We are THE バカップル44
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海を背にした建物は、見事に褪せていた。
モルタル塗りの壁は腐食が目立つ場所だけを塗りなおしたようで、
そこかしこの色合いがちぐはぐになっている。
建物が四角く白一色で、同じような風合いの高塀に囲まれているから、
一見したら巨大な学校に見える。
しかし、百人からの児童を収容する施設は、
一般的な学園とは比べ物にならないほど様々な設備が配置されている。

セーラー服の少女が、すいっと横を通り過ぎ、建物の中に吸い込まれていった。
午後四時半。
学業を終えた学生児童たちが戻ってきてもいい時間だ。
その時間を狙って訪問した。
俺は立派な門構えに掘り込まれた文字を改めて眺めた。

”ひまわり学園”

なんら平凡なその名前が、無責任に悲しく思えた。



眺めていると、プレハブの詰め所から老人が出てきた。
電車に乗っていたら真っ先に席を譲られそうな風体をしているが、
服装から見て警備員らしい。
俺は名を告げ、昼に電話を入れたものだと告げた。
老人は詰め所に戻ってしばらく、お入りくださいとしわがれた声で促した。

案内に従って通用口へ向かうと、四十年配の女性に引き渡される。
女性の後ろに付いて、応接室へ入った。
革張りのソファは固く、あまり上等なものではないと体で分かる。
女が出した茶をすすって待つ内に、頭の薄い赤ら顔の男が出てきた。

「やあやあ、よくお越しくださいましたね」

男は施設長だった。顔は赤いが髪と歯は白く、握手した手がやけに分厚い。
掌以上に、全身が大きく浮腫んでいる。風船を詰め込んだような体躯だ。
俺は再び名を名乗り、

「それで、テネブロくんとはお会いできるのでしょうか」

俺はヒュプノスからメモを受け取った後、タウンページを引き、施設へ電話を入れた。
電話に出た職員は渋った。
このときばかりは事情を話さないわけにはいかなかった。
職員は、なにぶん事情が事情ですのでと前置きし、
面会が叶うかどうか分からないが一応足を運んではどうかと告げた。
俺はその日の内にうかがう旨を伝え、その足で施設に向かった。

「それがねえ……、事情が事情ですからねえ」

施設長は職員と同じ台詞を繰り返した。

「親族以外の方が来るのは珍しいんですよ。前例がなくてねぇ」

「会えませんか」

施設長は難しい顔をして、丸太のような腕を組んだ。

「いえ、会えますよ。問題ないです。ただ、シアンのほうがね」

語尾に”ね”をつけるのは長崎人の癖だ。

「会いたくないと、そう言ってるんですか」

肉に埋もれた小さな目が瞬きする。

「いや、そうは言ってないんですよね。なんとも言わんのです。
会う気持ちは少なからずあると思うんですがねぇ。
こればっかりはね。子供の意志を尊重しなけりゃならんでしょ」

「そうですか……」

俺は半ば諦めた。
あの事件は俺だけの傷ではない。
樫の木のように痩せた少年を思い出す。彼は俺以上の傷を負っただろう。
三年。他の思い出に埋もれさせるには充分な時間だ。俺もそうしてきた。
ならば、俺の訪問は傷口に塩を塗る行為になりはしまいか。
気分一つで動かして良い事情ではなかったのかもしれない。
俺は一つ息を付き、椅子から立ち上がった。

「わかりました。ご迷惑をおかけしました。
明日の午前中までは長崎にいるので、進展があれば電話を……」

言いかけたとき、ノックの音が響いた。
首をめぐらすと、先ほどの四十年配の女性が立っていた。
その横に、小柄な影が立っている。
言葉を失った。思わず立ち上がる。

(シアン・テネブロ)

あいかわらず、体躯は樫の木のように細い。
色黒の手足がTシャツと半端な丈のズボンから伸びている。
ふっと、うつむいた顔がはっきり俺を見た。下から睨みつける目つき。
疑心と敵意と怯えが入り混じったような鋭い視線。
間違いない。あのときの少年だ。シアンだ。

