We are THE バカップル
46



ひとりになった。
厳密には、一人ではない。
依然、俺とミルダが同居をしているという事実に変わりはない。
しかし、俺もミルダもひとりだった。
飯も一緒に取らない。玄関を開ける物音を聞きつければ、どちらかが逃げるように自室にこもる。
各々の洗濯物や食器を自分で片付けるというちっぽけでくだらないことが、
ひどく空しく思えた。
寝室のベッドはそのままだったが、ミルダの寝具の一切は彼の自室に運び込まれていて、
俺には彼がどの時間帯に寝起きしていることすらわからなくなった。
だから俺は、ここ一ヶ月ミルダの顔をまともに見ていない。

ミルダがバイトのシフトを増やしたことも原因になっているのかもしれない。
ミルダの行動は一貫していた。強固な城塞のようにかたくなだった。
学校に行き、バイトに行き、帰ってきたら自室に戻り、出てこない。
もしかしたら俺が知らないだけで、アニーミたちと遊びにでも出かけているのかもしれない。
そして、リビングに俺の姿がいないタイミングを見計らって食事を作り、
ひとりで食べ、食器を片付ける。
俺はその物音が収まるのを待って、食器棚の中で僅かに湿り気を帯びた皿を眺め、
遅い食事を取るのが通例になっていた。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。

一週間ほど前か、俺が契約主とのミーティングを終えて玄関を開けたとき、
すっと横切ったミルダの顔は心なしか蒼ざめているように見えたが、
それを確認する術は今の俺にはなかった。

いや、あるのだ。簡単な方法が。
”体調は大丈夫か”
そう言いながら、ミルダの自室の扉を開けてみればいい。
それで全て解決する。
しかし、出来なかった。出来るわけがなかった。

俺は一人きりの食事を取りながら、玄関先に目を移した。
このところの快晴に用を無くして所在なさげに立っている傘立ての中に、
あの日の傘がぽつんと刺さっていた。



俺は一層仕事に取り組むようになった。
だから俺もまた、自室から極力出ないようになっていた。
それでなくとも、リビングには行けない。
たまに飲み物を取りに行くミルダと顔をあわせる可能性があるからだ。
まるでミルダから隠れるように暮らす己の現状にも、情けなさは感じなかった。

――俺が悪い。だから、俺が我慢をするのは当然だ

詭弁であり、逃げであるとは分かっている。
しかし、その考えは甘い毒のように俺を誘惑し、あらがえなかった。

かたん。薄い仕事部屋の壁に隣り合うミルダの自室から、物音が聞えた。
何かを落としたのだろうか。大丈夫だろうか。手伝うことは――
俺はかぶりを切って、その考えを打ち消した。
そして、はっと新たな考えが胸を突いた。
ミルダも俺の一挙手一投足を気にしているのかもしれない。
隣室の様子に耳をすませ、今、何をしているのか。
何を考えているのか。何か困っていることはないのか。
そんな、無意識下に湧き上がってくる考えに苦しんでいるのではないか。

そう思うと、ノミを握る手から、力が抜けた。
何も出来なくなる。椅子から腰を上げることすら怖くなる。


考えて、考え抜いた末に出した結論のはずだった。
ミルダのために。俺のために。兄者のために。ヒュプノスのために。
最善を選んだ。そのつもりだった。
本当にそれが最善だったのだろうか。今更、そんなことは考えたくない。
俺は選び、そして実行した。
取り消せない。取り消したくない。最後の矜持を消してしまいたくない。
つまらないプライドかもしれないが、それが俺の最後の砦だった。

しかし、最後の砦は最大の枷になっているようだった。
俺の足にかかった枷は、隣室の物音がすっかり途絶えるまで、
俺の指一本を動かすことさえ許さなかった。


*************************************


更に一週間、そんな生活が続いた。
俺が長崎に戻ると告げて――実質的には別れを告げて、一ヶ月と一週間。
途方もなく長い時間にも思えたし、反面、どこか夢を見ているような、
地に足が着いていない心地でもあった。

平日の午前二時。俺は例によって、木像を前にノミを握っていた。
十時ごろに起き出してこっち、椅子から動いていない。飯も食っていない。
食欲がわかないこともあったし、なにより、コンクールまでの期限は一ヶ月を切っていた。

