We are THE バカップル
43



奥方は少しだけ雑談をした後、二階の部屋に案内した。
以前、俺が使っていた部屋だ。
高校を卒業して家を離れて以来、空き部屋になっている。

畳敷きの六畳間は綺麗に掃除はこそされていたが、
人が離れて久しい部屋というのは独特のにおいがするものだ。
陽焼けした壁紙の一部だけ、白さを保っているスペースがある。
確か、当時気に入っていたグラビアアイドルのポスターを
張っていた場所のはずだ。
興味が失せた後もなんとはなしにそのままにしていたので、
最後のあたりはボロボロになっていたのを思い出す。

俺は十年近く物置かなにかになっていただろう元俺の部屋に荷物を置き、
丸めた座布団を枕にし横になった。
鞄から携帯灰皿を抜き、一服つける。

そうする内に起き上がるのがめんどうになった。
今日中に予定していた墓参りは、明日に回そう。
俺の先祖も一日ズレ込んだぐらいで怒るほど狭量じゃあるまい。
なにより、頭を冷やしたかった。
自分の心の中に巣食う”兄者”の存在の大きさを
来るべき決戦のときに向けて、なるべく打ち消してしまいたかった。

中学に上がる前に父が死に、高校を卒業する前に母が逝った。
二人とも老年だった。親子より祖父と祖母に見られるほうが多かった。
同級生の中には、兄者のほうを父親だと思っていたやつもいたぐらいだ。

だが、まさしくそうだった。
兄者は俺たちにとって、父が死んでからは父で、母が死んでからは母だった。
なまじ兄でもある分、親代わりという言葉だけでは語りつくせない重み。

数え切れないほど恩があり、俺の人格も落としどころも把握しきっている
兄者と対決することが恐ろしかった。
彼の目を見て、きっぱりと意志を告げることが出来るかどうか。
わからない。だが、やるしかない。
みるみる内に萎む心に喝を入れる。

(揺らぐまい)

決意して、腕時計を見る。四時を回っていた。
そのとき、胸を振動が揺さぶった。携帯。
機内でマナーモードにしたままだったのを忘れていた。

ミルダか。
そう思いながら胸ポケットから携帯を取り出すが、
ディスプレイを見る前にその思いを打ち消した。時計の針を思い出す。
四時。まだバイト中だ。
ならば誰からだ。訝りながら液晶を見ると――

俺はそっと、震え続けている携帯を裏向きに畳の上に乗せた。
見たくない名前が見えた気がする。
多分気のせいだろう。
そう決め込んで、煙草を揉み消す。
携帯の振動が切れ、数秒の静寂が訪れる。間を置かず、しつこく振動が起きた。
呼び出し状態から留守電へ送り込む時間いっぱいまで震えた後、再び鎮まる。

それが三度繰り返されたとき、俺は先ほど液晶に表示された名前が
気のせいや幻覚の類ではないのだと確信した。
――このしつこさは
四度目の振動。ため息混じりに携帯を拾い、通話ボタンを押す。

