Gluttony6






食事の後、彼はいつになくぼうっとしていた。
思えば、ここ数日間――彼がステーキを作った後、独り言をつぶやいた日から――
彼は少しおかしかった。
どことなく動作が遅くて、食器を洗うとき手つきがのろい。
どこか具合が悪いのだろうか、と僕は心配になった。

ついに今日は、洗い物の最中に、皿を一つ割ってしまった。
彼は物を大事にするので、とても珍しいことだ。
そばで見ていた僕は、あっ、と声を上げて皿をつかもうとしたのだけれど、
僕の指先は皿に触れることは出来なかった。
床の上に粉々に砕け散った皿を、彼はしばらくじっと見下ろしていた。
だけれど、彼は破片を拾おうとはしなかった。
四散した破片から目を外すと、食器を洗うのを途中でやめ、書斎へひっこんでしまった。

彼の後を追って書斎に入ると、椅子に座っている彼が見えた。
僕は彼の肩口に頭をもたれかからせて、彼の横顔を眺める。
彼はやはり、ぼうっとしていた。
目を半ば伏せて、意識が違うことを思っていた。
僕は彼の考えていることが知りたくて、ぎゅっとその体を抱き締めてみたけど、
彼が何を想っているのかは分からなかった。


しばらくして、彼は不意に一冊の本を手に取った。
このごろ良く読んでいる、明るい臙脂色の背表紙の本だ。
以前僕が推測したとおりに、その本は料理の本だった。
特に肉料理について詳しく書いてあるらしく、事細かにレシピが、挿絵付きで記されている。
フリットやミートパイなど、”僕”に用いた調理法もいくつか見かけた。
そのページを見つけるたびに、僕と”僕”はなんとなく嬉しい気分になったけど、
彼の様子を考えると、うかうか喜ぶ気持ちにはなれなかった。

彼はいつもなら眠る時間になっても、ずっと本を眺め続けていた。
夢を見るのを厭うようにかたくなにベッドに入ろうとはしなかった。
僕はいよいよ心配になった。
彼は朝方になると、外出の準備をしてどこかへ出かけて行く。
夕方になって帰ってきたときに少し疲れたような顔をしているから、
多分なにか仕事をしてるんだろうと思う。
週に一回は家にいるから、そのときはたぶん休みなんだろう。
けれど、彼は二日前、一日中家に居た。休みはまだ先のはずだ。

――明日も早いのに。どうしたんだろう

僕は彼の体調が心配だった。
僕はずっと眠らなくても大丈夫だけれど、彼はそうじゃないはずだ。
彼のこのごろの様子を考えると、楽観できなかった。

「ねぇ、もう寝なよ」

僕は何度も彼にそう言った。
そして彼の肩を揺すろうとするのだけれど、彼の体は動かなかった。
でも、もう僕も分かっている。
僕の声は彼に届かないし、僕の体も彼に触れないんだってこと。

僕はやっぱり、”僕”を妬ましく思った。
”僕”は彼に触れてもらうことが出来る。
それどころか、彼の唇に、歯に触れて、彼の中に入ることが出来る。
彼に消化されて、彼の一部になるのも”僕”だ。

”僕”も僕の一部だってことは分かっているけれど、それでも、
僕だけ仲間はずれにされているみたいで、おもしろくない。
なにせ、彼の寝顔を一晩中眺めていられる特権は、僕にしかないのだ。

僕にだけ許された権利だ。

そのあいだ中は、”僕”と僕の立場が逆転して、”僕”が僕に嫉妬する。
僕は束の間の優越感を感じながら、彼の横に寝転がって、
彼の寝顔を眺めながら一晩過ごすのが楽しみだった。
僕はとにかく、早く彼に眠って欲しかった。

僕は、やっぱり届かないんだろうな、と思って、彼の耳元に口を寄せた。
常にピアスが付いている耳たぶに、がぶりと悪戯をして、あきらめ混じりに囁く。

「明日も仕事なんでしょ?」

けど、彼は僕の予想を裏切った。

「ミルダ」

僕は目を見開いた。
なぜ?僕の声が届いたのだろうか。
僕は一瞬、うれしさに何もかも忘れそうになった。
けど、すぐにそれがぬか喜びだとわかった。

「ミルダ…。ミルダ」

彼はつぶやいているだけだった。
本を読みながら、なんとはなしにその単語――ミルダ?なんだっけ、それ――
を口に出しているだけだ。

「ミルダ。…ルカ。ミルダ」

彼の独り言に、違う単語がまざった。
彼はルカ、と、もう一度、大事そうに口にした。
とてもやさしい言い方だった。



でも、僕はそれが何を意味するのか、わからなかった。
料理の単語だろうか?
違うような気がするけど、わからない。

「ルカ。……ルカ…か…」

ふと、彼が本から顔をあげ、薄暗い天井を見て、
小さく噴出すように笑った。
僕は彼の顔をのぞきこんで、不安になった。

彼の瞳は空白だった。空洞のようにからっぽで、何も見ていない。
ただ、唇の端に自嘲だけが滲んでいる。
彼は自分の中のなにかを嘲け笑い、貶めていた。

「ルカ」

不意に、その単語がぞっとするような空しさを持った。
彼は喉にひっかかるような笑いを漏らして、
また、ルカ、と空虚につぶやいた。
ミルダ、と笑みに震える声で囁いた。

僕はふるえた。






彼は朝方までその単語を呟き続けて、結局、眠らないまま仕事へ出かけた。

僕のふるえは、高くなった日が部屋を照らし出しても、やまなかった。


――ルカ、ミルダ。ルカ、ルカ、ミルダ、ルカ


耳の奥で、彼のつぶやく単語が絶え間なく反芻していた。






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