コンクールに応募し、そして長崎に発つ。
ミルダに言ったことは本心だ。
彫刻家として生きる道は捨てても、俺の中の一つの区切りとして――
たった二年ぽっち、だが心血を注いできた二年に対して――手向けるつもりだった。
立つ鳥後を濁さず、などといった虫のいいことは考えていないが、
こうして一つの、区切りのようなものをつけようと思っていた。
それもまた、虫のいい考えなのかもしれないが。

だが、俺の手は動かなかった。
今、ミルダは家にいない。枷はない。
肌理細やかな材木で彫り上げた女神像の顔は、ずっとのっぺらぼうのままだ。
じりじりと時間だけが浪費されてゆく中で、俺はぼうっと顔の無い像を眺めた。

彫刻の命は、手と顔にある。
これは彫刻ならずとも、全ての芸術作品におけることだと思う。
それは恐らく、人間にとって、手と顔というものは他の部位に比べて
もっとも感情を表すことが出来る部分だからだろう。
どこかのTV番組で、中世ヨーロッパのの著名な画家は、
手を描くか描かないかで報酬を上下していたと見たことがある気がする。
それほどまでに難しい箇所なのだ、手は。

だが、俺の場合、すでに手は出来ている。
女神像の前でうやうやしく組まれた指の造形は、満足できるものだった。

手が一番に難しい箇所ならば、顔はやはり命なのだろう。
その顔が、彫れない。どうしても、ノミを打つことが出来ない。
画竜点睛を気取って後回しにしていたのが仇になった。
どう削るか。どう彫るか。印は打ってある。
その通りにすればいいのだとは分かっている。しかし――

分かっていた。
今、どうノミを振るっても。どれほど印の通りに削り上げても。
きっと、ミルダの顔になってしまう。
幼さの残る頬に、細い顎、大きな目、控えめな鼻、優しげな眉に……
脳裏にこびりついたものは、簡単には取れそうになかった。

それが分かっているから、俺はこうして”出来損ない”の木像を前に、
阿呆のようにただ座っていなければならなかった。



玄関のチャイムが間抜けな音を鳴らしたのは、それから一時間ほど
経ったころだった。
仕事用具を収めた棚の上段に置いたデジタル時計に目をやる。
ちょうど三時を過ぎるところだった。
俺は重い腰を上げた。

「ヘロー。来たよ、オレだよ!」

とびっきりに調子のいいハスタの声が、俺の頭の上を抜けてゆく。
ハスタは玄関口に立つ俺をどけると、いつものように無遠慮で
どかどかと家の中に入り込んだ。

「ガラスの仮面、ガラスの仮面。……ぴょろーん、発見伝!」

居間に寝転ぶハスタに一瞥くれ、俺は腰を上げたのを契機に
コーヒーでも飲もうかとキッチンに向かいかけた。

「あ、ちょい待ち、待ち待ち、マッチング玲子」

呼び止められ、振り向くと、仰向けに寝転がったハスタが
小さな紙袋を手にしているのが見えた。
何ヶ月か前、ピアスを差し入れに来たときのと同じものだ。

「俺にか?」

「YES!」

「中身は」

「開ければ分かるでショ」

ハスタから紙袋を受け取り、適当に付いたテープを剥がす。
中身はやはり、ピアスだった。
リング状のものだが、今回は僅かに螺旋の模様が付いている。

「シンプルなものを仕上げるのはやめたのか」

「人は変わるものです。シンプルを極めたら、次は小細工。
時と場合によって技巧を変えるのが職人でアリマス、ハイ」

「…………」

俺は紙袋をちゃぶ台テーブルの上に預け、その場に座った。
ハスタは”ガラスの仮面”を転がりながら読んでいる。
俺は構わずに言った。

「ミルダと別れた」

「ふぅん」

一秒も空かず、答えが返ってきた。こちらを見もしない。
こいつは絶対に「なんで」とは聞かない。そんなことばかり分かる。

「俺も四月には長崎に戻る。ミルダは寮に戻る。
その……漫画は、ミルダのほうに預けるから、そちらへ見に行け」

預ける。妙な言葉だと思ったが、他に適当な言葉が見当たらなかった。

「お前とも会えなくなるな」

「そうだねん」

ハスタはやはり、見もせずに言った。
それから、ぱら、とページの一葉をめくった後、

「ところで長崎土産は?」

唐突に俺のほうに向いた。

「冷蔵庫にある。食いたければ自分で持って来い」

「了解であります、リカルド隊長!」

ハスタは不恰好な敬礼をして、ぱっと立ち上がり、キッチンへ向かった。
がちゃがちゃと物音が聞える。
おおかた勝手に食器棚をいじくり回しているのだろうが、怒る気にもなれなかった。
俺はハスタが戻ってくるまでの間、彼がくれたピアスを、紙袋の隙間から眺めた。

