Gluttony10

10




”僕”はなくなり、部屋の中には僕と彼だけが残った。
彼が”僕”の全てを平らげた瞬間、僕の存在はおぼろげになった。
どことなく、体を動かすのが重く、体の末端の感覚がない。
けれど、いつかのように、足元から消え失せて行くような不安はなかった。
とても静かな気持ちだった。
不思議な感じだ。
僕は、これからどうなるんだろう、と思った。
彼は、一区切りついたら、あるべきところに帰る、と女の子に言っていた。
一区切りとは、”僕”を全て平らげることに他ならないだろう。
では、あるべきところ、とは?
彼のあるべきところは、どこなのだろうか。
グリゴリの里?それとももっと他のところ?
わからない。



彼もまた、静かな顔をしていた。
食事を終えてきれいに皿を片付け、本を並び替えていた。
のんびりとさえしていた。
彼は机の上のものをあらかた片すと、壁に立てかけてあるライフルを手にした。
見慣れた、半分がかたい木で出来たライフルだ。
彼は銃を持ったまま、食卓に戻った。
僕は、銃の整備でもするのだろうか、と思った。

けれど、銃は分解されることはなかった。
彼はライフルを縦に持つと、銃口を自分の口の中に突っ込んだ。
がちりと鋼を歯ではさんで、固定する。

僕は唐突な出来事に、呆気にとられていた。
彼は、ゆっくりと、さりげなく、トリガーに親指をかけた。


僕は、叫んでいた。

「やめて!」

でも、もう僕に口はない。僕の声は響かない。

「やめて!やめてよ!」

僕は彼に駆けつけようとした。
けれど、”僕”の足はもうない。
そして、僕の足は遅かった。ふわふわとして、とても走れない。
僕がやっと彼の元にたどり着いたとき、
彼の瞳には、神聖さすら宿っていた。
決意をかためた人間の瞳だった。僕は激しくふるえた。

「やめて!お願い、やめて!」

僕は、おぼつかない指先を伸ばした。
彼の手を掴んで、ライフルを跳ね飛ばしたかった。
けど、もう”僕”に手はない。僕の手は彼に触れない。



彼は何もしゃべらなかった。
最後の時に、彼は何も演説せず、手紙も書かず、酒も飲まずに、
ただ純粋に死んで行くつもりなのだ。
あまりに彼らしい。らしすぎて、僕はめまいがした。

視界の端で、トリガーにかかる親指が、ぴくりと動いた。
彼は静謐な表情で瞼を伏せ、引き金を引いた。









俺は静かなロッジの中で、ペンを走らせていた。
森の中に囲まれたここは、完全に、と言っていいほど、人気がない。
ミルダが最初に旅行をねだったとき、どうせなら観光地にしたらどうだ、と
持ちかけたのだが、やつが、二人きりがいいからと言い出したおかげで、
俺はこんな辺鄙な場所に、数週間も滞在を余儀なくされていた。

マムートの端にあるここで、俺とミルダはぞんぶんに羽を伸ばした。
しかし、流石にグリゴリたちのことが気がかりだった。
俺は、彼らに、もうしばらくしたら帰る旨の手紙を書いていた。

その途中、ミルダが散歩に誘ってきた。
森の中などどこを眺めても同じ風景しかないというのに、ミルダは楽しそうだ。
俺は、もうすぐ書き終えるから待っていろ、と言った。
しかしミルダは首を横に振り、

「先に行ってるよ。ちょっと散歩したいし。あ、でも、なるべく早く来てね」

と言い、さっさとロッジから出て行ってしまった。
俺は手紙を書き終えると、ライフルを手に取った。
森の中に出かけるのに武器を携帯する必要もないかと思ったが、
職業病なのだろうか、手元に銃がないとどうにも落ち着かない。


ふと、俺は、湖の中に落ちたことを思い出した。
溺れるミルダの露骨な演技にだまされてやったときのことだ。
あのときはたまたまライフルを持っていなかったからいいようなものを、
もしもろとも水の中に落ちていたら、駄目になっていただろう。

――忠告すべきだろうな

そのときは、わざとだまされてやったこともバラしてやろう。
あいつは驚いて、悔しがるだろう。
俺は知らぬうちに顔がゆるむのを感じていた。
少し大人気ないとも思えたが、あいつに仕返しできるのは愉快だ。

俺は山小屋から出て、ミルダのもとへ向かった。
どこをうろついているかは大体分かる。
ここ数週間で一番のお気に入りの、切り株のところにいるのだろう。
自然と、俺の足は速くなった。



