We are THE バカップル48
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イノセンス中央病院に着くまでのタクシーの車中、何も考えることができなかった。
なぜ向かっているのか。なぜ兄者との約束を反故にしたのか。
ミルダに会って、なんと声をかけるべきか。
考えることは山ほどあるはずなのに、どれ一つとしてまとまった思考にはなりえなかった。
今、向かっている。ミルダの元へ。
不思議とそれだけが、たったそれだけのことが、胸中を支配していた。

イノセンス総合病院の正門の前でタクシーを止め、
トランクに預けた荷物をひったくるようにして駆け出した。
満杯の駐車場をすり抜ける。
病院のモルタルの白さが、長崎で見た児童養護施設を連想させた。
待合室にアニーミたちの姿はなかった。すでにミルダの病室に行ったということか。
もしかしたら、手術室かもしれない。
後者でないことを祈りながら、受付でミルダの病室を訪ね、階段を駆けた。
三階を上ってすぐの302号室。
その前でたむろするアニーミたちの顔が見えた。セレーナの姿もあった。

「リカルド……」

アニーミが、不安と喜びがないまぜになった顔で言った。全員の目が俺を見た。
どの顔も安堵していた。ほほ笑む余裕はなかったが、俺も大きくうなずき返した。 

「病状はどうだ?」

「今は、落ち着いています」

セレーナが答えた。

「お前が見ていてくれたらしいな」

セレーナは、えぇ、まあ、とだけ答えると、病室の扉に目をやった。
クリーム色の引き戸の横に、名前のプレートがかけられている。
太さから、一名分のものだとうかがえた。個室だ。
心中の鉛が重さを増した。複数人の同室で間に合う病状ではないということだ。

「あいつは、どうしてる?」

自然と、低い声が出た。

「眠っています」

麻酔を打たれたということだろうか。
それなら、手術をしたのか。
訊こうとした矢先、セレーナが言った。

「リカルドさん、お気持ちはわかりますが……
ひとまず、顔だけでも見ていってあげてくれませんか?」

俺はうなずき、病室のドアを開く直前に、アニーミたちに振り返った。
いつも通りのきつい言葉で喝を入れてくれたアニーミ。
胸倉につかみかかる癖がまだ抜けていないらしいベルフォルマ。
泣きながら、俺のコートの裾を握ったラルモ。

「すまんな」

今度は笑うことができた。
謝ったつもりはない。
俺の『すまん』は『ありがとう』の意味だと、やつらが分かっていると信じていた。


病室の中は閑散としていた。
どこの病室もそうだ。不必要な設備も、インテリアもない、実用的な作りがそう思わせる。
だが、俺の心象の影響がないとは言い切れなかった。
かすかに開いた窓の風に揺れるカーテンのそばに、ミルダは横たわっていた。

「ミルダ……」

思わず声をかけていた。
想像していたよりも、ずっと穏やかな顔をしていたからだった。
よく、学校の帰りに疲れてそのままリビングで寝入ってしまい、毛布をかけてやった。
その時のような顔で、眠っている。

俺はパイプ椅子を開き、ベッドの隣に腰かけた。
布団から出ている、小さな手を握る。ぴくりと指先が動いた。温かかった。
瞬間、なにもかも理解した。
この手を守るために、なんでもしてやりたかったことに。
この手が大きくなることが、なによりの楽しみであったことに。
この手に握り返してもらえる時間が、幸せだったことに。

「俺は馬鹿だったな……」

「…………」

「もっと話し合えばよかった。お前の意見も、ちゃんと聞くべきだった。
 なんでも一人で決める。悪い癖だ。俺は一人で生きていたわけじゃ、なかったのにな」

「…………」

「さびしかっただけなのかもな」

ミルダの瞼が、かすかに痙攣した。聞こえているのだろうか。
俺はミルダの額にかかった前髪をよけて、ほほ笑んだ。

「お前じゃなくて、俺が。お前が俺から自立していくことに、耐えられなかった。
 友人を見つけて、少しずつ成長していくお前を見ていると、
 いつ置いていかれるのか、戦々恐々していた。大人げないことだ。いや……」