「「やあやあお待ちかね。オレだよ!」」

陽気と陰気の間を彷徨っているような声が鼓膜をゆさぶる。
今日は若干陽気寄りだ。いいことでもあったか。

「何の用だ」

俺は電話口の向こうのハスタに、ありったけの”迷惑そうな態度”を
動員した声で告げた。

「「なんだろうねぇ、なんでしょうねぇ〜」」

「切るぞ」

元より話をする気分ではない。相手がコレなら尚更である。

「「ぱっぱらぱ〜ん!クイズタイム〜!」」

ハスタは無視して続けた。
今すぐ通話をブチ切りたい。出来ない自分を呪うばかりだ。

「「オレは今どこにいるでしょう?」」

「…………」

これは、アレだ。デジャ・ヴというやつだ。
俺はうんざりと息を吐いた。

「部屋の前とか言うなよ」

「「アリ?なんで分かったんデスカ?」」

「家には誰もいないぞ。今、里帰りしてるんだ」

「へぇ〜」

ハスタは世界中のどうでもよさを集めたような相槌を打つと、

「「ミミガーくんはいないのかい?」」

「ミルダはバイトだ」

「「なんだそれぇ。オレのガラスの仮面は?まだ途中だぜ。
続きが気になって気になって夜も爆睡」」

「とにかく、今誰もいないから、来るなら今度……」

言いかけたとき、カチャリ。そんな音をスピーカーが拾った。
まさか。思った瞬間、小さな声が聞える。

「「あ……」」

間違いようがない。ミルダの声だ。

「「あれぇ〜、いるじゃん。お邪魔しまっしゅ」」

空転した頭に、ハスタが無理に押し入る物音が聞こえる。

「「んじゃ、切るねっ」」

「待て、切るな」

かろうじでそれだけ言った。

「ミルダがいるのか?」

「「ミミガーくんならいるけど。パジャマ着て」」

パジャマ……?バイトは?

「ちょっと代われ」

一秒も空かず、ミミガーく〜ん、リカルド氏が代われって〜、と声がした。
すぐに、がさがさとノイズが混じる。
ミルダに携帯が渡ったのか。十数秒待つ。応答はない。

「「……はい」」

それからたっぷり一分後、やっと弱々しい声が出た。
その間に、動揺は苛立ちに変じていた

「どういうことだ」

苛立つ声を隠しもせずぶつけると、電話口が怯んだ吐息を拾う。

「「あの……ハスタさんが」」

「どういうことだと聞いている。バイトは」

決意するような間があった。

「「ちょっと体調が悪くて……、休んだんだ」」

「どこが悪いんだ」

「「体がダルくて……、あと、頭が痛い。風邪だと思う」」

嘘だ。直感的にそう思った。
朝方見たミルダにそんな素振りはなかった。
上機嫌で俺を起こし、トーストを三枚も食っていた。
怒りが膨らむ。なぜ、嘘をつくのか――

(しかし)

本当に体調が悪いのかもしれない。
その可能性も頭から消しきれなかった。
朝方には良かった調子が崩れることも、おおいにあることではないか。
なら、ここで疑心をぶつけることのほうが無為だ。
詭弁、欺瞞。そんな言葉が頭をよぎるが、打ち消した。

「分かった……無理をするなよ」

「「うん、ごめんね」」

何に対して謝っているんだ。
今にも口をついて出そうなその言葉を呑む。

「悪くなるようだったらハスタに言え。あいつも一応大人だ」

「「うん、そうする」」

「あと一つだけ」

「「……え、なに?」」

探るような声色。
にわかに胸が苦しくなった。

「なるべく当日欠勤はするな。
当日に入れると、本当に体調不良でもサボりと思われるからな」

呑んだ言葉が形を変えて発露したのではないか。
ハスタにミルダを頼み、通電を切った後、そんな思いにとらわれた。



夕飯の席でも、俺はぼんやりとしていた。
卓の上には皿うどんや、アマダイの味噌焼き、刺身の盛り合わせが並んでいる。
久しぶりに郷里へ戻る義弟のために、奥方が腕を振るったのだと分かる。
その証拠に、料理を口に運ぶグリとゴリの顔は輝いていた。ご馳走だ。

しかし、俺は事務的に箸を動かした。
うまい。味覚はそう感じ、何度か言葉にもしたのだが、頭がついてこない。

(なぜ、嘘をつく。なぜ、一緒に来なかった)

一度抱いた疑心は、際限もキリもなく膨らんで行った。
長崎へ行くのが嫌だったのなら、そのとき言えばよかったのだ。
いや、きっとそうじゃない。旅行自体は楽しみにしていたはずだ。

”行く!行く、行く!絶対行く!やった、旅行だ!”