応接室の扉が閉まり、女性とシアンが入室する。
ずいぶんと背が伸びた気がする。女性の隣にいるからか、
俺が記憶の中の少年を小さくしていたのか。

「会いたいと言ったので、連れてきました」

女性が施設長に向かって言った。
肉の間の目はしばらく少年を探るように見たが、
しばらくして、うん、そうかそうか、と頷いた。

「じゃ、ここに座らんね」

施設長が己の隣をぽんぽんと叩く。
しかし、少年は動かなかった。

「ん?どげんしたとね?」

「……聞かれたくない。二人にしてくれよ」

施設長以下の大人三人は、一斉にシアンを凝視した。
シアンは僅かに眉を不快の形に歪める。

「聞かれたくないんだよ。いいだろ。場所もここじゃイヤだ」

まだ少女のような声が畳み掛け、すっと背中を見せた。
その背中で言う。

「ついでにケルとベロも散歩に連れてく。
用意があるから、その人は先に出しといて」



俺とシアンは、施設から少し離れた公園で待ち合わせた。
シアンは俺の姿を確認すると、合図もなく二頭の犬のリードを引いて歩き出した。
黒々とした毛が美しい、あまり見たことがない犬種の大型犬だ。
俺はシアンから数メートル離れて後を追った。

そのうち、海が見えた。
シアンは何の迷いもなく浜辺に歩いていく。犬たちが喜び勇んで飛び跳ねた。
道中は何も話さなかった。
ビニール袋とリードを持ったシアンの背中が、声を掛けることを許さなかった。

シアンは浜辺を中ほどまで歩くと、首輪からリードを解き放った。
すぐさま黒い塊が波打ち際で遊ぶ。
小柄が湿っていない場所を選って座り込んだ。
俺は少し迷った末、三人分空いた場所に腰を下ろす。
潮のにおいがきつく、吹き込む風の冷たさが耳をなぶる。
二匹の犬は打ち上げられた空き缶を見つけ、おおいにはしゃいでいた。

「何か話せよ」

どれほど黙っていただろうか、シアンが苛立たしげに言った。
横顔を見る。まだ鼻筋の線がゆるやかな幼顔だ。視線は犬たちを眺めている。

「……テネブロくん」

シアンは鼻の頭に皺を寄せた。

「その苗字はキライだ。シアンでいい」

「では、シアン。俺はリカルドという」

シアンは何も答えなかった。
俺の名を知っていたのだろうか。知らなかったのだろうか。
どちらも残酷なことのように思えた。
一度見ただけの大人。顔もろくに覚えていなかったろう。
だが、特別な存在には違いない。
己から父を奪い、己が傷つけた人間――