風が入り込んだ。カーテンが、一層大きくふくらんだ。

「最初から、大人でもなかったのかもな。お前のほうが、よっぽど立派なやつだ。
 思いやりがあって、臆病だが、逃げることはしなかった。俺とは違う。
 お前が起きたら、直接、そう言ってやりたいよ。ずっと、言えなかったからな……」

「…………」

「お前がいたから、俺は大人でいられたのかもしれないな。
 俺は、お前がいないと、駄目な人間だ。今まで、ありがとう」

そのとき、ミルダの手がわずかに動いた。
俺の指を、軽く握り返す。引きとめようとしているようにも、見えた。
ミルダは、まだ俺を必要としてくれているのだろうか。
まだ一緒にいたいと、願ってくれているのだろうか。

「俺もまだ、お前と一緒にいたいよ」

自然と、口が動いた。

「お前のことが、本当に好きだった。こんなこと、いままで、一度も言わなかったな。
 本当に、すまない。もっと早くに、言いたかった。お前が起きたら、また……」

また……?
自分の言葉に、戸惑った。
また、どうするというのだ。
俺は何を言っているのだろう。

「また……」

「…………」

ミルダは何も答えない。眠っているのだから、当たり前だ。
そういえば、病状を聞いていなかった。
もしかしたら、このままずっと、眠り続けるのかもしれない。

だが、答えは決まっていた。

「お前が起きたら、また一緒に生きていいか、聞かせてくれ」

ミルダの手の甲に落ちた水滴が、弾かれて消えた。
最初から、それだけのことだった。
ミルダの手を、強く握る。
この、小さく温かい手を、二度離すことはしない。
俺の幸せもこいつの幸せもただそこにあるのだと、もっと早くに気付くべきだったのだ。

「ミルダ、俺は……」





そのとき。

「ぎゃあ〜〜〜〜!!!」

「うぉわああああ!!!」

「ひゃああああ〜!!!」

すさまじい物音がした。

…………。

……はっ?

俺はロボットのようなぎこちなさでドアを振り返った。
そこでは、アニーミたちが折り重なって……
無残にへし折れたドアを下敷きにしていた。
一番下のアニーミの体の下に『……リ大成功』という文字(前半判別不能)が見えた。

「…………」

「…………」

「…………」

長い沈黙が流れた。

「うわっ、なんですか、これは!?」

「いや〜……あの〜……」

見慣れない金髪の医者が、彼らの向こうにのぞいた。
セレーナが、苦笑いでごまかしている。

……………………。

「こ、これは……」

眼鏡の医者は半壊したドアを見て、顔面を蒼くした。

「あ、あのですねぇ……患者の前なのですから、このようなことは……。
 あとで請求しますからね……?」

「は、はい。し、仕方ありませんね……」

セレーナの顔も蒼い。
医者は、あぁ、とか、うぅ、とか言いながら、カルテを抱えながら、
折り重なったまま硬直するアニーミたちとドア”だったもの”の残骸を踏み越え、
病室に入ってきた。

「あ〜、ミルダくん? 術後の経過はどうですか?排気の確認は……」

術後……?排気……?

「お尋ねしますが……」

俺は医者に、無機質に声をかけた。

「あ、あぁ、お見舞いの方でしたか。お気づきしないで……」

ハンカチで汗を拭う若い医師、名札によればアルベール医師は、苦い顔をした。
俺も、あのドアを崩壊させたグループと同類に見られているらしい。間違ってはいないが。

「……ミルダは、なんで入院したんでしたか……?」

アルベール医師は一瞬怪訝な顔をしたが、

「盲腸ですが……」

「……そうでしょうね……」

俺はアニーミたちのほうを見た。
三人が三人とも、主人にしかられる前の犬のような顔をしていた。

「あ、あう、その、これはなぁ、深いわけがあってなあ……!」

とラルモ。

「……え〜っと……お、おい、イリア……!」

とベルフォルマ。

「へっ!?え、えっと……!ジャ、ジャーン!」

アニーミが、手に持った板きれを、よく見えるように掲げた。

『ドッキリ大成功!!』

その文字が、悪戯っぽく笑うミルダのイラストを添えて、書かれていた。

「…………」

俺はミルダを見た。
ぱっちりと開いた青い目が、俺を見ていた。

「あ、あの……ごめんね」

「…………」

体中の血圧が、頭部に集中する。
そして俺は怒りを通り越して――
卒倒した。


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