監禁4




セレーナが去った後、俺はベッドに背をもたれて座り込んでいた。
セレーナは俺をいたぶり終えると、傷の手当てと同時に毎日真新しい清潔なシーツに変えて行くが、
今はベッドに登る気すら起きない。いや、指先を動かすのさえ億劫だ。
体のどこを動かしても、体中に刻まれた無数の火傷のどこかしらかが激痛を発した。
全身が熱を持ち、だるい。
セレーナがふるった焼きごての傷は、俺の気力を根こそぎ削いでいった。
ともあれ、今日ばかりは体力を温存しておこう、という気がわかない。
なにしろ、明日、セレーナは来ないのだ。

セレーナは皮膚の焼けはがれた俺の胸板に、薬で湿った布を押し付けながら、
”明日は留守にする”と言った。
朦朧とした意識の中で耳にしたことだが、確かにそう言った。
傷の手当てを終えると、セレーナは一日食い繋ぐには十分な食料を部屋に運び込み、
いい子にしていてくださいね、と言い置いて去っていった。
そのときは憔悴しきっていて頭が巡っていなかったが、
今思うと、これは喜ばしいことだった。
セレーナが来ない。一日だけでも。
明日一日だけは、俺は毎晩やってくる拷問のことを考えず、自由に過ごせるのだ。
相変わらず監禁は続いているのだから、喜ぶようなことではないとは分かる。
しかし、焼きごてを押し付けられた後だ。
一日でもあんな目に合わないことを考えると、俺はこの幸運を素直に受け入れられた。
ささやかな僥倖を噛み締めながら、俺は目を閉じた。



俺が目を開いたとき、いつの間にか朝になっていた。
とはいえ、窓がないので正確な時刻は分からない。もしかしたら昼を過ぎているかもしれない。
ベッドにもたれかかり、座ったまま眠っていたせいか、全身の間接が痛む。
だが、鞭傷と火傷の痛みの比ではない。
時間が経っても、傷の苦痛は衰えようがなかった。
”ルカ”が俺の膝頭に鼻先を近づけ、においを嗅いでいる。
細い髭がひくひくと揺れた。
”ルカ”は俺が監禁された初日、セレーナが持って来た猫だ。
”ルカ”を指差し、それはなんだと聞くと、セレーナはしれっと、拾ったの、と答えた。
彼女がかわいがるために置いているのかと思ったが、
セレーナは特に”ルカ”をかまうことはなかった。
朝食を運び込んだとき、たまに”ルカ”の尻尾を引っ張って、嫌がる様子を見て遊ぶぐらいだ。
毎日眺めているので分かりにくいが、”ルカ”の体格は前より大分しっかりして来たように思える。
俺がここにブチこまれてから、どれほどの時間がたっているのだろうか。
グリゴリたちはどうしているだろう。
やっとグリゴリ内部の解放反対派を口説き落として、これからという時だったのに。
指揮する者がいなくなった彼らが心配だった。
ここから出たら、俺は真っ先に彼らの元に戻らなければなるまい。
仕事が一段落付いたら、それから、俺は、レグヌム行きの船に乗って……。

――ミルダの卒業を祝ってやらなければ

”ルカ”を眺めながら、俺はしばしばミルダに想いを馳せていた。
卒業祝いは何がいいだろうか。
あいつの実家は金持ちだ。あらかたのものは両親から与えられているだろうから、
店売りのものを贈っても仕方が無い。それでもミルダは喜ぶだろうが――
……そうだな。
俺は笑った。
まず抱き締めてやろう。
ミルダは驚くだろう。その顔を眺めながら、俺は言ってやるのだ。
”卒業おめでとう、ミルダ”
ミルダは目を見開いたあと、照れくさそうに微笑む。頷き、ありがとう、とはにかんで言う。
俺はあいつの体温を腕に感じながら、目を閉じよう。
あの愛しい少年を大事に包みながら、ミルダのぬくもりだけを感じていよう。

