食店が増えてゆくと同時に、殺風景な景色が都会らしい風情を見せ始めた。
ちゃんぽん。うどん。焼肉。ファミレス。どれもチェーン店だ。
三年前はあっただろうか。思い出せない。あの日も同じ道を車で走ったはずだ。

「昼飯は?」

それらを観察する視線に気付いたのか、ハンドルを握ったヒュプノスが聞いた。

「食った」

短く答え、助手席側の窓に肘を付く。それきり会話が途絶えた。
腹の中から一緒だった相手だ。気詰まりではないが、退屈ではある。
そういうとき、いつもそうするようにポケットの煙草に手が伸びたが、
すんでのところで元に戻した。
車中に煙草の匂いはない。禁煙しているというのは本当らしい。
あわよくば諭吉二枚を奪還しようと思っていたが、無駄な期待だったようだ。

「しかし、あれだな」

ヒュプノスが唐突に口を開いた。
やつもヒマだったらしい。その証拠に、切り出してみたものの
思いつく”あれ”が見当たらずに数秒黙った。

「こっちで東京から来たって言うと、妖怪みたいな目で見られるぞ。
年寄りは特にな。文庫本一冊読む時間で行き来できるってのに」

ヒュプノスはどうでもよさそうに言った。

「せいぜい口を滑らせんようにしとこう。
方言も使うか。あんた、なんばしよっとね。そこは右折ばい」

俺もどうでもよさそうに答えた。
ヒュプノスが小さく噴出す。

「兄者は?」

少しだけ和んだ空気を折り目に、一番聞きたくないことを聞くことにした。

「実家だ。三年ぶりに帰ってくる可愛い弟のためってことで、
わざわざ休みまで取って待ってる。今頃は庭の掃除でもしてるだろうさ」

「休み?大丈夫なのか」

「私も兄者も手空きなのだ。じゃなかったらわざわざ迎えになど来ない」

刑事のヒマは世の平和。そう呟いて、ヒュプノスは神経質そうにハンドルを弾いた。
捜査第一課の強行犯係。
ヒュプノスと兄者が所属している場所の名前が頭をよぎる。
殺人や放火などの凶悪犯を相手にする、いわゆる一番刑事らしい刑事の居場所。
以前は俺と共に二課の知能犯係で働いていたヒュプノスが、
どんな心情の変化があって一課へ行く決心をしたのかはわからない。

むしろ、一課行きを熱望していたのは俺のほうだったはずだ。
睡眠時間も余暇もいらない。いつか老後の自慢話になるような捕り物がしたい――
そんな俺を冷めた目で見ていたのはヒュプノスではなかったか。

(どうでもいい)

大事なのはヒュプノスの内面ではなく、その事実だ。
兄弟がそろって強行犯係にいる。
班長の兄者とヒュプノスでは立場は違うが、それでも稀有であり、奇妙なことである。
嫌悪と畏れの混じった噂話のひそひそ声が容易に想像できる。
――三班の班長は身内でチームを作る気だ

想像の線を延ばすまでもなく、気付いていた。そこに兄者の意図がある。

噂話の主役に三人目を加えたい。

兄弟ではなく、兄と双子がそろった捜査一課――
逆らわず、よく働き、一言えば十答える手足が欲しい――

「住宅地に入るぞ。ジェットコースタータイムだ」

セダンが細い路地へ入った。
寂しい車道から一転し、辺りはごちゃごちゃとした家並みで満たされていた。
このあたりは道が狭い上に、段差が多い。一つ角を曲がるたびに前方が蛇行している。
横切った小道の一つから、鉢合わせしたためにバックを余儀なくされた、
不幸な二台の車が確認できた。

滅茶苦茶に揺れる車内をやり過ごすうち、見覚えのある景色たちに出くわす。
東京に比べたら百倍マシなドブ川。
神社でもないのに玄関先に真っ赤な鳥居をぶちたてた家。
前を通るたび、立ちのぼる獣臭に鼻をつまむさびれたペットショップ。

それらが道路の上に下に、無秩序に建っている。
三年前の記憶通りの風景だった。
俺は長崎という土地ではなく、故郷に帰ってきたのだという思いを深くした。


五分と経たず、紺色のセダンが実家の前に着いた。
車を降り、少しだけ肌寒い風に身をさらす。

写真に撮ったように同じだ。
そう感じたのは最初の数秒だけだった。
すぐに、そこかしこに改装を施した様子が見て取れる。
三年。多少の感慨と、それよりも更に僅かな空虚が胸を突く。

