彫刻が完成した。 ノミを置く手は、じっとりと汗ばんでいた。 一睡もせず、食事も取らず、二日。一心不乱に彫り続けた。 今後の打診をしに長崎に戻るタイムリミットである今日に、間に合わせるために。 結局、悩みに悩んだ像の頭部は、手が動くままに任せた。 俺は椅子の背に体を預けながら、静かに像を眺めた。 大きな瞳に、小さな鼻と顎。少女のようにも見えるが、それはやはり、少年だった。 うっすらと微笑むミルダの顔が、そこにあった。 当初に予定していた、慈愛に満ちた女性の顔の面影は、どこにもない。 女神像というには、はばかられる、中性的な出来上がりだ。 それが、幸か不幸いずれに転ぶか、どう評価されるかは、まったく想像ができない。 だが、もはやそんなことはどうでもよかった。 これでいい。これでよかった。 駄作として突き返されようとも、これでよかった。そう思う。 窓の外を見た。昇りかけた陽が、うっすらと出窓に積もった埃を浮かび上がらせていた。 彫刻を搬送するための手続きを済ませ、その足で空港に向かった。 兄者とヒュプノスと差向いで、今後の段取りを話し合うつもりだ。 具体的な話を詰め、とんとん拍子で事が運べば、実際に動くことになるかもしれない。 次に東京に戻るときは、後片付けに帰ることになるだろう。 もう、この場所でやるべきことは、なにもなかった。 降り場でタクシーを下車し、トランクに積んだスーツケースを受け取り、空港に入る。 着替えを詰めたスーツケースは、一週間前に用意してあった。 その折に、アニーミに連絡を入れた。 この日に長崎に行くこと。次に戻るときには、滞在の時間はあまりないということ。 だから、実質的には、今日が最後の別れになるであろうこと。 併せて、ミルダと関係を切ったことも告げた。 やはりミルダから事情は聞いていたらしく、アニーミは問い詰めることをしなかった。 ただ、神妙な声で、みんなに伝えておく。それだけ言った。 最後に、ミルダと今後のことについて話し合う場が欲しかったが、 ついに捕まえられなった。避けられていたのかもしれない。 無理からぬことだ。 あいつと俺の間に『今後』などというものはすでにない。 ただ、引っ越しの手続きや共有財産の仕分けなど雑多で生々しいことを、 あの年で、しかも二人きりで話し合うのは、酷なことだ。 仲介人を立てようと思った。 ヴリトラのばあさんかオリフィエルに骨を折ってもらう必要があるかもしれない。 (もう二度と、ミルダの顔をみることはないだろう) 短い間だったが、ともに暮らしていた。 そのあまりのあっけない終わりに、実感がついて行かない。 こんなものか、と思う気持ちもあった。 別れ際など、人生の転機など、こんなものなのかもしれない。 今までも、そうだったはずだ。 一念発起して、確かな決意を胸に歩みだした一歩など、俺の人生にあっただろうか。 どこかふわふわとした足取りで、ロビーに入る。 すぐ、待合席にちらつく赤毛が見つかった。 「リカルド……」 アニーミが立ち上がる。その横で、ベルフォルマの長身が立ち上がった。 ラルモの姿もあった。 見送りのために、アニーミが呼んでくれたということか。 当然のことながら、ミルダの姿はない。 期待していなかっただけに、落胆も少なかった。 三人とも、重苦しい顔をしていた。 似つかわしくない顔だ。俺がそんな顔をさせている。 だが、と思った。 それも、今だけだ。すぐに、もとの日常に戻るだろう。 遊び、笑い、少しずつ俺のことなど忘れていく。 俺は彼らの身近な人ではなく、ちょっと遠出をすれば顔を見れる人間ではなく、 ときたま彼らの心にふっと浮上する、ただの思い出になる。 皮肉でも、ひがみでもない。