あの瞳の輝きに嘘があったとは思えない。思いたくない。
ならば、なぜ?
結局は、最初の疑問に立ち戻る。
ミルダの心の推移は推し量れなかった。
あのとき、心を偽らずに詰問していれば。
勘違いだったのなら謝ればよかっただけではないか。
いまごろになって思う。

飯を食ったらそうしよう。
本当に具合が悪いのだとしても、そろそろ安定する時間だ。
そう。心配するふりをして電話をかければいいだけだ。
遠まわしに様子をうかがう。なんだかんだで純朴なやつだ、疑うまい。
誰の心も痛まない。

(しかし、本当にそうか)

少なくとも、俺の心は痛むのではないか。



気付くと、奥方と子供たちがいなくなっていた。
そのかわり、スーツ姿のヒュプノスが食卓に座っている。

「いつのまに」

「は?」

余りものの刺身を肴に晩酌をしていたヒュプノスが顔を上げる。

「いつ来た」

「十分前にはいたが。……お前、大丈夫か?」

ヒュプノスは本当に心配そうな顔をした。
裏腹に、俺は新たな疑心を得た。
夜回りの記者対策に独身寮にひっこむ。ヒュプノスはそう言った。
ネタになりやすい捜査情報を握っている一課の人間らしい言い訳に、
まんまと騙されたのではないか。
その実、兄者と俺を二人きりにさせてプレッシャーを与える作戦
だったのではないか。膨らんだ疑いがそう結論を出した。

「記者対策は本当だ」

ヒュプノスが見透かしたように言った。

「この前、小金目当てでタレ込んだ馬鹿がいたからな。
捜査員一同、そういうことがないように説教大会されてた」

「そうか……大変だな」

言った後、自己嫌悪にかられた。
大変だな。反射的に出た言葉はどこか、借り物のように空疎だった。
くだらないことで身内まで疑う心がそうさせた。
俺は力いっぱい自分の頬を張りたい気分に駆られた。
プロレス愛好会に入会してアントニオなにがしにビンタしてもらいたい。

「いや、私の事情はいい。仕方のないことだ。
むしろ、本当に大変なのはお前のほうなんだが……分かってるのか?」

分からなかった。
大変なことは大変なのだが、ヒュプノスが知るはずない。
顔色に出るまで落ち込んでいたか。そう思って、額をさすった瞬間、
ヒュプノスが隣の座の兄者に目配せした。

(あぁ……)

隅に追いやられていた懸念が、忘れていた分だけのしかかる。
そうだ。兄者と対決するためにここまで来たのだった。
ミルダに対して疑心を募らせているヒマなどなかった。
失敗した。何の心構えもできていない。

夫人と子供たちが席を外したときに気付けばよかったのだ。
警察官の妻としてのつつしみと処世は、こういった話をするときに、
子供たちを部屋に押し込め、自身も姿を見せないように徹底している。

(ついに来る)

目の前に、飲んだ記憶はないが目減りした酒のグラスがある。
兄者の前にはない。
いついかなるときも酒は飲まない。係を執りしきる班長としての矜持の他に、
言外に”話がある”と告げる態度の表れ。そう感じた。
やにわに空気が張り詰める。

「愚弟が」

最初に切り出した兄者の言葉に、俺はうろたえた。
タイム。そう思う。停止ボタンかリセットボタンが欲しい。
いっそのこと電源からぶち抜いてもいい。
しかし、このだだっ広い居間のどこにも、
そんな便利ボタンは備え付けられていなかった。

「例の資金洗浄の男。まだ出てこないぞ」

兄者は俺の目を見据えていった。
鳩尾に渾身のストレートを叩き込まれた思いだ。
三年前のあの事件。額を裂かれ、腹を刺された。
傷の痛みは、心の痛みと共に鮮明に記憶している。

「マル暴でさえないチンピラだった。
借金苦であえぐ、気弱で、媚び売りだけが取り得の男だ。
檻の様子は知らんが、模範囚なら三年で娑婆に出れる計算だ。
なぜ、まだ出てないかわかるか?」

俺は答えなかった。答えられるはずもなかった。

「貴様のミスのせいだ。警察官への傷害。わかるな?」

兄者は湯飲みを持ち上げ、一口つけた。
俺とヒュプノスが割ってしまって買い換えた湯飲み。
兄者の誕生日に、二人の小遣いを出し合ってプレゼントした。
以前のものと比べて風合いも格も比べようもない品。
だが。悪くない。兄者はそれだけ言った。
その日はステーキだった。貯金を崩していい肉を買ってきてくれた。
祝うことも忘れて二人で貪り食った。うまかった。

