Gluttony9
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あれ以来、彼の様子は乱れることなく、そして来訪者――赤い髪の女の子――
も訪れることはなく、彼と”僕”と僕はおだやかな日々を過ごしていた。
僕は安心した。
なにしろ、彼が嘔吐する姿を見たのは、あれが初めてだ。
僕が”僕”と僕になる前からの記憶をひっくりかえしてみても、
あんな彼の姿は見たことがない。
僕は代わり映えのない日常に、深く感謝した。
彼が苦しんでいる姿を見るのは、なによりいやだったから。
僕は今日も、様々な調味料を駆使して”僕”を調理する彼の姿を眺めていた。
このごろ、毎日彼は”僕”の腸と骨しか食べていない。
僕は、飽きないのかな、と思ったけれど、彼は彼なりに規則性のようなもの持っているらしい。
それに、僕は最近になって気が付いた。
思えば、彼は胴体の後は足、腕、と交互に食事をしていた。
そして、”僕”の胴体を全て平らげた後は、残り少なくなった手足を胃に収めた。
少しずつ消費して、肉類はほとんど同時に摂取しおえるように計算していたのだ。
腸は手付かずだったけど、それが彼の守る規則性のためのものなのか、
ただ臭みを取るために漬け込んでいたためなのかはわからなかった。
そして、”僕”が残すところは、ほとんど頭部だけになっていた。
彼は今まで、一度も”僕”の頭部を食したことがない。
削ることもなく、”僕”の頭は、”僕”が僕であったころと同じ様相で収まっていた。
そして、彼は”僕”の内臓と骨を平らげた後、とうとう”僕”の頭部を取り出した。
まな板の上に”僕”の頭を乗せ、無感動な表情で、”僕”の眼窩にそのままの指を突っ込む。
こんなところまで彼に触られたのははじめてだ。”僕”はうれしかった。
彼は、黒目の部分が少し白濁した”僕”の眼球を抉り出すと、無造作に湯の中に放り入れた。
”僕”の二つの瞳がぐるぐると熱湯の上をまわりながら、ゆっくりと沈む。
”僕”の視界は、薄い膜が張ったようにおぼろげなものになった。
彼は鍋の中に塩を少しだけ加えると、かたわらに佇み、鍋の中で踊る”僕”をじっと眺めた。
彼は結局、その後も調味料や具材を加えることはなく、
”僕”の眼球が二つ入っただけのスープに仕上げた。
凝った料理を駆使する彼にしては珍しい、シンプルなものだ。
彼は目の部分が真っ暗な空洞になった”僕”の頭部を冷蔵庫に収めてから食卓につくと、
スープの中をつるりと泳ぐ”僕”の蒼い目をスプーンですくい上げた。
それを躊躇せずに口に含む。ぷちり、と”僕”は彼の歯の間ではじけた。
そして、彼は当然のようにゆっくりと、掌の中に何かを吐き出した。
”僕”の水晶体だった。
彼が指先で、こびりついたスープを拭う。
ガラスの欠片のような”僕”の一部が顔を出した。
僕はこのとき、人間の水晶体は本当に水晶みたいなんだ、とはじめて知った。
彼はもう一つの”僕”の目玉も噛み砕いて、同様に掌の中にガラスに似た欠片を吐き出した。
それをテーブルの上に大事そうに置いて、スープを無造作に口の中にかきこむ。
”彼”は食事を終えると、”僕”の欠片を手にとって立ち上がった。
キッチンまで行き、すり鉢の中に入った、太い棒を取り出す。
そして、布の上に”僕”の水晶体を置き、慎重に叩き潰しだした。
”僕”は何千何万の欠片になって、布の上に四散した。
彼は”僕”が粉状になるまで、辛抱強く手を動かした。
やがて、満足する出来になったのか、手を止める。
布の外にこぼれた”僕”の粉を人差し指ですくって、砂糖を舐めるようにその指先を舌ですくいとった。
”僕”たちは彼の舌の上から、流れに乗って、彼の喉を通り、胃の中に運ばれる。
彼は布を持ち上げて、顔の前で慎重に傾けた。
さらさらと、何億の”僕”らが彼の中に入り込む。
僕は彼の横で、その様子をただ眺めていた。
それから、彼はキッチンの上に飛び散った”僕”も丁寧に拾い上げて、飲み込んでくれた。
次はどこだろう。顔の肉は少ない。一日でなくなるだろう。
頭蓋を煮るのは時間がかかるけど、彼ならうまい方法できれいに食べてくれる。
――もうすぐ、終わりが来る
僕は思った。
そして、予感はその通りになった。
彼は次の日に”僕”の顔の肉をそぎ落とし、
数週間かけて”僕”の頭蓋を食べつくした。
残った脳みそは茹でて食べられた。これも二日とかからなかった。
そして、冷蔵庫はからになった。