悲しみもない。俺自身がそうあることを願っていた。 そしてそれが、ミルダを癒す唯一の方法であることを、疑っていない。 俺はおおげさにならない程度に、三人の顔をひとりひとり眺めた。 アニーミ。迷惑なほど元気が良く、実際、数えきれないほど迷惑を受けた。 だが、決して不愉快ではなかった。 彼女のかもしだす活気に、俺も元気をもらっていた。 そっぽを向いているベルフォルマ。最初は、とんでもない不良だと思った。 すぐに、そうでないことに気付いた。年相応に屈託なく、真っ直ぐだった。 仁義を心得ていて、深いところで、優しいやつだった。 ラルモ。彼女のことだけが、少しだけ気がかりだった。 もう少し、一緒に過ごしておけばよかったと思う。 これからは、セレーナがその役をかってくれればいいのだが。 「ミルダのこと、頼んだぞ」 迷ったが、言うことにした。 三人は何か言いたげな顔をしたが、何も言わなかった。 俺は数秒待って、背中を向けた。 「リカルドのおっちゃん!」 ラルモが声を上げた。振り向く。一歩進み出ていた。 「あの……、気ぃつけてな。向こうでも、元気で」 あたりさわりのない言葉だ。気を使わせてしまったのだと思う。 俺は少し笑って、頷き返した。 「あぁ。お前もな」 「あっ!あの、おいちゃん!」 今度こそ、歩き出す気で背中を向けたが、ラルモの声に阻まれた。 「なんだ?」 返事はなかった。何かを、言いあぐねている顔。 胸の前で指を絡ませたラルモの様子に、似合わない煮え切らなさを感じた。 「どうした?そろそろ、飛行機の時間なんだ。言いたいことがあるなら――」 携帯に。そう言いかけたとき、高い着信メロディが鳴った。 俺のものではない。最近テレビで良く聞く、流行の曲だ。 アニーミが、ハンドバックから携帯を取り上げた。 液晶画面に落とした視線が、俺のほうへ向いた。 「ルカからよ」 強張った声だった。俺の表情も強張った。 アニーミは少し逡巡した後、携帯を耳に寄せた。 ミルダが……? 今日出立するということは、リビングの置手紙に残しておいた。 長崎に飛ぶのは、この時刻。それは承知のはずだ。 何か、いい残すことがあったのだろうか。 だが、アニーミの携帯のほうに電話を寄越してくるとは、どういうことだろう。 俺が固まりかけた頭で考えている内に、アニーミは電話先と、短いやりとりをした。 だが、その様子がどうにもおかしいことに気付いた。 アニーミの顔が、やや青ざめている。眉が深刻そうに歪んだ。 声を潜めているせいで何を話しているのかは分からなかった。 ベルフォルマも、ラルモも、なりゆきを見守るように、黙りこくっていた。 その静寂に、嫌な予感がふくらむ。 アニーミが通電を切って、俺のほうを見た。 真っ直ぐな目が、言い切れぬ不安に揺れていた。 「ルカのやつが、入院したって」 ************************************* 頭を殴られたような衝撃だった。 「どこが悪いんだ」 絞り出した声が掠れた。 アニーミは口をぱくぱくと動かしたが、答えなかった。 俺はできるだけ穏やかに、もう言った。 「どこを悪くしたんだ。病気か?事故か?車にはねられたとか」 今度の声は掠れなかった。 「わ、わかんない。けど、いきなり倒れたって……」 アニーミが、棒読みに言った。 顔色が青い。感情を押し殺しているようにも見えた。 いきなり倒れた。ならば、交通事故ではない。 「病院に、搬送されたんだな?」 アニーミは、黙って頷いた。 「命に別状はないのか?」 頭の中では畳み掛けるべき質問がめまぐるしく浮かんだが、 俺は奇妙な落着きで、一つ一つ問いただした。 現実感が追い付いていないのかもしれない。 