「更に貴様は、子供にも罪を負わせるという許しがたい愚行をした。
唯一の親を奪ったあげく、年端も行かん子供に重圧を科した」

今までにないほど冷たい声だった。
癒えかけたかさぶたを剥がされる痛みに、脳裏のステーキが吹き飛ぶ。

「取り調べも検察も裁判も荒れた。警官の不注意。言い訳すらない。
各部が責任を取った。あのときは、誰もが眠らずに働いた。
貴様が、ベッドの上で東京へ逃げる算段をしていたときにだ」

「そのことについては……」

「すまないと思っている、とでも言うつもりか?
そんな言葉になんの効力がある。この俺の昇進も遅れた。
俺だけではない。当時関わっていた幹部全員のだ。
責任を取るというのはそういうことだ」

「だからと言って、戻ることはできない」

清水の舞台から飛び降りる思いで発言した。
兄者の眉が侮蔑の形に歪む。
俺は彼が口を開く前にまくしたてた。

「東京に置いていけないものがある。今の仕事も気に入っている。
あの事件については、返す言葉もない。兄者の言うとおりだ。
だが、それで俺に戻れと言うのなら、そんなことは聞けない」

「ほう、辞表を書いてすっきりして、新しい生活で羽を伸ばしたらしいな。
その間中、長崎は責任を転がしてきた。貴様一人のミスをかばうためにだ。
彫刻家だと?今の仕事が気に入っている?」

兄者は鼻で笑った後、表情を消した。

「ふざけるな!貴様にまともな芸術作品とやらが作りだせるものか!」

兄者の平手がちゃぶ台に飛んだ。ばん、と揺れる。

「小童が!心身ともに東京の毒に侵されて来たらしいな。
誰も言わんようなら俺が言ってやる。いいか。
昨今、芸術は心の豊かさを育むなどと愚にも付かぬ考えが横行し、
まともな職で生きてゆく決心がつかん馬鹿どもの温床になっとる。
貴様は泥の中の地虫だ。これ以上腐ったぬるま湯に浸かるのはやめろ!」

瞬間、頭にカッと血が昇った。

「兄者ぁ!」

俺は体を乗り出し、掌をちゃぶ台にたたきつけた。
いよいよ倒れたグラスがテーブルに水模様を飛ばす。

「俺を罵るのは勝手だ!だが、俺の職業まで侮辱するのはやめてもらおう!」

「俺の職場に後ろ足で砂をかけた分際で、何を言うか!」

「それと今の職業は無関係だ!」

「無関係なものか。負け犬が逃げ込む場所は負け犬相当だということだ!」

真っ向からにらみ合う。ヒュプノスは目を閉じて天井を仰いでいる。
兄者は一つ息を付き、改めて腕を組んだ。

「幸い、次席はお前の事件に心を痛めている」

「建前だ」

考えるまでもなく分かる。
不祥事が起きれば、傷を負うのは上の人間だ。
責任を取る人間を戻したいのだ。兄者も、次席も。

「建前だったらなんだ」

「従えない。俺はもう組織から外れた。命令を聞く義務はない」

「それがどうした。一度警察に入った人間は、一生警察人だ。
貴様が芸術家などという道を選んだのも、それを折り込んだからだろう」

俺は返答を失くした。図星だったからである。

――あなたは、なぜ警察を辞めたのですか

心身共に健康体の男がまっとうな場に身を置こうとするなら、必ず聞かれる。
いや、聞かれずとも”元警察官”という身分は”警察から逃げ出した人間”
に変換される。事情を話して聞かせることなどできない。

経歴詐称でもしない限り、一生まともな職にありつけそうになかった。
だから、枷の軽い場所を選んだ。
姑息に安全地帯を嗅ぎつけ、さも以前からの夢であったような顔をして居座った。

見透かされていた。兄者は、俺の弱さを最初から承知していた。
負け犬。その通りだ。怒りが萎む。噛み付く牙が根元から抜ける。
俺が座布団の上に戻ると、兄者がうんざりと息を付いた。

「次席以下の全職員へ、借りを作ったままないがしろにするのか。
遠く離れた場所で、のうのうと自由な人生を気取っていられるのか。
俺に、貴様がそういう人間だったと思わせるのか。
お前の言葉には何の期待もしていない。行動で誠意を示せ」