果たして、ミルダの姿はすぐに見つけることが出来た。
切り株に腰かけて、俺の訪れを待つように足を揺らしている。
俺はわざとじらすように、ゆっくりと歩み寄った。
ミルダが俺に気付き、明るく笑った。

「リカルド」

弾んだ声が聞えた瞬間、ミルダの後ろに黒い影が見えた。
俺は反射的に銃を構えていた。
ミルダの目が見開かれたような気がするが、わからない。
ミルダの身長ほどもある、大きな狐だった。
いや、違う。狐の形をしたモンスターだ。
するどい爪をふりかぶり、今まさにミルダの背中に襲いかかろうとしている。

「ミルダ!」

俺は叫んでいた。
叫びながら、引き金を引いた。
一瞬後、ミルダが倒れた。
その後ろで、銃弾を受けた異形の獣が、ゆっくり地面に落ちた。


俺はミルダのもとへ駆け寄って、愕然とした。
傷跡が、背中をえぐって胸まで貫通していた。
すでに絶望的な量の血が、彼の体の下の枯れ葉に吸い込まれている。

――助からない

俺は一瞬で、そう感じた。
殴られたような衝撃が頭をおそう。

――助からない?馬鹿な。そんなはずないだろう。
ありえない。助かるはずだ。すぐに医者に持っていけば、なんとか、
いや、遠すぎる。ここからマムートまでどれほどかかる。遠すぎる。

ミルダの胸から、おびただしい量の血があふれている。
その顔は苦悶に歪んでいた。苦痛と死の恐怖におののいていた。

俺は震える手で、ミルダの手を握った。
それに気付いてなのか、ミルダが俺の手を握り返す。
弱弱しい力だった。彼の手から、どんどんぬくもりが失せていく。
息が出来なかった。

「リカルド」

不意に、ミルダが俺の名を呼んだ。
俺は何か言い返そうとしたが、何もいえなかった。
喉の奥で言葉がつまって、ろくにしゃべれない。
ミルダは苦しげな息を吐き出しながら、曖昧に唇を動かした。
何か、俺に伝えようとしている。

――なんだ、なにを言いたい。はっきりしゃべってくれ

俺はミルダの口元に顔を寄せて、聞き取ろうとした。
ぬるく、か細い息が耳元にかかる。

「僕を食べて」

俺は思わず、ミルダの顔を見た。
なんだって?なにを言ったんだ?
ミルダの口元が、少し笑った。

「全部、食べて…、残さずに…。……そうしたら、僕は…」

それきり言うと、ミルダは喋らなくなった。
開いたままの目が、ぴくりとも動かない。
俺は、確認するまでもなく、思った。

ミルダが死んだ。

信じられなかった。先ほどまで笑っていたのに。
こんなにあっけなく?
いや、人間はいつでも、あっけなく死ぬものだ。
こいつも例外ではなかっただけだ。
だが、と俺は思った。
なぜ、よりによって、と。

俺はミルダの亡骸を抱き締めた。
弱い心が、これは夢なのではないか、と思った。
俺は、この夢が早く覚めるように、ミルダの名前を叫び続けた。
しかし、どれほど経っても、目は覚めなかった。ミルダは答えなかった。
ふいに、夕焼けが沈み、あたりが闇につつまれる。
俺は、ようやく、これが現実なのだ、と実感した。

――僕が先に死んだら、僕を食べてくれるの?リカルドは

空白になった頭の中に、気楽そうな声がひびいた。
俺は、冗談じゃない、と思った。

ふざけるな。ドブ川に流すと言っただろう。気持ちの悪いことを言うな。
なぜなら、お前が俺より先に死ぬはずがないから。
そんなこと、ありえないだろう。あってはいけないだろうが。

――全部、食べて。残さずに

それが、お前の望みなのか。
お前が最後に望んだことは、それなのか。

「あぁ、あぁ…、分かった、…分かった。約束する…」

俺は、ミルダの背中に指をあてがった。
傷口を押さえる。全部、とミルダは言った。これ以上血を流させるわけにはいけない。

全部、俺が食ってやるのだから。

「全部…大丈夫だ。全部、食ってやるから…。安心しろ…」

俺はミルダの亡骸に誓った。
お前を守れなかった俺を許せとは言わない。
だから、お前の最後の望みを、遂行しよう。
それが俺に出来る、唯一のことなのだから。











僕は、真実を知った。






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