「それでは、私はこれで」

「寄ってかないのか」

ヒュプノスは目を合わさず、車の扉を閉めた。

「夜回りの記者を立ち往生させては、後が悪い。
まだまだ一課では駆け出しなのでな」

紺色のセダンが、他に一台も見当たらない車道を小さくなって行く。
それが見えなくなるまで見届けず、実家の風景に向き直った。

どの時代の先祖が手に入れたかは知らんが、なかなか立派な敷地である。
車道より十数メートル低い位置に建っているので、見下ろす形になる。
だから玄関に入るためには、十数段ある階段を降らねばならない。
道路より低い位置に建つ家。
それが当たり前だと思っていた頃と比べて、妙に滑稽に映った。

長いドブ川は実家の後ろにまでかかっている。
転落防止の柵は、兄者の子供たちが大きくなってきたせいか、記憶にあるものより高い。
サッカーぐらいは出来そうな庭は、よくある日本庭園めいた雰囲気は微塵もなく、
さびしいものだ。庭というより敷地の余りものといった体裁である。

ぽつねんと一本立った柿の木の隣に、プレハブの倉庫がある。
かくれんぼの定石でありゴキブリの温床にもなっているその倉庫は、
今は使わなくなった玩具や三輪車で満ちているだろう。

ふと、石製の階段に一葉の枯れ葉も落ちていないことに気付いた。
兄者が掃き清めたのだろうか。
心臓の裏がかすかに張り詰める。

――これからだ

敵陣の本丸に踏み込む心地で階段の一歩を踏み出す。
そのとき。

「手ぇ〜を上ぁげぇろぉお……」

重低音の声を聞く一瞬前に、背中に固いものが押し当てられた。
ごり、と肩甲骨の間に食い込む感触は丸い。直径六センチから十センチ。

「よぉくもおめおめと姿を現すことが出来たなあぁ……」

独特の、粘りつくような、それでいて張りのある声。
一度聞いたら忘れられないだろうその発音は、一度聞いたどころか。

「やめてくれ……」

両手を顔の高さに上げながら、周囲の様子をうかがう。
人気、ナシ。車、ナシ。隣家、誰もいない。あぁよかった。

「何が目的だ」

「貴様の……いぃ〜のぉ〜ちぃ〜だぁああぁぁぁ!」

聞きなれない人間であれば、即座に命乞いしたくなる迫力である。
俺はため息をつきながら、くるりと振り返った。

「兄者。もう子供じゃないんだ」

そこには、竹箒を手にした体格の良い男が、一見凶悪な笑みをたたえて立っていた。
白い帯を締めた濃茶の着流しと同じくらい、精悍な顔は真っ黒に日焼けしている。

「たぁわけ、小僧が!」

男――兄者は、すっかり白一色に染まった髪をざっとかき上げ、

「ちゃあらちゃらと髪など伸ばしおって。しかもなんだ、そのヒゲは」

そういう兄者は山羊のように立派なヒゲを蓄えているのだが。

「手空きだと聞いているが」

兄者は忌々しげに鼻を鳴らした。

「ヒュプノスが言ったのか。お前には関係なかろう」

そういい残すと、兄者は竹箒片手に階段を降っていった。
入ってもよし。そういう合図だ。
黙って兄者の後に続き、懐かしい実家の敷地内へ入る。
庭を半分ほど過ぎたとき、倉庫の裏から小さな影が二つ、飛び出してきた。

「あっ」

「あっ」

俺を見て、ぴたっと足を止める。
庭に座るコオロギを発見したような二つの目つきが、俺をじっと見詰めた。
グリとゴリ。兄者の息子たちであり、双子の兄弟でもある。
昔の兄者のように、そして俺やヒュプノスと同じく色白で、釣り目、細面。
髪こそ白いが、彼らの遺伝子は兄者のものを優先的に伝えたらしいことが、
その面立ちから年々と見て取れるようになってきた。

「挨拶せい」

兄者が俺と我が子の両方に厳しく言った。
怒鳴っている語調だが、別に怒っているわけではない。これが普通なのだ。
それは他ならぬ親子であるグリとゴリも分かっていて、怖気けづいた様子はない。

「こんにちは」

「こんにちは」

「こんにちは」

最初が俺、次がグリ、最後がゴリである。
二番目と三番目は前後しているかもしれないが。

(……まいったな)