「あの犬、名前はなんだ?」

「ケルとベロ。さっき聞いたろ」

「犬種は?」

「知らない。たぶん雑種」

「犬、好きなのか」

「別に。僕に一番懐いてるから面倒みてるだけだ」

うざったそうな答えが返る。

「施設の暮らしはどうだ?」

「どうだって、なにがどうなんだよ」

「食事や待遇に不満はないかという意味だ」

「タイグウ?」

「取り扱いや処遇という意味だ」

眉のつりあがり幅が大きくなった。

「もっと分かりやすく言えよ。……飯も寝るところも普通だ。
そもそもここ以外知らないんだから、比べられないだろ。
くだらないことを聞くな」

シアンの言葉が終わるのを待って、次の質問をした。

「学校にはちゃんと行っているのか?」

舌打ちが返る。

「そこそこ」

「友達はできたか?」

「何でお前に教えなきゃならないんだよ」

「話が続かないからだ」

「当たり前だ。お前らに話すことなんかない」

シアンは手元の砂を握った。
投げつけるかと思いきや、その指がゆるゆると広がり、砂を逃した。

「警官はキライだ。お前ら、なんにも守ってくれないじゃないか」

「そうかもな」

再び、沈黙が流れた。
波打ち際で二匹の犬が遊んでいる。
交互に咥えるから、すっかり缶はへしゃげていた。
犬たちが視界の右側に消えるのを見届けて、言った。

「俺はもう警察官じゃない」

「えっ……」

施設内で顔を合わせて以来、シアンの視線がこちらに向く。

「あの後、すぐ辞めたんだ。今は東京で彫刻家……、
木を彫って、それ売ったりなんだりして暮らしてる」

絶句の間があった。

「あ……」

「最初はどうなるかと思ったが、やってみると楽しいもんだ。
東京も言われるほど悪くない。住んでみて初めてそう思った。
だが、その前にやらねばならんことがあった」 

シアンの顔を真っ向から見詰める。
赤い瞳が、僅かに揺れた。逸らされる。そう思ったから、
矢継ぎ早に次の台詞を言った。今しかない。言うなら今しか。

「すまなかったな」

瞳の揺れ幅が大きくなる。
逸らす機会を失った瞳は、凍りついたように俺を見つめていた。
俺を責め、許さず、それでいて助けを求めるような目。
視界の中の赤い瞳が、蒼い瞳にとってかわりそうになる。
努めてその想いを追い出した。

「許してくれとは言わん」

俺は立ち上がり、服に付いた砂を払った。

「一生抱えて生きて行くさ。それぐらいしか出来ないからな」

「…………」

シアンは、やはり何も言わなかった。
言わないのではなく、言えないのだろう。
いつもそうだ。言わせない雰囲気を作っているのは俺だ。
卑怯者。負け犬。そう謗られても仕方がない。

「とにかく、顔が見れて良かった。元気そうで安心した」

波のそばを、海水でしとどに濡れた犬がとぼとぼと戻ってくる。
右側の波打ち際には収獲がなかったのだろう。
俺は、収獲があったか。わからない。
鉛のような心の重さは一向に減る機会がない。
だが、それでいい。そうするべきだった。
この重さを見詰めて生きてゆくべきだった。
シアンの姿を見て、あらためてそう思った。
じゃあな、と言って去ろうとしたとき、シアンが立ち上がった。
無表情が俺を見詰める。

「怪我したからか」

一瞬、言っている意味が分からなかった。

「僕が刺したから辞めたのか」

「……それは」

違う。そう答えるべきだったと思う。
しかし、遠因ながらも関わっている以上、即答は出来なかった。
大事なところでためらってしまった。愚鈍だ。
しかし、己を罵る間もなかった。
シアンの幼顔が悲壮に歪んでいた。両拳を握っている。

「お前に謝られたら、僕はどうすればいいんだよ!」

叫び声に、ふっと目の前が暗くなった気がした。

「一生抱えて生きてく?じゃあ、僕も一生抱えなきゃならないだろ!
勝手なことばっかり言って!一人で勝手にすっきりして!
お前ら大人はいっつもそうだ!僕のことなんかホントはどうでもいいんだ!」

怒鳴るたびに揺れる細い体は、辺りが静まった後も震えていた。
二匹の犬が声に反応し、キャンキャン吼える。
吼え、回りながら、主の異常を心配そうに見上げていた。
シアンはひったくるようにリードとビニール袋を取り、背を向けて駆け出した。

「シアン!」

思わず呼び止める。
行ってしまう。そう思ったが、シアンは立ち止まった。
俺は腹の底から息を吐き出した。
まだ、シアンの本当の言葉を聞いていない。

言いたいことがあったのだ。
聞かれたくないから二人にしてくれ。シアンは言ったはずだ。
最初から、俺に言いたいことがあるのだと示していた。
俺の身勝手な話を聞くために、ましてや世間話のために、
己の傷口を切り開く男と対峙したわけではない。
そのシアンの覚悟を、ないがしろにしてしまった。
してしまうところだった。

「シアン、待ってくれ」

俺から歩みよりはしなかった。
一歩踏み出した直後、小さな背中が逃げて行く気がした。
細い首と肩が、みじめなほど震えている。

「謝るのは僕のほうだろ」

心なしか涙声だ。内心息を呑む。

「頭ごなしに罵ればよかったんだ。殴ればよかったんだ。
よくも刺したなって。お前のせいで大変だったって。
お前の親父も、お前も、どうしようもないクソ野朗だって!
なんでお前が謝るんだよ!そうされたら、僕、どうすればいいんだよ!
いっつもいっつも、お前らは上から目線なんだ!」

