監禁6





俺は一瞬、言われたことが理解できなかった。
セレーナが強張った俺の手にさりげなく触れて、辛抱強く同じ言葉を繰り返す。

――嘘だ。これは嘘だ。ぬか喜びする俺を突き落とそうとする策略だ。
この残酷な女は、体だけ痛めつけるのに飽きて、精神的にもいたぶろうとしているだけだ。

騙されるな。
俺はセレーナを見た。

セレーナは笑顔を浮かべていなかった。
しかし、その瞳には、灼熱の鉄を振りかざしたときのような残虐な光は浮かんでいなかった。
真剣な目をしている。

――本当なのか?本気で、俺を

「信じていただけました?」

「あ、あぁ…。ありがとう…」

思わず呟いた瞬間、カッ、と顔が熱くなった。
ありがとう?何を言っているんだ、俺は。
当たり前のことだろう。当然の権利だ。
そもそも俺がセレーナに痛めつけられていることが異常なのだ。
俺は感謝の気持ちを抱きかけていた己を恥じた。

にわかには信じられない。だが、ありがたかった。
もう晩飯の後の憂鬱な時間は訪れない。身を焼く痛みもない。
単純に、俺はそれが嬉しかった。
――ん?
そこで俺は、ふっとあることに思い至った。

「出してくれるのか?ここから」

そういうことだろう。
何の必然があったかは知らないが、セレーナは俺をいたぶるのを止めた。
つまりは俺を解放するつもりなのだ、と当然思った。
だが、セレーナは首を横に振った。

「いえ、それはまだ駄目なんです」

俺は落胆した。どういうことなんだ。
俺をいたぶるのはやめる、しかし解放はしない。
セレーナの真意がいよいよわからなくなった。
セレーナが、俺の指先を緩く握り締め、目を伏せる。

「ごめんなさい」

俺は驚いた。ごめんなさいだと?
ふざけるな。言うのが数ヶ月遅いんじゃないのか。
俺を散々痛めつけておいて、どの口で言うんだ、この女は――
だが、俺は皮肉もいえなかった。
伏せた青味ががった睫毛が震えている。俺は全身から力が抜けるのを感じていた。
セレーナが、俺の手の甲の上にもう片手も重ねる。
弱い、あえかな指先だった。

「リカルドさん、私――」

セレーナが顔を上げた瞬間、”ルカ”の姿が見えた。
いつの間にかテーブルに登り上げて、皿に顔を近づけ、スープを舐め取ろうとしている。
俺は反射的に、セレーナの言葉をさえぎって、ルカ、やめろ、と声に出していた。

「……ルカ……」

ぽつりとセレーナが呟いた。俺ははっと顔を上げる。
半ば伏せたままの目で、じっと”ルカ”を眺めていた。
その視線に不穏なものを感じ、俺はテーブルから”ルカ”を追い落とす。
雰囲気が変わっていた。わけがわからない内に、俺は心臓の鼓動を早めていた。

「セレ」

「その子の名前、ルカって言うんですか?」

セレーナの視線が、テーブルの下でうろつく”ルカ”の尻尾を見ていた。
その横顔からは、何の感情もうかがえない。
真剣でもないし、睫毛の先の弱さも見えなかった。
ただ無表情だった。
俺は何も喋れなかった。何を口に出しても、悪いほうにしかいかない予感がしていた。

「そう」

ふっと、吐息混じりにセレーナが呟いて、席を立つ。
皿も片付けず、さっさと部屋を出る。法衣が扉の向こうに消えた。
俺はいつの間にか、冷や汗で背を濡らしていた。
セレーナの無表情が頭から離れない。俺の内面は、静かな恐慌状態に陥っていた。

何か良くないことが起きる気がする。
説明しようのない予感があった。
椅子と腰が張り付いたように動けない。
今なら扉の鍵は開いている。鎖を引きちぎって逃げるべきだ。
どうやって壊せばいい?そうだ、皿だ、皿を割って、いや、無理だ、間に合わない。
扉が再び開いた。

