We are THE バカップル7



「お前は、テンションが空回りするクセがある」

「ん?」

ミルダが目をまるくし、顔をあげた。指先でいじっていた俺の毛先を離す。
腹が苦しい。ミルダが全裸で、こともあろうに俺の腹筋の上に座り込んでいるからだ。
もっとも俺も全裸だったが、お互いの裸体など見慣れたものなので、
目のやり場に困る、などということはない。
俺はミルダの右手を取り、華奢な指先をいじった。

「あのときは死ぬほど驚かされた。寿命が10年は縮んだな」

「いつのこと?」

ぴん、とミルダの小指を弾く。

「最初の告白」

それかぁ、とミルダは眉をゆがめた。
あまり思い出したくないらしい。
俺はあえて、からかってやることにした。

「人生で二番目ぐらいに驚いたぞ。
電子レンジが前触れなく爆発したような事件だった」

「一番目は?」

「刺されたこと」

俺はなにげなく言った。

「それって、前に話してくれたやつ?」

ミルダの表情がさっとくもる。
俺は話題を変えるべく、やつの丸出しの尻を叩いてやり、

「お前はマティウスにからかわれたんだ」

と、言った。

「おおかた、ひま潰しに使われたんだろう。やつが考え付きそうなことだ。
お前も人を選んで相談をするべきだったな」

でも、とミルダが割り込む。

「彼女には感謝してるよ。マティウスなりに親身になってくれたんだって、僕は信じてるから。
それに、彼女のアドバイスがなかったら、僕はリカルドに告白できてなかったと思う」

「どうかな。そんなつつましい性格のやつが、全裸で人の腹の上に乗るか」

ミルダがふきだした。

「いいじゃない。チビの特権だよ」

そう言って、身を屈めて俺の額にキスをする。
実際、ミルダは言うほど背丈が低いわけではない。
俺に比べればもちろん小さいが、それでも高校一年生の平均身長ぐらいはあるだろう。
童顔と柔和な性格のせいで、見た目よりも小さく見えるだけだ。

「重い。そろそろどけ」

「わっ」

俺はミルダの足の裏に手を入れて、持ち上げた。
ごろりと仰向けに倒れたミルダが、すかさず俺の腰に足を巻きつける。

「必殺、カニバサミ!」

ミルダが嬉しげに言った。そうだな、カニバサミだな。
二人とも全裸のせいでひどく間抜けだが。
俺はしかたなく、ミルダの滑らかな膝の頭に指をあてて、じわじわ開くと言う、
典型的なくすぐりの刑を執行しておいた。
ミルダが、くすぐったい、くすぐったいと笑いながら、両足をバタつかせる。
俺はため息を吐き出した。完璧にナメられている。

「そこまでだ。風呂に入れ」

「一緒に入ろうよ」

「俺は一服してから入る」

「じゃあ、僕も明日の朝入る。もっとイチャイチャしたい」

「せっかく沸かしたんだ。光熱費がもったいない」

ミルダは、意外とケチだよね、リカルドは、と吐息を付いた。
あきらめたように俺の腰を挟む足の力を緩め、かかとをベッドの上に落とした。
俺は枕から頭を起こし、ベッドサイドに放ってあった煙草とライターを手に取った。

「リカルド」

今度はなんだ。そろそろ卍固めでもしておくべきか。
俺は呼び声に目線だけむけた。
ミルダが両腕を伸ばして、悪戯小僧のような笑みを浮かべていた。

「抱えて連れて行ってよ」

「ふざけるな」

俺は即答した。ミルダが唇を尖らせ、すねた顔を作る。

「あ、そう。じゃあ入らない」

年々横柄になっていくな、お前は。

「自分の年齢を考えろ」

「いつもは子供扱いするのに、こういうときだけそう言うんだもんなあ。
大人ってズルいよね。結局自分に有利な押し付けをしてるだけじゃないか…」

ついに理屈をこねだしたミルダに、俺はうんざりした。
こいつは意外と理屈っぽい。
というより、正論のかさを着た横暴な言い分をちょくちょく言い出す。

(こんなめんどくさいガキだとは思わなかった)