「だが……」

俺は、なおも渋った。
頷くわけにはいかない。それは即ち、この地に戻るということを意味する。
ミルダ、アニーミ、ベルフォルマ、ラルモ、セレーナ。
教師連中とハスタを加えていい。まだ、あいつらと共に過ごしたい。
あの夏休みの馬鹿馬鹿しい騒ぎをまるっきり思い出にしてしまいたくない。
それを甘えだと言われてしまえば、俺はどうすればいいのだろう。

(ミルダ)

その名前が、心に風穴を通した。
やつを置いてはいけない。絶対に。
だが、あいつは嘘を付いたではないか。
告白する機会は山とあったはずだ。あの電話のときにでも言えばよかったのだ。
意図して隠したのだ。
そして俺が帰ってきた後、笑顔でこう言うつもりだったに違いない。

――おかえりなさい。どうだった?僕も行きたかったなあ

「刑事課に未練はないのか」

兄者の言葉が脳をゆさぶった。
ないわけがない。志半ばだった。あんな事件が起こらなければ
今頃は一課で腕をふるっていたかもしれない。何度もそう思った。
華の強行犯係。刑事らしい刑事。本当の夢だった立場。
今からなら、間に合うかもしれない。そこに立てるかもしれない。
レールを作った主だけではなく、列車本人も元の軌道に戻りたがっている。
すんでのところでブレーキをかけていただけではないのか。

シャツの胸元を掻き集める。
ひどく気分が悪い。
俺は兄者から目をそらし、ヒュプノスを見た。

ヒュプノスは神妙な顔で押し黙っていた。
潔く助け舟は出さない。
いつもならありがたく感じる心遣いだが、今は藁にもすがりたい思いだった。
ミルダのこと。兄者のこと。事件のこと。夢のこと。己の矜持。
それらがない交ぜになって頭を揺さぶり、体が崩れ落ちそうだった。

”兄者、続きは明日にしたらどうだ”

そんな一言が薄い唇から割って出ないかと、期待を込めて凝視する。
だが、ヒュプノスの声の代わりに場に響いたのは、固い電話音だった。
兄者が舌打ちして立ち上がる。

遊び心の欠片もない固い音色は覚えている。警電。
その無機質な着信音が天の声に聞えた。
兄者は一言二言やりとりを交わすと、警電を切って振り返った。
もはや俺など見えていない。

「市内で強殺だ。本部に急行する」

「わかった」

ヒュプノスが席を立ち、玄関に向かう。車を準備するつもりだ。
去り間際に俺のほうを一瞬だけうかがったが、
すぐにひょろりとした背広は扉の向こうに消えていった。

次の間に引っ込んだ兄者が、数十秒と経たない内に出てくる。
バリっと糊の効いたスーツ姿を見るのが、今は辛かった。
二人の姿に嫉妬でも覚えれば、はっきりと未練を自覚することになる。

電話が来てから数分としない内に、俺だけが取り残された。
夢でも見ていた思いでテーブルを眺める。
そうするうちに、畳へ雫が零れ落ちそうになっていることに気付いた。
手を伸ばしかけたとき、すっと襖が開き、奥方の顔がのぞいた。

「あ、いいんですのよ。今、拭きます」

まだ前掛けを掛けたままの奥方の手には布巾が握られていた。
物音で、グラスが倒れたことを知っていたのだろう。

「すみません」

俺はそれだけ言って、手伝いも申し出ずに立ち上がろうとした。
気まずさと気恥ずかしさの両方に突き動かされたが、
奥方はそっと俺の手を握り引き止めた。

「お茶をお持ちしますから。お酒のほうがいいかしら。
どちらでお召し上がりになりますか」

「茶で……部屋にお願いします」

奥方は和やかに笑って、えぇ、そうしますわ、と言った。
俺はなんとなくその場から去りがたくなった。
阿呆のようにちゃぶ台の横に突っ立ち、奥方の所作を眺める。
よどみない。ミルダも仕事場では、ああいう風にテーブルを拭うのだろうか。
飯はちゃんと食ったろうか。夜更かしはしてないか。歯はちゃんと磨いたか。