「わからないわよ。ただ、入院したって……」 「ミルダ本人が掛けたんじゃないのか」 「アンジュからよ。ちょうど、その場にいあわせたらしくって……」 セレーナが、ミルダと? 訝しく思ったが、思案をめぐらせているひまなどない。 「どこで倒れたんだ?」 「家……だって」 アンジュが、と消え入りそうな声でアニーミが答えた。 「病状も分からないのか?」 「三十分ぐらい前に、倒れて。病院、担ぎ込まれて。 それで、それで……ルカのやつ、意識が、ないって……」 とぎれとぎれに言う間に、アニーミが背を向けた。 細かく、肩が震えている。泣くのをこらえているのだろうか。 (意識がない……?) すとん、と底のない穴に落ちたようだった。 追いついたパニックが静かに浸透し、腹の底から冷えた。 アニーミと、彼女と同じような顔色をしているベルフォルマとラルモの姿が、 ふっと狭窄する視界の中で霞んだ。 「どこの、病院だ?」 遅い質問だ、と思った。真っ先に聞くべきだった。 無意識にさけていたのか。そう気づいた胸の痛みは尋常ではなかった。 「イノセンス中央病院……私たち、これから……」 アニーミは言葉を切り、後ろを振り返った。 二人はうなずいたのだろうか。確認する余裕はなかった。 「……その、病院に、向かうつもりだけど……」 「あんたはどうすんだよ?」 アニーミの言葉を、ベルフォルマが引き取った。声だけが聞こえた。 「俺は……」 「うち、今からタクシー呼ぶで」 ラルモが言った。一緒に来い。そう言っている。 俺が答えあぐねている間、沈黙が流れた。 広いロビーに流れる雑音と、ラルモが携帯にしゃべりかける声が、 視界と同じく萎んでいく。 ミルダが、倒れた。 その事実に、茫然としていた。 だが、本来なら真っ先に湧き上がるはずの感情、心配という気持ちが、不思議と小さい。 そんな感情を覚えていいものかどうか、戸惑っていた。 俺はミルダのことを、心配してもいい立場なのか? アニーミたちはいい。友人が倒れたのだ。 だが、俺は? いきなり別れを切り出し、今にも半ば逃げる形で関係を放棄しようとしている男が、 どんな顔で駆けつければいい。 もしかしたら、ミルダが倒れたのは、その心労によるものなのかもしれなかった。 ぐるぐると回りだした内面を、ラルモの声がさえぎった。 「タクシー、あと五分で着くって」 俺を見ていた。不安げだ。俺の一言を待っていることは、あきらかだった。 彼女にこんな顔をさせていることを、無責任に悲しく思う。 だが、俺の口からは、その一言が、彼女が待ち望んでいる一言が出なかった。 俺も一緒に行く、と。 「……行かないつもりなの?」 堪りかねた口調で、アニーミが言った。 「俺は……」 今度の静寂は長かった。 行く、とも言えないが、行かない、とも言えなかった。 それを言ってしまったら、引き返せないとわかっていた。 そのとき、折り悪く長崎行きの飛行機の発着を知らせるアナウンスが鳴った。 三人の顔が強張る。期待と不安がないまぜになった六つの目が、見つめていた。 俺は目を伏せた。 「時間だ」 半ば自分に言い聞かせるように言った。 「あんた……!」 「俺は行かない」 アニーミの言葉をさえぎるように告げる。 俺は顔をそむけ、コートから携帯を取り出した。 「あいつの、両親の連絡先を教える。もう連絡が行っているかもしれんが、 とにかく、今すぐ電話して、状況を話せ」 「あんた、それでいいわけ?」 アニーミの声は、怒りにか震えていた。 俺は彼女の顔を見ないまま、絞り出すように言った。 「俺の出る幕じゃない」 瞬間、右の頬に衝撃が走った。 向き直る間もなく、続けざまに左の頬を打たれた。 