もっと、控えめで、どちらかと言えば振り回されるタイプのやつだと思っていた。
ところがどっこい、という言葉を、そう思っていたころの俺に捧げたい。

俺は言い負かすより折れるほうが手っ取り早いとみて、煙草とライターをベッドに放り、
ミルダの膝の裏に片腕を入れて、やつを抱え上げた。
いくら細いと言っても15歳の男だ。抱えるとそれなりに重い。
思わず息がつまった。腰に鈍痛が走る。
ミルダが首に腕をからませ、頬にキスをしてきた。

「ありがとう、セバスチャン」

「ギックリ腰になる」

俺はうめいた。われながら苦しげな声だと思った。
しかし、ミルダはそんな俺に構わず、にこやかに笑った。

「大丈夫だよ。毎日下半身を酷使してるのに、全然元気じゃないか。
まだまだ若い若い」

「窓から放り出されるのがご所望か。短い付き合いだったな」

「もー!冗談だって」

窓のほうへ方向転換した俺の背中を、ミルダが慌てて叩く。
風呂場のほうへ体を戻し、のろのろと進む俺の顔を、
ミルダが嬉しそうに見ていた。
明日、2、3発殴ってやろう。
そう心に決めた俺をよそに、ミルダは物憂げなため息をついた。

「ほんとは、僕がリカルドを抱えて行きたいんだよ?
でも、どう考えても無理だもんね。
お姫様に抱っこされる王子様ってのもなあ」

年間10センチ伸びれば、3年ぐらいで可能になるかもしれんがな。
それより、俺は聞き逃せない一言を問い返すことにした。

「誰がお姫様だって?」

俺は風呂場のドアを足で蹴りあけた。

「ここにいるじゃないか。髭のお姫様」

「なるほど、いい度胸だ」

俺は勢いよくこのガキを湯船に放り込んだ。
熱い湯の中に落とされたミルダが文句を言い立てるが、
俺は「5分であがれ」と言って、ドアをピシャリと閉めた。


俺はベッドに腰を降ろしながら、煙草に火をつけた。
喫煙量が、このところぐんと増加している。
コンクール応募のための作品作りに詰まっていることもあるが、
それだけが苛立ちの原因ではないことはあきらかだ。

(とんでもないことになったものだ)

本当に、電子レンジがいきなり爆発して部屋中が卵まみれになり、
その掃除に奔走しているような状況だ。
しかし、俺は今、あきらかにミルダのことを憎からず思っていることを自覚している。

あぁ、そうだ、好きだ。一緒に住んでいるぐらいだ。好きにきまってる。悪いか。
正直に言うと、あの愚にも付かぬわがままでさえ、ちょっとかわいいとさえ思っている。
盲目だ。完全に、あばたもえくぼというレベルに陥っている。
誰か俺をこの変態のショタコン野郎と罵倒してくれ。目が覚めるかもしれん。

ともかく、俺の心の中心には、ミルダがいる。
認めたくないが、そうだ。
そうでなければ、とっくに窓の外なり、ドアの外なりに放り出しているだろう。
やつがどれほど俺のことを好いているか、俺のほうでは計れないし、
知りたいとも思わない。
俺は煙草の灰を気持ち分荒く灰皿に叩き落しながら、額をおさえた。

なんてことだ。

全ては、あの”告白の日”から始った悪夢だ。
あの時、俺はミルダの告白を、きっぱり断るつもりでいた。
当然だろう?あの空回りな告白で、落ちる人間がいると思うか。
まして、まともに言葉を交わし始めて一週間も経っていない、十歳も年下の同性を相手に。

しかし、事件はその数時間後に起きた。
本当の”告白の日”、いや”告白のとき”がおとずれた。
別名、”俺が陥落した日”だ。
忌々しい日付ということには、変わりがないが。



*****************************



殺気みなぎるミルダの告白を断った後。
俺は、必死の形相で”男の子のよさ”を説くミルダに、
なんと返すべきか、と考えあぐねた。
ミルダの弁論が江戸時代の稚児制度まで及んだとき、
俺は片手でミルダを制し、

「もちろん、お前が男ということもあるが…」

と、話を切り出した。
嘘をついても不誠実だ。正直に答えることにした。

「そもそもいきなり好きだ、付き合ってくれ、と言われても、実感がわかん。
唐突すぎる。それはお前も理解しているな?」

というか、理解してくれ。
まずは交換日記から、とちまちまやられても不気味だが、
さすがに今回のこれは前触れがなさすぎた。

「そしてだな、それ以前に、俺は今、誰かと恋愛を育もうという気分じゃないんだ。
お前ではない誰かが、もちろん異性が告白をしてきても、俺はうなずかなかった。
だから、お前のことが嫌いというわけじゃない。むしろ、一生徒として、かわいいと思っている。
あくまで恋愛感情としてどうかというレベルの話で、お前を否定しているわけじゃない。
男同士だから、という問題でもない。そこを履き違えるなよ」