小細工。人は変わる。そうなのかもしれない。
セレーナは言った。五分前の俺と五分後の俺は違う。
あのときはただの言葉だったが、今は実感としてある。
ミルダと顔を合わせないこの一ヶ月は、俺を変えたようだった。

「うっまいねー、コレ」

カレー用のスプーンを手に、チーズケーキを箱ごと食っていたハスタが、
ひょっこりとキッチンから顔を出した。
皿に移して食うという発想を期待した俺が馬鹿であろう。

「残しておけよ。ガキどもにも食わせねばならんから」

言った後、ふっと思いつく。
ガキども。アニーミ、ベルフォルマ、ラルモ。
ミルダだけではない。
俺はここ一ヶ月、アニーミたちの顔も見ていないのだ。
それは一重に、アニーミたちが俺の家へ訪問していないという事実を示している。

(ミルダから、聞いているのかもしれないな)

思った瞬間、それが真実になった。
あいつらは多分、ミルダから事の次第を打ち明けられたのだろう。
隠しておくような水臭い仲ではないし、ミルダにしてみても、
彼らのことを思ってのことだったのだろう。

好き好んで、わざわざ家庭内別居中の夫婦のような雰囲気の家に
上がりこむやつはいない。
そこで俺は、ふっと思いだした。
”離婚間近の夫婦ごっこ”
俺とヒュプノスが、高校のときからやっている遊びだ。
気心が知れているからこその戯れだろう。

俺とミルダは、それが出来なかった。
いや、やる必要もない。”俺とヒュプノス”と”俺とミルダ”は違う。
だが、本当のことになってしまった。
茶化して遊んでいた物事が、本当のことになって俺の身に降りかかった。

「ぼ〜っとしてますねェ」

半分ほどになったチーズケーキの箱を回しながら、ハスタがちゃぶ台に戻った。

「ぼうっともする」

「ニンゲンだから?」

「そうだ」

俺はハスタの目を見た。
赤い目は、澄んでいるような濁っているような、不思議な色だ。
真意はわからない。知る必要もない。

「チーズケーキ、全部食っていいぞ」

「ほっえ〜?」

なぜ、と聞いたつもりなのだろうと判断して、話を続ける。

「ガキどもは、もう来ない」

「アラ、そ。じゃあ遠慮なく」

ハスタは事も無げに言うと、がつがつとチーズケーキを食いだした。
平らげるまで、二分ほどだろうか。
図体がでかいから、一口一口がでかい。
不健康なようで元気な、不思議なやつだ。
その元気とやらを、今は分けて欲しいが。

「よいしょ、お邪魔しまんもす」

チーズケーキを腹の中に片付けたハスタは、ごちそうさまも言わずに立ち上がった。

「ガラスの仮面はいいのか」

「いい、いい。だってこの家ときたら!」

ハスタは大仰にババっと両手を広げた。

「負のオーラに満ちまくってるからねぇ。こんなところに長居しちゃ、
このオレの正義のパゥワーが目減りしちゃうデショ?」

「……ん」

負のオーラ。否定できなかった。
ハスタはひょいと骨ばった指を伸ばすと、テーブルの上の紙袋をさらった。

「そんじゃ」

「おい」

さっさと玄関まで行ったハスタが振り向く。

「くれるんじゃなかったのか」

「アハン」

ハスタは気持ちの悪い声を出して首を捻った後、すっと真顔になった。

「オレが貢ぐのは、オレの正義のヒーローだけだピョン」

紙袋を、趣味の悪い上着のポケットに突っ込む。

「だっさい制服着て、だっさい帽子かぶって、だっさい行動して。
オレの、軍手のヒーロー。……軍手ヒーロー。軍手だぜ、ダサさの極み」

玄関のドアに手をかける。

「でも、昔のリカルド氏は、今よりもっとカッコ良かったぜ。
だからこれは、あげない。バハハーイ!」

ガチャリ。玄関のドアが開いた。
ハスタが、並べられた俺の靴を踏み乱して去ってゆく。

時計を見る。午後三時半。
ミルダが帰ってくるまで、あと二時間といったところか。
それまでに立ち上がれるかどうか、自信がなかった。


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