明日になってもミルダの顔は見れないと思うと、とたんに苦しくなった。
さきほどまで、あれほど疑っていたのに。

「それでね、あの人……」

奥方の声に、はっとする。
何かを俺に語りかけていた。失礼にも聞き流していたようだ。
優しげな目が俺に振り向く。

「物言いはきついけれど、ちゃんと分かっているのだと思います。
あなたにはあなたの人生があるって。
偉そうにしているけれど、要はまだ子供なんです。
弟が手元を離れてさみしがってるだけですわ。
だから、あなたはあなたの心のままに選択することを、
本当はあの人だって望んでいるのだと思います」

それが言いたくて、俺に声をかけたのだと気付いた。
荒れた心に、一滴の水を与えられた気分だった。
しかし、砂漠に一滴垂らそうとも、一瞬にして砂に飲まれてしまう。

「えぇ……、分かっています」

分かっている。分かっているからこそ、つらい。
俺はそれ以上奥方の顔を見ていられず、逃げるようにその場を後にした。



俺は表面も埃っぽく褪せた墓石の前に手を合わせた。
いくら上から水で清めようとも、年月と劣化を重ねた御影石は綺麗にならない。

兄者とヒュプノスは、朝になっても帰ってこなかった。
予想していただけに、夜通しで戦々恐々する必要はなかった。
恐らく、数日は家に顔を見せまい。
兄者との対決はあれきりになる。
言いたいことの半分も言うことができなかった。
未消化ではある。しかし、俺にとってはありがたかった。

考える時間。決断する時間。それだけが欲しい。
兄者は俺の言い分など、最初から聞くつもりなどなかったのだ。
イエスかノーか。単純明快に、それだけを聞きたかったに違いない。
長らく目をそらしていた現実を突きつけ、選択を迫ったのだ。

(きっとミルダも、そうだったのだ)

一晩眠って気分が入れ替わると、俺はそんなことを思った。
言わなかったのではなく、言えなかった。
告げれば嫌われる。軽蔑される。怒られる。責められる。
いや、俺が嫌な気分になるから。
その一心で、咄嗟につきたくもない嘘をついた。
受話器を握って一分迷った末に、そうすることを選んだ。
そんなことにも気付かなかった。

墓石に桶の水を掛けると、一瞬、最低の男の顔が映った。
俺はふっと顔を上げた。
手を合わせる前に、花と線香を手向けるのを忘れていたのを思い出す。
兄者がいれば叱責の一つでも飛ぼうものだが、
幸い、ここには先祖の霊以外に見ているものもいない。
俺の先祖なのだからウッカリぐらい見逃してくれるだろう。

そう思いながら枯れた花が刺さった花瓶を空にし、新しいものを差す。
そして数十本、買った分だけの線香を握り、ライターで火をつけた。
一瞬、爆薬のような炎が上がる。それを振り消し、墓の前に手向ける。
派手なほうがいい。この地では、灯篭流しは爆竹祭りだ。
高い丘に築かれた墓地から、青い空と雲が見えた。



長い階段を降ると、面した道路に紺色のセダンが止まっていた。
ウィンドウが開く。青白い顔に向かって歩み寄る。

「進捗情報は?」

「秘匿だ。知りたかったら、復帰しろ」

冗談めかして言った後、指先に摘まんだ紙切れを窓の隙間から差し出す。
昨日の車中、ヒュプノスに頼んだ調べもの。
ひまだと見込んで頼んだのだが、この忙しい中よく果たしてくれたと思う。

「悪いな」

「気にするな。それではな」

言葉もそこそこに、セダンが走り出した。
ドア付近の泥はねが増えている。昨夜はさぞかしかけずり回ったことだろう。

石段の前で、メモの形を指でなぞる。
取るべき決断。するべき覚悟。逃げていた過去との対峙。
それらが全て、この十センチ四辺の紙切れに載せられている気がする。 

俺はしばらく目を伏せた後、紙片を広げた。
メモにはこうあった。


   シアン・テネブロ(13)
   長崎市○×児童養護施設
   長崎市△△四の八のニ


シアン・テネブロ。
三年前、俺を刺した少年の名前だ。

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