リードを握る指が、力を入れすぎて白くなっている。

「なんでお前が謝るんだよ!謝るのは僕のほうだろ!クソ!クソ!」

「すまない」

反射的に言っていた。次の瞬間、小さな拳が俺の頬に飛んだ。
威力はない。速度もゆるい。避けるのはたやすかったが、避けなかった。
バチン。張り手に似た音が響く。

「謝るなって言ってるだろお!」

大きな目が怒りに燃えていた。
俺は掌を持ち上げ、小麦色の頬に向かって振り下ろした。
バチン。二度目の音が響く。そう力は入れていない。

「痛みわけだ」

シアンは呆然と目を見開き、薄っすらと赤くなりだした頬に手を当てる。
俺はシアンの肩に両手を掛けて、腰を屈めた。
顔が真正面に見える。俺の頬も赤いだろう。
これでいい。同じ高さだ。

「シアン。お前の言うとおりだ。お前に刺されたから、俺は警察を辞めた。
だが、その選択を後悔してはいない。楽しいこともたくさんあった」

ミルダと出会えた。他のやつらとも。ハスタとは再会できた。
ベルフォルマは、俺が東京に逃げてくれてよかったと言った。

「だが、つらいことも山ほどあった。
ここで暮らしていると、お前のことを思い出して苦しくなった。
今でもたまに夢を見る。悪夢だ。毎回飛び起きる」

お前もそうだろう――目で言った。
思い出さないはずがない。苦しくならないはずがない。

「だから、痛みわけだ。俺とお前で苦しむ。それでいい。
そうやって生きる道があってもいい。俺はそう思う」

華奢な肩から手を外す。屈んだ腰はそのままだ。
まだ、シアンの言葉を聞いていない。

「…………」

辛抱強く待った。数分か、数十分だったかもしれない。
沈みかけた夕陽の赤さが目の端に映る。
やがて、赤い瞳がふっと焦点を取り戻した。

「本当は、刺すつもりなんてなかった」

「そうか」

「ずっと謝りたかった。ごめん」

十三歳の少年と、ようやく対等になった瞬間だった。
俺は微笑み、腰を伸ばした。
身中の鉛はまだ真ん中にある。
だが、焼け付くような熱は、すでになかった。

「よし、帰るか。そろそろ飯だろう」

「うん。ケル、ベロ!」

遠巻きに眺めていた犬が駆け寄る。
シアンの顔を嬉しそうにぺろぺろと舐めた。

「その犬……」

「ん?」

「いや……、どっちがケルで、どっちがベロだ?」

シアンはケルとベロの首輪にリードをつけながら、首を捻った。

「う……ん」

「どうした」

「実は、僕も分からないんだ」

振り返ったシアンの顔は、決まり悪そうに笑っていた。
はじめて見る笑顔は”あのときの少年”の記憶を、シアンのものとして塗りかえた。



公園に差し掛かる前にシアンと分かれた。
施設長に一言お礼を言いたかったのだが、シアンはみんなに見られるとイヤだ、
と言ってゆずらない。仕方なく、伝言を託して踵を返した。

シアンと語った波打ち際が見える道を、一人で歩く。
夕陽は沈きっていた。
十三歳。十年後には共に酒でも酌み交わせるようになっているだろうか。

――十三歳

ミルダも、二年前には十三歳だった。二歳差だ。さしたる違いではない。
これからだ。
社会に出て、酸いも甘いも噛み分ける。大人になる。
もうガキを不幸にしたくない。
その一心で逃げた先で、ガキの世話をする羽目になるとは思わなかった。

十年後。
途方もない未来に思えるが、過ぎ去ってしまえばすぐだ。
ミルダは二十五歳になっている。もういっぱしの男だ。
どうなっているだろう。
企業にでも入って社会の厳しさを学んでいるか。
医者の研修でどこぞの大学病院にでも飛んでるか。
家業を継ぐために田舎に戻っているか。
それとも、違う夢を見つけているのだろうか。



十三歳。十五歳。未来は明るいのか、暗いのか。
一つの結論が出そうだった。


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