イノセンス中央病院に着くまでのタクシーの車中、何も考えることができなかった。 なぜ向かっているのか。なぜ兄者との約束を反故にしたのか。 ミルダに会って、なんと声をかけるべきか。 考えることは山ほどあるはずなのに、どれ一つとしてまとまった思考にはなりえなかった。 今、向かっている。ミルダの元へ。 不思議とそれだけが、たったそれだけのことが、胸中を支配していた。 イノセンス総合病院の正門の前でタクシーを止め、 トランクに預けた荷物をひったくるようにして駆け出した。 満杯の駐車場をすり抜ける。 病院のモルタルの白さが、長崎で見た児童養護施設を連想させた。 待合室にアニーミたちの姿はなかった。すでにミルダの病室に行ったということか。 もしかしたら、手術室かもしれない。 後者でないことを祈りながら、受付でミルダの病室を訪ね、階段を駆けた。 三階を上ってすぐの302号室。 その前でたむろするアニーミたちの顔が見えた。セレーナの姿もあった。 「リカルド……」 アニーミが、不安と喜びがないまぜになった顔で言った。全員の目が俺を見た。 どの顔も安堵していた。ほほ笑む余裕はなかったが、俺も大きくうなずき返した。 「病状はどうだ?」 「今は、落ち着いています」 セレーナが答えた。 「お前が見ていてくれたらしいな」 セレーナは、えぇ、まあ、とだけ答えると、病室の扉に目をやった。 クリーム色の引き戸の横に、名前のプレートがかけられている。 太さから、一名分のものだとうかがえた。個室だ。 心中の鉛が重さを増した。複数人の同室で間に合う病状ではないということだ。 「あいつは、どうしてる?」 自然と、低い声が出た。 「眠っています」 麻酔を打たれたということだろうか。 それなら、手術をしたのか。 訊こうとした矢先、セレーナが言った。 「リカルドさん、お気持ちはわかりますが…… ひとまず、顔だけでも見ていってあげてくれませんか?」 俺はうなずき、病室のドアを開く直前に、アニーミたちに振り返った。 いつも通りのきつい言葉で喝を入れてくれたアニーミ。 胸倉につかみかかる癖がまだ抜けていないらしいベルフォルマ。 泣きながら、俺のコートの裾を握ったラルモ。 「すまんな」 今度は笑うことができた。 謝ったつもりはない。 俺の『すまん』は『ありがとう』の意味だと、やつらが分かっていると信じていた。 病室の中は閑散としていた。 どこの病室もそうだ。不必要な設備も、インテリアもない、実用的な作りがそう思わせる。 だが、俺の心象の影響がないとは言い切れなかった。 かすかに開いた窓の風に揺れるカーテンのそばに、ミルダは横たわっていた。 「ミルダ……」 思わず声をかけていた。 想像していたよりも、ずっと穏やかな顔をしていたからだった。 よく、学校の帰りに疲れてそのままリビングで寝入ってしまい、毛布をかけてやった。 その時のような顔で、眠っている。 俺はパイプ椅子を開き、ベッドの隣に腰かけた。 布団から出ている、小さな手を握る。ぴくりと指先が動いた。温かかった。 瞬間、なにもかも理解した。 この手を守るために、なんでもしてやりたかったことに。 この手が大きくなることが、なによりの楽しみであったことに。 この手に握り返してもらえる時間が、幸せだったことに。 「俺は馬鹿だったな……」 「…………」 「もっと話し合えばよかった。お前の意見も、ちゃんと聞くべきだった。 なんでも一人で決める。悪い癖だ。俺は一人で生きていたわけじゃ、なかったのにな」 「…………」 「さびしかっただけなのかもな」 ミルダの瞼が、かすかに痙攣した。聞こえているのだろうか。 俺はミルダの額にかかった前髪をよけて、ほほ笑んだ。 「お前じゃなくて、俺が。お前が俺から自立していくことに、耐えられなかった。 友人を見つけて、少しずつ成長していくお前を見ていると、 いつ置いていかれるのか、戦々恐々していた。大人げないことだ。いや……」 風が入り込んだ。カーテンが、一層大きくふくらんだ。 「最初から、大人でもなかったのかもな。お前のほうが、よっぽど立派なやつだ。 