ミルダはうつむいていた。さとすモードに入った俺の言葉を、黙って聞いている。
先ほどの火のような勢いが嘘のようだ。
気勢を削がれ、重い沈黙が、その肩にのしかかっていた。
後悔しているのかもしれない。
俺は次の言葉を言うべきか数秒逡巡したが、
だが、ここで未練を残しても酷だ。言ってやるべきだろうと思った。

「はっきり言うぞ」

ミルダは、視線をあわせなかった。体を小さくして、この場から消えたがっている。
俺はあえて、指先でテーブルを叩き、ミルダの注意をひきつけた。
ミルダがのろのろと視線をあげる。
青い目は哀れなほど弱かった。
これ以上何も言わないでくれ、と俺に懇願しているようにも思えた。
俺は一瞬、言葉に詰まったが、言うべきことを言わねばならない。
俺はミルダの目を見詰めたまま、言った。



「俺はお前を好きじゃない。これから好きになるとも思えない。
だから、お前とは付き合えない。悪いが諦めてくれ」





その後、俺は半ば放心状態のミルダを家に送り届けた。
人生が終わったような顔をしたミルダと車内で一緒になるのは
気まずいことこの上なかったが、一人で帰らせるわけにもいかない。
俺はやつのへなへなの道案内を頼りに、ミルダを家まで届けた。
全く会話のない車内の空気は、地球が重力の操作を誤ってしまったように重苦しかった。

寮に付き、ミルダが無言で車外に出る。俺の顔を見ないまま、ふらふらと歩いていく。
育ちの良さそうな性格をしているので、てっきりいい家に住んでいると思っていたのだが、
意外にも、ミルダは粗末な寮に住んでいた。やはり、田舎から出てきたのかもしれない。

そういえば、俺はミルダのことを何も知らない。
それはミルダにとっても同じだろう。
ミルダは、俺の何を見てそこまで思いを募らせたのだろうか。

寮の門の中に消えて行くミルダの背中は、滑り止めの高校に落ちた受験生のような風情で、
俺の罪悪感をおおいに煽り立てた。

やつが今夜自室で練炭でも焚かないように寮監に見張りを依頼したいところだったが、
俺はそのまま、車内からミルダの背中を眺め続けた。
いつもは竹のように真っ直ぐな背が、今や消えてしまいそうだ。
とても追って声をかける気にはなれなかった。



(なぜ俺が、罪悪感を感じねばならん)

俺は自宅のリビングで酒を煽りながら、煙草を吸っていた。
ミルダを送った帰りにカートンで買って帰ったものだ。
一応禁煙していたのだが、しかたがない。吸いたい気分だった。
煙を吐き出しながら、この胸の、どう例えようもないもやもやの正体を考える。

あの年頃の失恋はこたえる。

俺にも覚えがある。もちろん、相手は女だったが。
まさに世界の終わりという気分だった。
世界の終わりであり、自己の否定だ。
己への卑下だけが心を満たすあの心境は、今でも思い出すたび胸が痛い。

今夜ミルダは、死ぬほど苦しむだろう。
自殺をするようなタマではないと思うが、思い込みの激しい性格だ。
どうなるかわからない。自暴自棄にならなければいいのだが。
俺に心配をする権利はないと分かってはいる。いるが、それでも気がかりだった。

(なら、オーケイしてやったらよかったんじゃないか)

自問自答し、俺はかぶりをきった。
ありえない。無理だ。
十歳以上も年下の、高校生と付き合うのか。この俺が。
遊園地や映画館を手をつなぎながらデートするというのか。
俺はだらしなく鼻の下を伸ばし、
遊園地のコーヒーカップにのっている自分を想像して、ぞっとした。
いや、それだけならまだいい。
ミルダは男だ。
生理的な問題で、まず、俺が無理だ。