戻ってきたセレーナの手には、鞭が握られていた。




「ぐぅッ……!アッ…!」

皮膚のほとんどを赤く腫れ上がらせた腕の上を、躊躇なく鞭が打った。
筋肉が割れ、このまま腕が腐り落ちてしまうのではないかと思った。
鞭が踊るたびに皮膚が血を噴く。

俺は体の前で枷をはめられ、座ったまま机の上に腕を置かされていた。
鞭から逃れようと身を引くと、首に絡みついた鎖が引かれ、喉仏を締め付ける。
セレーナの顔から、いつもの陶然とした笑みは消えていた。
気持ちが悪いほどの無表情で、淡々と俺の腕を引き裂く。

なぜだ。もうこんなことは止めにすると言ったじゃないか。
やはり俺をぬか喜びさせるための作戦だったのか。
ではあの言葉はなんだった。お前はごめんなさい、と呟いたじゃないか。
真剣な顔で。弱弱しい声で。
なんでなんだ。俺が”ルカ”の名を呼んだからか。
俺が猫にミルダの名前を名づけたからか。
ならば最初から名前をつけて渡せばよかっただろう。
好きに名前を付けていい、と言ったのはお前じゃないか。
理不尽だ。腕が痛い。指先の感覚がないが、痛みだけがあった。理不尽だ。




寒さを感じて、俺は目を開いた。意識を失っていたようだ。
腕が燃え上がるように熱い。髪を伝う水滴の筋を感じた。頭から水をかけられたらしい。
机の上は水浸しだった。俺が流した血がところどころ混ざって赤い。
水桶を脇に抱えながら、セレーナが机の上に四角い箱を置いた。
箱の中をセレーナの指先が手繰るたび、ちゃりちゃりと金属の音が聞える。
嫌な予感がした。

「まだあなたには、こういうのが必要みたいですね」

――あぁ

セレーナが箱から取り出したものを見て、絶望的な気持ちになる。
セレーナの指先が、細長い針をつまんでいた。
俺の掌を片手でおさえて、ゆっくり針の尖った先を近づける。

「やめろ……」

俺は声を絞って告げた。叫んだつもりだったが、実際は呟きしか喉からあふれてこなかった。
俺の右手の人差し指に、今にも触れんばかりに近づいた針を見て、俺は目を閉じた。

爪の間の柔らかい肉が引き裂かれた。固く閉じた目の裏に赤い閃光が走る。
麻痺した指先に、そこだけ苛烈な痛みが戻る。
掌全体が熱された鉄の棒に串刺しになっているような感覚。
暴れる俺の手首をがっちりと押さえつけ、再びセレーナが針を探る音がした。
今度は中指に灼熱の痛みが食い込む。薬指にも。小指にも。

俺は恥も外聞もなく泣き叫んだ。





俺は机に顔を伏せて、腕を伸ばしきっていた。
俺の指全てに針を突き刺し終えて、セレーナは再び腕に鞭を浴びせた。
鞭の先が指先の針にかすめるたび、気が狂いそうな痛みが俺を襲った。
体のどこも動かせない。何をしても痛みがあふれた。瞬きをするのすら怖い。
針が突き立って皮膚が剥がれた腕は、見る影がない有様だった。
赤く腫れ上がって針を生やした奇妙なオブジェのようなそれは、とても俺のものだとは思えない。
もう一生、元通りに手を動かせない気すらする。

かすんだ視界の中に、机の上に顎をもたれたセレーナの顔が見える。
指先で、額に張り付いた俺の髪をつまんで弄んでいる。
セレーナが、やにわに身を起こした。
俺の全身に怯えが走る。今やこの女の一挙手一投足がおそろしくてならない。
もうやめてくれ。目からどっと涙があふれた。
セレーナが、情けなく泣く俺の顔を見て小さく噴出した。

「ちょっとやりすぎたかなあ」

悪びれなく呟いたセレーナの唇が、俺の頬に押し当てられた。
柔らかな舌先で、俺の頬を舐ぶり、涙をすする。
鳥肌が立った。

「……でも大丈夫。もし壊れちゃったら」

ぴん、とセレーナの指先が、針を弾いた。
俺は声なく叫んだ。また頬が熱く濡れる。
セレーナは飽きることなく、俺の頬に舌を這わせていた。

「私がずっとそばにいます」





――リカルドさん、私…
何か言いたげだったセレーナの顔を思い出していた。
お前は何を言いたかったんだ。

お前は俺をどうしたいんだ。




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