「分かったようなこと言ってんじゃないわよ! 今以外に、どこに、あんたの出る幕があるってわけ!?」 「今は違う」 「なんですって……?」 「今は、お前たちの出る幕だ。俺はもう、ミルダとは切れた。 ……早めに、行ってやってくれ。後で、連絡は」 今度は、言い終える間もなく襟首をつかまれた。すさまじい力だ。 「あんたがどんな選択しようと、そりゃあ勝手だけどよ……」 ベルフォルマの灰色の瞳が、目の前にあった。 「今のあんたの言葉聞いてると、ビビってるようにしか思えねぇんだよ」 「ビビってるさ」 ゆっくりと、ベルフォルマの腕をつかむ。 以前にも、こんなことがあったと唐突に思い出す。 思い出だ。すべて。 「どんな顔をして会いにいけばいい?俺が行ったところで何になる? 無意味だ。逆に、あいつを傷つけることになる」 「馬鹿野郎……!」 「お前たちだけで、行け。そのほうが、あいつも喜ぶ」 ベルフォルマの顔が歪んだ。殴る、と思った。避ける気は、もとからなかった。 振り上げた拳の下に、すっと素早く小柄な影が割り込んだ。ラルモだ。 「馬鹿……」 ラルモの小さな手が、コートをつかむ。弱い力だった。 「そら、うちらが行ったら、ルカ兄ちゃんは喜ぶと思うよ。 けどな、一番そばに居て欲しいのは、うちらやないねん。 なんで、そんなことも分からんの……」 ラルモは、静かに泣いていた。 俺の前で、はじめてラルモが泣いていた。 「エル……」 彼女の肩を、そっとアニーミが抱き寄せた。 同時に、襟首を締め付けていたベルフォルマの手も離れた。 だらりと腕を垂れ下げたベルフォルマが、唇を噛んでうなだれた。 「本当に、行く気ねぇのかよ……」 その声も、うなだれていた。 俺は、言葉を返さなかった。無言の肯定。そう感じるのに十分な沈黙が流れた。 「わかった。わかったぜ。もう何も言わねぇよ。 勝手に、どことなりに行っちまえよ。クソッ……」 ベルフォルマが背を向け、アニーミに肩を抱かれたラルモの姿も、遠ざかった。 彼らの背に、はっきりと境界線を意識した。俺は、向こう側にはいけなかった。 そして、一人だけ、残された。 アナウンスは蝉のように、長崎便出発の胸を流し続けている。 そろそろ向かわないと、乗りそびれることになる。 俺は時刻を確認するために携帯を取り出し、 そして彼らにミルダの両親の連絡先を教えそびれていたことを思い出した。 後で、メールで送ればいい。瞬時にそう思う。 追いかけて、再び声をかける気にはなれなかった。 そのとき、携帯が震えだした。メールだ。 反射的にボタンを操り、送信者を確認する。 次の瞬間、冷や水を浴びせられた。セレーナからだった。 迷ったのは一瞬だけで、すぐに内容を追った。 短いメールだった。 『待っています』 思わず視界がにじんだ。 彼女は言った。どうか、闇だけを見つめないでくださいと。 アニーミは、素直に生きなければ、生きている意味がないと言った。 俺は彼女に、どんな理由で接したものであれ、ミルダは感謝しているだろうと告げた。 ベルフォルマには、逃げる時期も必要だと説いた。 やるべきこと義務に追われずに、やりたいことをやれと。 コートのポケットの中で、チケットを握りしめた。 中耳に、半年前のミルダの声がよみがえっていた。 人生で、誰か一人だけでも幸せにできたらいいと、思ったことはありませんか? メールの受信画面を切り、短縮の番号を押す。 ツーコールで出た。相手がしゃべらない内に、まくしたてるように言った。 「兄者。今日は行けない。また、かけなおす」 それだけ告げて一方的に通電を終える。 最後に、一つだけ。 そう心の中で祈りながら、携帯の電源を切った。 |