Gluttony7






僕はベッドの上で自分の体を抱えていた。
指先が冷たく、体の震えがとまらない。
昨夜、明け方まで彼が囁き続けた単語――ルカ、ミルダ、ルカ、ミルダ
それが、頭から離れない。
彼の呟きを思い出すたびに、僕のふるえはひどくなった。
僕は頭をかきむしった。
そして、ひたすら、彼の帰りを待った。





そしてこの日、驚くことに、彼は人を連れてやってきていた。
扉の向こうから、話し声が聞える。二つの足音が近づいてきていた。
僕は扉へ駆けつけようとした体勢のまま、動けなくなった。

「ゴメンね、いきなり訪ねちゃって」

「別に構わん」

「けどさ、なんでマムートなんかにいんの?
しかもこんな端っこのほうに家まで借りてさ」

「仕事に困らんから、な」

そう言いながら、彼が扉を開いた。

そこには、赤い髪の少女が立っていた。
利発な瞳に気が強そうな眉をしている。けれど、口元にかすかなやさしさがあった。
動きやすそうな服に身をつつんでいて、いかにも運動神経がよさそうだ。

僕は、彼女の姿に釘付けになった。
どしゃぶりの雨に打たれたように、懐かしさが僕の全身を濡らしていた。

彼は扉を片手で支えたまま、そっけなく、入れ、と言った。
その女の子は、ひそやかにおじゃまします、と呟いて、家の中に入ってきた。
どこか彼女らしくないな、と僕は思った。

彼女らしい?なぜ、そう思ったんだろう。
僕はこの子のことを知らないはずだ。初めて見たはずだ。

やにわに、僕は、”僕”のことを思い出した。
反射的に冷蔵庫のほうを見る。
彼女に、あの中を見られたらいけない気がしていた。
すべてが終わる。そんな予感がしてならない。
僕の心臓は、いつの間にか早鐘をきざんでいた。

けれど彼は、普段と変わらない様子で彼女をテーブルに案内した。
女の子はテーブルに付くと、黙って、指先を、落ち着き無くいじっている。
ふと、何かを思い立ったように、あ、と言って、顔を上げた。

「お茶いれよっか?キッチン…」

「俺がやる。いいから座ってろ」

彼は女の子を片手で制すと、素早く立ち上がった。
冷蔵庫の前にかがむと、平然とドアを開いた。
僕は慌てたけれど、彼の背のおかげで死角になっていて、女の子からは見えないようだ。
”僕”の目が彼の顔をとらえる。
彼はまるで、つまらないものを見るかのように、無表情だった。
ぱたんとドアを閉めて、女の子を見る。

「……すまん。茶を切らしていた。水でいいか」

彼女にそう問いかける彼の声は、淡々としていた。
女の子は、慌てて、顔の前でぶんぶんと手をふった。

「あっ、うん、なんでもいいよ。気ぃつかわせてゴメンね」

彼女の様子を見て、彼が鼻を鳴らして笑った。

「コーダがいたら、うるさく催促するのだろうがな」

「あ〜あいつねぇ。うるさいから置いてきたよ。ゆっくり話出来ないもん」

「言えている」

彼は珍しく、普通に笑っていた。懐かしい笑い方だ。
そして、彼女の前に水の入ったコップを置くと、
自分も杯を手にテーブルにつく。

「で、なんの用だ」

間をあけずに、やにわに彼が切り出した。

「へっ?」

「わざわざ訪ねて来たんだ。用件があるんだろう」

「あ〜…うん、まあね…。……やだ、なんか私らしくないな、もう」

彼女は小さく、曖昧に笑った。
それから、言いにくそうに口ごもる。
両手で杯を抱えて、目線を落としていた。

「ミルダのことか」

彼は、ごくさりげなく言った。
女の子が、ぱっと視線をあげる。

僕はまた震え出した。

――また、ミルダだ

女の子は、うん、とか細く答えて、うつむいた。

「なんか、ちょっと、突然すぎて、さ…。…まだ、信じられないんだよね」

こくり、と水を一口飲んで、彼の目を見る。

「……ちゃんと、分かってるはずだったのに。
やっぱ、心のどっかで、あいつがひょっこり顔をだしてくんじゃないとかさ、毎日思っちゃうんだ。
きっと、エルもそう。私には言わないけど……あの子、強がりだから」

「強がりは、きみのほうだよ」

僕は、ひとりでにそう言っていた。
でも、彼女は気が付かない。

「だって、私、お葬式であいつの顔も見てないのよ?信じられないっての。
だからさ、どっかで生きてんじゃないか、とか……。
……ゴメンね、そうじゃないってことは、リカルドが一番分かってんのに」

彼は何も言わなかった。
ただ、黙って、彼女の話を聞いていた。

「眠る前にあいつの顔が浮かんでくんの。だいたい私にいじられて泣いてんだけどさ。
んで、こんなことなら、もっと、あいつに優しくしてやれば、よかった、とか…。
思いだしたら…なんか…、…た…たまんなくって」

じっと彼女の言葉を聞いていた彼が、
彼女が大粒の涙をこぼしだしたのを見て、ゆっくり立ち上がった。
布を水桶の中に入れて、固く絞り、それを彼女に手渡す。
女の子は、小さく、ありがと、と告げて、目の下をぬぐった。
彼は席には戻らず、彼女のかたわらに立って、

