Gluttony5






夕方近くになり、そろそろ”僕”が冷蔵庫のドアを開けられる瞬間を心待ちにする時間になって、
彼は急に身支度を始めだした。
垂らした髪を結って、コートを身に付ける。財布を拾い、コートの中に入れた。
そうして、あの見慣れた銃を肩に下げて、今にも出かけに行く風情だ。

”僕”は激しく動揺していた。
なぜ?今日は外食をするの?
彼は今まで一日たりとて、”僕”を口にしなかった日などないというのに。

僕もあせっていた。
彼がこの夕飯の時間に、”僕”を料理する儀式、そう儀式を外してしまえば、
なにか形の無い魔法のようなものが解けてしまう気がしていた。

「どこに行くの?夕飯は?」

僕は手袋を身に付ける彼のまわりをうろつきながら、何度も何度も問いかけた。
彼は僕のほうを見ようとせず――いや、見た。
彼は僕の向こうにあるドアを見ていた。

「待って!行かないで!」

僕は大きな声で叫んだ。
けれど彼は、僕をすぅっと通り過ぎて、ドアノブに手をかけた。
僕は泣きそうになった。

「やめて…」

僕は弱弱しく彼の袖をつかんだ。
しかし袖は僕の指先からするりと外れてしまい、
彼はあっさりとドアの向こうに去ってしまった。

夕焼けに染まる部屋の中、僕と”僕”はとりのこされた。





それから一時間もしない内に、彼は帰ってきた。
重そうな箱を肩にかけ、ひきずっている。
部屋の隅で膝を抱えていた僕は、床から飛び上がり、彼を出迎えた。
ドアを開けた彼の首に腕を絡ませて、頬にキスをする。
彼はきづかないけど、それでも僕は満足だった。

よかった、ちゃんと帰ってきてくれたんだ。

僕は安心したと同時に、不安にもなった。
彼が外で夕食を済ませてきていたらどうしよう。

そう思うと、僕の体が薄ぼんやりとゆらいだ。
指がうごかなくなって、すっと目の前が暗くなる。
僕は霧散し、消え入りそうな存在になる。
彼が毎日、あの儀式――料理――をしなくなったら、
僕はあっけなく散って、意識すらないもやになるだろう。
彼が窓を開けた瞬間、外へこぼれ出して、ただ吹きまわる風の一部になってしまうだろう。
僕は自分の足が消えかけているのに気付いた。
あっと思って、自分を保とうとするのだけれど、
消失は僕の膝上から腰にさしかかっていて、どうしようもない。
僕は瞼をとじた。

――大丈夫だ。全部食ってやるから。安心しろ

そうだ、彼はそう約束してくれたじゃないか。
”僕”が僕をはげます。僕は目を開いた。


僕がいたのは部屋の中ではなかった。


そこは森の中だった。血なまぐさいにおいが僕の鼻をつく。
あの日の森だ。夕陽に染まったオレンジ色の森。
僕が”僕”と僕になった場所と時間。

そこで、僕は痛みにあえいでいた。
喉の奥から血がせりあがってきて、息が出来ない。
胸からあふれた血が背中に流れ込んで、僕の背筋をあたためた。
けれど、僕はどんどん冷たくなっていた。

苦しい、痛い、苦しい、痛い、怖い

僕の視界に、見慣れた顔がとびこんできた。
彼だった。
顔が泣きそうに歪んでいる。こんな彼の顔は見たことがなかった。
なんでそんな顔をしているの?
僕は思った。思った瞬間、あぁ、と実感した。
耳に痛い銃声を思い出していた。

――彼が僕を殺したんだ

彼は僕の手を取って、しっかりしっかり握りこんだ。
彼の手は震えていた。僕は握り返そうとしたのだけれど、まったく力がはいらなかった。
僕はこころもとない口元を動かして、言葉をしぼりだした。

「リカルド」

彼の目が揺れて、じっと僕の顔をみつめた。
言葉につまっているようだった。
僕は彼の動揺がおかしくて、なぜか笑いそうになった。
僕はひゅーひゅーと息を吐き出しながら、何かを告げようとした。
彼が僕に顔を近づけて、それを聞き取ろうとする。

「僕を食べて」

彼の目の端から、一粒だけ涙が落ちた。

「全部、食べて…、残さずに…。……そうしたら、僕は…」

僕はそれ以上唇を動かせなかった。
僕は死んでいた。
彼が震える指で僕の体を抱き寄せた。彼の服が真っ赤に汚れる。
しばらくの間、彼は僕の体を揺すりながら、僕の名前を叫んでいた。
彼の悲痛な叫びが森の中に木霊する。
夕焼けが沈み、ふっとあたりが暗くなった。

「あぁ、あぁ…、分かった、…分かった。約束する…」

彼の指が、ぐっと、背中に貫通した傷跡を抑えた。
血は彼の指の間をぬってあふれ出す。
彼はもっと力をこめた。

「全部…大丈夫だ。全部、食ってやるから…。安心しろ…」

彼はいつまでも、僕の体を抱き締めていた。
僕は彼のとなりに立って、彼と、”僕”になった僕を見ていた。





僕の瞳は再び部屋の中を見渡していた。
彼は、冷蔵庫の下段を開き、小さくなってしまった氷を取り出していた。
そうして、あの大きな重そうな箱の蓋をあけた。
中に入っていたのは、きれいに四角い氷の塊だった。
彼は冷蔵庫に黙々と氷を詰め替えた。

そうか。彼は氷を取りにいっていたのだ。
昼に持ち歩いたら溶けてしまうので、夕方に出かけたのだろう。
僕は安堵した。”僕”は、ほら、杞憂だったでしょ、と告げた。

そうだ、彼は約束をしてくれた。
彼が約束をたがえるはずはない。
僕の足は再び感触を取り戻していた。



彼は湯気が立つスープをよそっていた。
”僕”の骨が煮込まれているスープだ。
最近入れられた”僕”はまだ溶けていなかったけれど、
彼は柔らかくなった”僕”を選んで器の中に流し込んだ。

彼はきっと、”僕”の何もかもを食べつくしてしまうだろう。
時間をかけて、ゆっくりと、一日一日消化してくれるだろう。
それは僕が望んだことだ。





――そうしたら、僕は…

あの時、僕は何を言おうとしていたんだっけ?





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