なにより、ミルダの人生にとっても、適当な選択とは思えない。
ミルダは、自分はゲイではないと言った。普通に女が好きだとも。
なら、好みのタイプとやらのアニーミと交際するべきだ。
ミルダは、あきらかにアニーミのことを好意的に思っている。
そしてアニーミも、ミルダを嫌いではないだろう。むしろ好いているように思える。
それは、今は友情によるものだろう。
しかし、友情を愛情に育てることは、二人にとって難しくないはずだ。
アニーミの尻に敷かれるミルダを想像し、俺は少しだけ笑った。
それも、すぐに消えた。


本当は、そうなるべきだったのだろう。
俺が、ミルダの前に現れたりしなければ。
あのとき、傘を渡しさえしなければ。



不意に、携帯が鳴り響き、俺は眼を開けた。
いつの間にか、ビールを四本も空けていた。頭が重い。
ちらりと時計をみる。もう10時になっていた。
俺はのろのろと座椅子から背を離し、机の上でやかましく自己主張する機械に手を伸ばした。
着信だ。液晶を確認する。発信者名に、サクヤ、と表示されている。
あまり人と話したい気分ではないが、彼女相手に無視をするわけにはいかない。
着信ボタンを押し、携帯を押し付けた俺の耳に、鈴が鳴るような声が滑り込んでくる。

「「夜分遅くに申し訳ありません。イノセンス学園のサクヤです。今、お時間よろしいでしょうか?」」

あぁ、いい声だ。俺はマイナスイオンを浴びている気分になった。

「大丈夫だ。何か用か?」

「「あ、はい、今週の土曜日に、教師間の懇親会があるのです。
短期講師の方たちの任期が今週で終わるので、講師さんの送別会も兼ねて」

いわゆる飲み会か。

「「今、参加表明を確認しているところなんです。リカルドさんはどうなさいます?
ご用がおありなら、無理にとは……」」

「いや、用はないが…」

オリフィエルも来るのだろうし、あの個性の強い教師たちと親交を深めるのもいいかもしれん。
しかし、俺は少し疲れていた。

「…すまんが、少し待ってくれるか。明日、必ず返事をする」

「「分かりました。あっ、それでですね、実は、ミルダくんから…」」

「なに?」

ミルダ?俺は思わず身構えた。

「「はい、あの……あっ!」」

不意に、彼女が大声を出した。
受話器の向こうにノイズが混じる。立ち上がったのだろう。

「「こら、チトセ!そのプリンは駄目、名前書いてあるでしょう。めっ!」」

「……チトセ?」

どこかで聞いたことがある名だ。
同時にあの、尊大な少女の顔を思い出して、俺の声は自然と渋くなっていた。

「「あっ……も、申し訳ありません。妹が私のプリ…いえ、勉強を教えてくれと…」」

受話器越しに慌てた気配を感じた。
おそらく赤面しているであろう彼女の顔を思い浮かべて和むより、
彼女の妹があのチトセか問い返すよりも、俺は気になることがあった。

「ミルダが、どうしたんだ?」

「「あっ、はい、それが……」」

サクヤが、一瞬、言葉を選ぶような間を置く。
嫌な予感がした。

「「今日、ミルダくんから電話があって、あなたと連絡が取りたいから、番号を教えて欲しいって。
勝手に教えるわけにはいきませんから、ついでに、そのことについてうかがっておこうと思いまして」」

「…いつのことだ?」

「「今日の、夕方です。そうですね、夕方の7時……ぐらいだったと思います」」

7時。ミルダを送り届けた、少し後のことだ。
俺は眉を寄せた。何を考えている?
自殺をする前に呪いの言葉でも告げるつもりじゃないだろうな。
冷や汗がでてきた。

「「あの…それで、どうします?」」

黙り込んだ俺に、気遣うような声で、サクヤが答えを促した。
彼女は彼女なりに、担任をしている生徒のことが気がかりなのだろう。
理由を聞くのは出すぎたことだと思い、自重しているだけのことだ。

どうしたものか。俺は悩んだ。
冷たいようだが、出来れば、ミルダと話などしたくない。
振った相手と数時間後に仲良く雑談できるほど図太い精神を、俺は持ち合わせていない。
何を言われるか考えるだけで気が重くなる。
だが、俺は一方で、ふざけるな、とも思っていた。
どこまで俺を振り回すつもりだ、あのガキは。素直に番号を教えると思っているのか。
甘えるのもいい加減にしろ。サクヤまで使って、姑息な真似を、と。