アニーミを責めた言葉を訂正せねばならないかもしれん。
すまん、アニーミ。すまん、甥っ子たち。
一応叔父なのに、全くサッパリ見分けがつかん。

「……大きくなったな」

とりあえず、お決まりの台詞を口にしてお茶を濁す。
グリとゴリは二人で顔を見合わせ、押し黙った。
表情に乏しいのは緊張しているせいか。
曲りなりにも甥っ子である。嫌われてるとは思いたくない。

「いま幾つだ?」

お決まりの台詞その2。

「答えろ」

兄者が高圧的に顎をしゃくった。
再度言うが、これが兄者の常態である。

「ななさい」

グリ(仮)が答えると、

「もうすぐはっさい」

ゴリ(仮)が対抗するように言った。

「まだ、ななさい」

「でも、もうすぐはっさい」

「ななさいは、ななさい」

「あと一ヶ月ではっさい」

グリ(仮)とゴリ(仮)が静かに火花を散らす。
一歩も引かない様子のグリ(仮)に、ゴリ(仮)がつっかかり、
俺とヒュプノスの前例といい、我が家の双子は総じて仲が悪くなるのだと、
今幼いグリ(仮)とゴリ(仮)の姿を前に改めて……
あぁもうめんどくさい。まとめてグリゴリでいいか。
ヨーロッパあたりにそんな名前の神様がいた気もするし。

「いい加減にしろ。見苦しいわ」

ともかく、兄者の一喝によってグリゴリの小競り合いは止まった。

「夕飯までには戻って来い。車に気をつけろ」

頷く我が子たちに向かって、兄者は一際声を張った。

「解散!」

多分、ホームレス中学生読んだな、兄者。



「遠路はるばるようこそおいで下さいました」

玄関をくぐると、兄者の奥方が腰を折って出迎えてくれた。
兄者の趣味か本人の嗜好かは知らないが、白い和服を身につけていて、
今にも三つ指を付きそうな風情である。
時代劇に出てきそうな、清楚で控えめな美人だ。
五十を目前にした兄者に対して、二十は若くみえる。
実際の年齢はわからん。実のところ、怖くて聞けないだけだが。

「疲れたでしょう。おあがりくださいな。お茶を用意しますわ」

奥方の好意に甘え、無駄に長っ広い玄関で靴を脱ぎ、居間にあがる。
フローリングに馴染んだ鼻が、古い畳のにおいに敏感に反応する。
俺は無骨なちゃぶ台の前にあぐらをかき、懐かしい場所を見回した。

おおよそ、小学生の子供がいる家庭の居間には見えない。
壁には江戸時代の小判が額縁に入れられて飾られているし、
地味な風合いの屏風やツボは実用性皆無であると一見で分かる。
時代錯誤なインテリア。
高校にあがったころだろうか、この居間で飯を食うたび、そんなことを思った。
その中で、電話機の隣の壁に取り付いた警電が妙に浮いているのも
記憶の通りだった。

ぶっちょう面の兄者が、次の間からすっと出てきた。
似合っていない老眼鏡が老いを感じさせる。手に五部ほど新聞を持っている。
朝に読みきれなかった新聞を、今から読むつもりなのだろう。

「書斎に持って来い」

台所に一声かけると、俺には一瞥もくれず襖を閉めようとする。

「兄者」

慌てて声をかけた。本題どころかさわりもまだなのだが。

「兄者、話は」

兄者がまるで聞えなかったように襖の向こうに消えたので、
中腰を浮かして声をかけるが、返事はない。
おい、耳に来るほどもうろくしたのかこの老いぼれ。
そう言いたいのは山々だったが、それが言えれば苦労はしない。
結局、それきり兄者は姿を現さなかった。

例えば、初めて煙草を吸ったとき。
例えば、ヒュプノスともみ合った拍子に兄者愛用の湯飲みを割ったとき。
通知表の成績がふるわなかったとき。近所の犬に悪戯をしたとき。
決まって兄者はああいう態度を取った。
徹底した無視。怒鳴られるよりよっぽどこたえる。

(勘弁してくれ)

この年になって食らうとは思っていなかったし、
なにより何も悪いことをした覚えもないのにそんな態度を取られて
なんとなく後ろ暗い気持ちになっている自分に腹が立つ。
トラウマとはかくも恐ろしいものか。
哲学的なことを考えて心中の波をおさめようとする俺の前に、
困り顔の奥方が戻ってきた。
奥方は盆の上の湯飲みを音もなくちゃぶ台にスライドさせると、
少しだけ俺に顔を近づけて言った。

「ごめんなさいね、本当は喜んでるはずなんですけど」

奥方の淹れた茶はうまかったが、俺の気分はどんどん沈んでいった。


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