「忘れろ」

と、言った。

「お前たちはまだ若い。未来がある。……あいつも、お前たちを縛ることなど望んではいない」

不意に、彼女が顔を上げた。
涙に濡れた目をきっと吊り上げて、眉を歪める。

「そんな風に…、そんな風に、割り切れないよ…!だって私…、約束したんだよ!?
絶対、あいつのこと守ってやるって…、…っ、約束、したのに…」

彼女の握った拳が、ふるえていた。

「なんで…、こんなことになっちゃったの?こんなのって、ないよ、あんまりだよ…。
私、自分が許せない。あいつのこと守れなかった自分が許せない。
なにより、こんな風にうじうじしてる自分が…、大っ嫌い…!」

その目は憎しみが浮かんでいたが、それは彼に対する憎しみではない。
彼女は自分を憎んでいた。

「アニーミ」

彼がなだめるように言った。

――アニーミ

また、聞き覚えの無い単語が聞えた。
けど、聞いたことがないはずなのに、なつかしかった。
僕は彼女のことを、もっと違った単語で呼んでいた気がする。

彼はすっと手を伸ばして、彼女の頭の上に掌を置いた。
そして、ゆっくりと自分の胸に、彼女の赤毛をひきよせる。
女の子は、彼の胸に顔をあてながら、しゃくりあげていた。

「……生きているものが縛られていては、魂はさまよい続けるしかない。
忘れるんだ。そして、自分を許せ。幸せになれ。誰もそれを責められはしない。
それが去ってしまった者への、せめてものはなむけになるからだ」

それに、と彼はわずかに笑った。

「お前の泣き顔なぞ、あいつが見たいと思うものか。
今ここにあいつがいれば、お前をどうにかして笑わせようと必死になるだろうよ。
……そういうやつだった。そうだろう?」

彼女は、彼の胸に顔を埋めながら、わんわんと泣き出した。
華奢な肩を震わせて、彼女の全てをあふれださせていた。

僕は、彼女の様子に、自分でも信じられないほどうろたえていた。
僕は彼女の震える背に手をあてて、一生懸命なでた。
でも、彼女は泣き止まなかった。

「泣かないで。……泣かないでよ」

僕は泣きたくなった。





しばらくして、やっと泣き止んだ彼女が、コップの水を煽った。
泣きすぎて喉が渇いたんだろう。目が真っ赤になっている。
少し照れたようにまばたきをして、元の席に戻った彼を見た。

「ありがとね」

「礼はいらん。思ったことを言っただけだ」

彼は素っ気無く言って、杯を傾けた。
彼女は、うん、とうなずいて、ずずっと鼻水をすすりあげた。

「やだな、私泣くと、鼻水でちゃうのよね。
…あ、リカルドは、これからどうすんの?…ずっとここにいる気?」

彼女が、ふっと思いついたように聞いた。
彼は、いや、と首を横に振り、

「”一区切りついたら”、俺も、あるべきところに帰るさ」

と、こともなく言った。
それから、立ち上がって、テーブルを指で軽く叩いた。

「さ、もう帰れ。今日中に船に乗らねばならんのだろう?」

「やだ、もうそんな時間?」

女の子はあわてて椅子から立ち上がって、ぱたぱたと扉の前まで来た。
彼も見送るために扉の前へ立つ。

「本当はもうちょっとゆっくりしたかったんだけど…学校が心配だしね。
次はエルとコーダも連れてくるよ。会いたがってたからさ。……あ、これ」

彼女が、握ったままの布を見た。
彼は口元をゆるめて、

「次に返してくれればいい。そのままだと、通行人が振り返るぞ。ひどい顔だ」

と、言った。僕は、あ、彼女が怒っちゃうよ、と思ったけれど、
予想に反して彼女は笑っていた。

「……うん。今日はほんとにありがと。…礼はいらん、って言わないでよ〜。
私が言いたいから言うんだから。それじゃっ、またね、リカルド」

彼は笑い返して、彼女の背が見えなくなる前に、ドアを閉めた。
深いため息を吐き出す。
彼はしばらく玄関口に佇んだままだった。
僕もずっと、ドアを眺めていた。



どれだけそうしていただろうか、不意に彼が動いた。
ゆっくり、静けさを保ったまま、冷蔵庫の前に屈む。
外はすっかり夕暮れに染まっていた。
そうだ、もう夕食の時間なんだ。
”僕”は、ずっとこのときを待ち焦がれていた。
けど、僕は、この大切な時間よりも、あの女の子のことが気になっていた。

――こんなつもりじゃなかったのに

不意に、そう思った。なんでこんなことになってしまったんだろう。
僕は自分が、なにか大きな間違いをしでかしたような気がしていた。


彼が冷蔵庫のドアを開ける。
なんとなく、もう”僕”はそこにいないような気がしていたのだけれど、
そんなことはなかった。いつも通りの――だいぶ量は減ったけど――
”僕”の姿がそこにはあった。

「忘れろ……か」

彼が”僕”の髪の毛をつまんで、つぶやいた。
静かな声をしていた。

「あと、少し。…もう少しだけ、待ってくれ」



その日の”僕”は、ハンバーグになった。
これで”僕”の胴体は、すべてなくなった。






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