しかし、俺はサクヤに、こう答えていた。

「いい。教えてやってくれ」





サクヤとの通話を切って三十分後、俺の携帯は再び着信音を響かせた。
区別がつきやすいよう、登録していない番号からの着信は違う着メロが流れるように設定している。
そして今、俺は登録外番号からの着メロを、ベートーヴェンの「運命」に変えておいた。
古い携帯のちんけな音楽機構が、精一杯の重苦しい重低音を奏で、
俺の気持ちを引き締めてくれる。
数度深呼吸をしてから、携帯を手に取り、ゆっくり着信ボタンを押した。

「俺だ」

さあ、何を言い出す。何でも言ってみろ。何を言われても俺は動じないぞ。
今、風呂場で手首を切っているの、か?屋上のフェンスを乗り越えたところなの、か?
それとも、今あなたのマンションの一階にいるの、と来るか。
無言電話の可能性もある。しかし、想定済みだ。対処法も、この三十分で練った。

しかし、ミルダが言った言葉は、そのどれでもなかった。
無言でもなかった。

「「夜遅くにごめんなさい。あの、どうしても言いたいことがあって。
言い忘れちゃったから。今、時間大丈夫ですか?」」

拍子抜けするほど、ミルダの声はあっけらかんとしていた。
部屋中が練炭の煙で満たされている声ではない。

「…………」

「「あの、……先生?」」

「なんだ」

「「え?」」

「早く言え。聞いてやるから」

正直に言おう。俺は、今、死ぬほど安心していた。
全身から力が抜け落ちる。
手に握った”修羅場対処法メモ”がはらりと床に落ちた。

「「じゃあ、まず最初に。…今日は、本当にすみませんでした。
いきなりあんなこと言われても迷惑だって分かってたけど、
我慢できなかったし、言いたかったことだから。僕のほうは後悔してません」」

そう言うミルダの口調はずいぶんしっかりしていて、俺はまた安心した。
俺は床に落ちたメモを手に取り、”119番へ連絡する場合の手際”という項目に、
横線を引いておいた。

「別に、いい。もう済んだことだ」

「「うん、そうなんだけど、もしかしたら先生が心配してるんじゃないかと思って」」

図星だが、俺は、瞬間的にいらっとした。
図星だからこそかもしれない。

「するか。で、なんだ、お前はわざわざ、そのために電話してきたのか」

「「あ、違います、違います。あのですね、今日、言ったこと、あの、告白のことです。
あれなんですけど、実は、友達と一緒に考えたことなんです」」

「アニーミか?」

俺はミルダの言葉を聞き、怒るより前にあせっていた。
こいつは、俺に惚れているということを、友人に言いふらしていたのか。

「「イリアじゃないですよ!あの、マティウスです。彼女は、同性と付き合ってるから、
僕の気持ちも分かってくれると思って。誓って、他の人には言ってません」」

俺は、チトセという少女のことを思い出していた。
あれが付き合っている言っていいのかははなはだ疑問だが、他に女がいるのかもしれない。
サクヤといい、あの姉妹の恋愛運は呪われているらしい、と俺は思った。

「「でもね、あのとき言った言葉に、嘘はありません。少し、演出過剰だったかもしれないけど…。
それでも、あれも僕の、本心からの言葉です。まず、それを信じてください。
そうしないと、話が進まないんで」」

なぜお前は、そう微妙に態度がでかいんだ。

「それはいいが、お前、電話だとずいぶん偉そうだな」

「「目を見て話すと、緊張するから、そうなるのかも。不快なら、ごめんなさい。直します」」

少しだけ、申し訳なさそうな声音が返って来る。
俺は鼻を鳴らして、「別にいい」と言っておいた。

「「なら、このまま話しますね?…それでですね、あの後考えたんですけど、
僕はやっぱり、リカルド先生のことが好きです。……うん、好きです。とても」」

またそれか。

「……好き好きと言うがな、俺のどこが、そんなに好きなんだ。
俺は、お前に傘を渡して、彫刻を教えてやっただけだぞ」

電話口の声が、あかるく笑った。

「「十分だよ、それだけで。自分のこと、何も分かってないんだから」」

ミルダはそれから笑い続けた。
俺は、やっぱり気がおかしくなっているのかと思って、眉を寄せた。

「「ごめんなさい。でも、人を好きになることに、理由はいらないと思うんです。
好きって思った瞬間に、それは真実になるから。僕は、ほんとにそうだったから。
今日は、ちょっと…いや、かなり、かな…上滑りしちゃって、ごめんなさい。
顔を見ると、どうしても緊張して、ヘンなこと言っちゃうんだ。
だから、電話で許してください。今度は僕の言葉で、言います。
これで駄目なら諦めます。先生に、もう迷惑かけない」」