思いやりがあって、臆病だが、逃げることはしなかった。俺とは違う。 お前が起きたら、直接、そう言ってやりたいよ。ずっと、言えなかったからな……」 「…………」 「お前がいたから、俺は大人でいられたのかもしれないな。 俺は、お前がいないと、駄目な人間だ。今まで、ありがとう」 そのとき、ミルダの手がわずかに動いた。 俺の指を、軽く握り返す。引きとめようとしているようにも、見えた。 ミルダは、まだ俺を必要としてくれているのだろうか。 まだ一緒にいたいと、願ってくれているのだろうか。 「俺もまだ、お前と一緒にいたいよ」 自然と、口が動いた。 「お前のことが、本当に好きだった。こんなこと、いままで、一度も言わなかったな。 本当に、すまない。もっと早くに、言いたかった。お前が起きたら、また……」 また……? 自分の言葉に、戸惑った。 また、どうするというのだ。 俺は何を言っているのだろう。 「また……」 「…………」 ミルダは何も答えない。眠っているのだから、当たり前だ。 そういえば、病状を聞いていなかった。 もしかしたら、このままずっと、眠り続けるのかもしれない。 だが、答えは決まっていた。 「お前が起きたら、また一緒に生きていいか、聞かせてくれ」 ミルダの手の甲に落ちた水滴が、弾かれて消えた。 最初から、それだけのことだった。 ミルダの手を、強く握る。 この、小さく温かい手を、二度離すことはしない。 俺の幸せもこいつの幸せもただそこにあるのだと、もっと早くに気付くべきだったのだ。 「ミルダ、俺は……」 そのとき。 「ぎゃあ〜〜〜〜!!!」 「うぉわああああ!!!」 「ひゃああああ〜!!!」 すさまじい物音がした。 …………。 ……はっ? 俺はロボットのようなぎこちなさでドアを振り返った。 そこでは、アニーミたちが折り重なって…… 無残にへし折れたドアを下敷きにしていた。 一番下のアニーミの体の下に『……リ大成功』という文字(前半判別不能)が見えた。 「…………」 「…………」 「…………」 長い沈黙が流れた。 「うわっ、なんですか、これは!?」 「いや〜……あの〜……」 見慣れない金髪の医者が、彼らの向こうにのぞいた。 セレーナが、苦笑いでごまかしている。 ……………………。 「こ、これは……」 眼鏡の医者は半壊したドアを見て、顔面を蒼くした。 「あ、あのですねぇ……患者の前なのですから、このようなことは……。 あとで請求しますからね……?」 「は、はい。し、仕方ありませんね……」 セレーナの顔も蒼い。 医者は、あぁ、とか、うぅ、とか言いながら、カルテを抱えながら、 折り重なったまま硬直するアニーミたちとドア”だったもの”の残骸を踏み越え、 病室に入ってきた。 「あ〜、ミルダくん? 術後の経過はどうですか?排気の確認は……」 術後……?排気……? 「お尋ねしますが……」 俺は医者に、無機質に声をかけた。 「あ、あぁ、お見舞いの方でしたか。お気づきしないで……」 ハンカチで汗を拭う若い医師、名札によればアルベール医師は、苦い顔をした。 俺も、あのドアを崩壊させたグループと同類に見られているらしい。間違ってはいないが。 「……ミルダは、なんで入院したんでしたか……?」 アルベール医師は一瞬怪訝な顔をしたが、 「盲腸ですが……」 「……そうでしょうね……」 俺はアニーミたちのほうを見た。 三人が三人とも、主人にしかられる前の犬のような顔をしていた。 「あ、あう、その、これはなぁ、深いわけがあってなあ……!」 とラルモ。 「……え〜っと……お、おい、イリア……!」 とベルフォルマ。 「へっ!?え、えっと……!ジャ、ジャーン!」 アニーミが、手に持った板きれを、よく見えるように掲げた。 『ドッキリ大成功!!』 その文字が、悪戯っぽく笑うミルダのイラストを添えて、書かれていた。 「…………」 俺はミルダを見た。 ぱっちりと開いた青い目が、俺を見ていた。 「あ、あの……ごめんね」 「…………」 体中の血圧が、頭部に集中する。 そして俺は怒りを通り越して―― 卒倒した。 |