――そのためにも。
なんとしても、この地下室から抜け出さなければならない。
そもそも、ここから抜け出すこと自体はそう難儀なことではないのだ。
刃物さえないが、足枷の鎖は長い。十分な自由を与えられている。
いくら俺が鎖に繋がれているとはいえ、セレーナは今や――身体的には――ただの女だ。
皿を持って両手が塞がっているとき、いや、シーツを変えている時でもいい。
いずれにせよ両手が塞がっているときだ。
背中を向けた瞬間、その首を鎖で締め上げるのは難しくない。殺さぬように加減をすることも。
皿を使ってもいい。あいつが食器を手に部屋に入った瞬間、俺はその手を素早く払い、皿を叩き落す。
砕けた破片の中で刃物の代わりになりそうなものを拾い上げ、
やつの首筋に突きつけるのに3秒とかからないだろう。
そのときにセレーナが足枷の鍵を持っているかは分からないが、
そうなってしまえば後はどうとでもなる。
脱出の機会はいつでもあった。時期を選ぶことすら出来るだろう。

どちらにせよ、この部屋の外がどういう状況なのかは分からないままだった。
セレーナの運んでくる飯はいつも暖かかったから、
この地下室以外にも部屋があることは確かだろう。
もしかしたら部屋の外にはセレーナの息のかかった人間がいるのかもしれない。
そいつらを気絶させ、脱出することが出来るだろうか。
そもそも、外へ飛び出したとして、俺は現在地も把握していない。どの方角に行けばいいかも分からない。
それにもし運良くテノス港に辿りついたとしても、その先はどうする。
アルベールもこの監禁に加担しているのだとしたら、港は10分で封鎖されるだろう。
俺は武装したテノスの兵士に囲まれ、連行される。雪道を引き立てられ、またこの地下室に蹴り入れられる。
今度は両足に枷が嵌められるかもしれない。ベッドに縛り付けられるかもしれない。
――いや、いっそのこと
手足を切られるかもな、と俺は思った。
数ヶ月前ならそんなことを考えもしなかったが、今は違った。
ありえないことではない。今のあのセレーナなら。

だが、俺は傭兵だ。ガキのころから苛烈な闘いを潜り抜けてきた。
100人の敵に取り囲まれたこともあった。心臓の上を撃ち抜かれたこともあった。それでも俺は生き残った。
それは転生者の力によるところもあるのだろうが、俺は自分の傭兵としての能力を信頼している。
手足が自由になれば、どうとでもなる気がした。
そうではないのかもしれない。俺が愚直に己の力を過信しているだけなのかもしれない。
現実は、部屋の外へ飛び出したところで取り押さえられ、手足を切られるのかもしれない。
だが、それでも俺は自分の力を信仰していた。
脱出は難しくない。
そう思うからこそ、俺はぎりぎりのところで冷静さを保っていられた。
そのときは、”ルカ”も連れて行こう。
小さな猫だ。懐の中にでも押し込んでおけば、それほど邪魔にならないだろう。


しかし、なぜセレーナがこんなことをするのかが気がかりだった。
セレーナがなにを思ってこんな行動に出ているのか知るまでは、
俺はここから出てはいけないような気がしていた。
この狭い地下室――俺と”ルカ”とセレーナだけの世界――から一旦出てしまったら、
その答えは永久につかめないような気がしてならなかった。
毎晩無慈悲に痛めつけられているのに、鞭傷の痛みに悶絶しているのに、
いいかげん、己の甘さに反吐が出そうだ。
いや、虫唾が走る。
この期に至って何も分からない己が殺したいほど憎い。
俺は何も分からない。この地下室の数ヶ月間に限って、俺はどうしようもなく無知だった。
ここがどこかも分からない。なぜこんな仕打ちを受けているのかも分からない。
セレーナの気持ちの一欠けらすらつかめない。
俺は何も分かっていない。
この地下室の中で、俺は”ルカ”と同等だ。
俺は、部屋の隅でちっぽけにうずくまる子猫同然の存在だった。
この世界の俺には、何の力もない。




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