俺は、言ってみろ、とだけ告げた。

「「若い哲学かもしれないけど」」

と、ミルダが切り出した。

「「リカルド先生は、人生の中で、誰か一人でも幸せにしてみよう、って思いませんか?」」

俺は、言葉につまった。
今度はなんだ、こいつは。
宗教の勧誘ならお断りだ、と言いたかったが、
ミルダの声は真剣味に満ちていた。

「特に考えたことはないな」

ミルダが小さく笑う。

「「そっか、普通そうですよね。
僕も、先生のこと好きになって、そういうこと考えるようになったし。
でも、あのね、今このとき、、先生が僕の言葉にうなずいてくれるだけで、
僕はこのうえなく幸せになれるんです。それも、きっと一生」」

ミルダが、少し緊張したように息を震わせた。

「「僕は、あなたのことが好きです。大好きです。
でも、僕は子供だから、あなたを幸せにする自信は、全くありません。
僕は先生を、つらいことから守れないし、守れるとも思ってない。
でも、僕のほうはちょっと違うんです。
僕は、先生がそばにいてくれるだけで、ずっとがんばれます。
毎日毎日死にそうなくらい幸せになる自信があります。
先生が隣に居てくれるだけで、そばにいるだけで、僕は最高の気分になれるんです。
あなたがもし、僕と付き合ってくれたら、そのときは、必ず、幸せになります。
幸せでいつづけます。それだけは約束できるから。
それは、あなたのことが好きだからです。愛しているからです。
あなたの全部が大好きです。何度でも言います、大好きです」」

受話器越しの音に、雑音が入る。
頭を下げたのだろう。見えもしないのに。

「「他の誰のためとも言わない、僕のためだけに、僕と付き合ってください。
僕を幸せにしてください。お願いします!」」

ミルダが声高に叫んだ。
俺は、正直あきれていた。
馬鹿か?そんな告白の言葉があるか。普通逆だろう。
お前だけを幸せにするために自分と付き合えだと?俺の気持ちは全部無視か。
本当に、俺のことを何一つ考えていないんだな、このガキは。



だが、俺はそれらのことを言わなかった。
喉がふさがって、怒鳴り声が出そうにない。




「……三日後」

「「はい?」」

「三日後に、返事をする」

そう言って、俺は一方的に電話を切った。
電源も切って、机の上に携帯を放り投げる。
無造作に煙草を一本むしりとって、ライターをこすった。
しかし、うまくつかない。指がうまく動かなかった。
俺はライターを思い切り投げた。
100円のやすっぽいライターが部屋を横切り、壁にぶちあたる。
俺は壁から目を外し、缶ビールを手に取った。
顔に押し当てる。冷蔵庫から出してしばらく経った缶は、それでも冷たく感じた。
顔が、熱かった。温暖化のせいだ。今じゃ、冬でもそれなりにあたたかい。
俺はおそるおそる、胸に手をあててみた。
鼓動が早かった。

「……チッ」

俺は両手で机をつかみ、勢いよく角に頭を打ち付けた。
痛かったが、まだ心臓は鳴り響いていた。
ええい、うるさい。心臓が耳の横にあるような気がした。
今すぐ胸を切り開いて、砲丸投げのように、心臓を窓から放り投げたい気分だ。
今なら50メートル以上の記録が出せるに違いない。

(嘘だろう)

だが、嘘ではなかった。
俺は投げやりに布団に入りながら、半ば本気で、こう考えていた。
”腕に自信があるやつがいたら、今すぐ家に来て、俺を力いっぱい殴って欲しい”
二万円までなら出す。そんな、気分だった。











四日後、俺はミルダに、交際を受諾する旨を告げた。
一日超過してしまったことで、俺の懊悩の深さを察してもらいたい。

「勘違いするな」

俺は部屋の中で小躍りしているミルダの鼻先に指をつきつけた。

「俺はお前を好きじゃない。そのことに変わりはない。
お前が幸せになれると言うから、それも悪くないと思っただけだ。
愛想が尽きたらすぐに別れる。そのことを忘れるな」

ミルダは俺の腹に抱きつきながら、

「オーケイ、マイハニー」

と、にっこり笑った。

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