監禁9






「今日は痛いことはなしです」

俺はセレーナの顔を見た。ゆっくり何度かまばたきをしながら、口を薄く開く。
今日のセレーナは、鞭を持っていなかった。代わりに、何か細々とした小物を腕に抱えている。

「ほんとです。今日はなし。何もしません」

信憑性がまるでないな、と俺は思った。
以前、もう止めにする、と告げた5分後には俺をいたぶっていたくせに。
いい加減、その口を閉じろ。お前の戯言は聞き飽きた。
だが、俺の内面はあせっていた。
どういうことだろうか。何の心変わりだろう。
俺はささいな変化を恐れた。少しずれてしまったら、どうなるかわからないのが怖い。

「代わりにやりたいことがありますから。ちょっと待ってくださいね。よいしょ」

セレーナが腕に抱えたものを机にがちゃがちゃと広げる。
その上を迷うようにセレーナの指先が泳いで、やがて細長い金属を選んだ。
小さな刃物だった。セレーナがそれを、俺に見せ付けるように左右にゆるく振る。
まさか、と俺はハッとした。
今までセレーナは、俺を傷つけるために刃物を用いたことはない。
鞭や焼きごてでは飽き足らず、ついに刃物を取り出して来たのだろうか。
俺の目に一瞬走った怯えを見て、セレーナが噴出す。

「今日はしないって言ったでしょう。お髭、ずいぶん伸びてきちゃったから」

気にもしていなかったが、確かに監禁されてから髭も剃っていない。
今やどこかの武将のように伸びた俺の髭を摘まんで、セレーナがくすりと笑った。

「さ、綺麗にしましょう。顎あげて」

セレーナが、つい、と俺の顎を指で引き上げる。
俺は大人しく、顎を上げたままにした。髭剃りが手際よく俺の髭を整えていく。
俺の胸元に落ちた髭を軽く払って、セレーナが短くなった髭を満足げに撫でた。

「次は髪の毛ね」

そう言うと、セレーナは俺から離れ水桶に手を浸す。水に浸けられた布を固く絞った。
それから俺の後ろに立ち、髪を湿った布で拭い、丁寧にくしで梳かして紐で結わえる。
見たことがある紐だった。確か、俺が使っていたものだ。セレーナが持っていたのか。
髪が引っ張られるたび、うなじのケロイド状の火傷が引き攣って不快だった。
しばらくして、セレーナが一仕事終えた風な息を付いた。
ぽん、と軽く俺の頭を叩く。

「はい、出来上がり。ふふ、なんだか久しぶりって感じですね」

セレーナが俺の顔の前に鏡を掲げる。
鏡の中には、髭を綺麗に整えて、前のように髪を結わえた俺が映っていた。

――ひどいツラだ

俺は鏡の中を、ためつすがめつ眺めた。
鏡の中の顔からは微塵の気力も感じられない、腑抜けた面をしていた。
元から良くない顔色を更に蒼白にして、痩せたせいか頬が細くなっていた。
唇を半開きにして、目に力が無い。しかし目の下の隈が濃く、胡乱な瞳とアンバランスだった。
戦場に出たら3秒で殺されるタイプの顔だ。

視線をテーブルの端に置かれた髭剃りに移す。
あまり鋭い刃ではないが、使いようによっては十分凶器になるだろう。

――今からでも遅くはない。あの髭剃りを奪って、セレーナの首筋につきつけるべきだ

俺に残ったかすかな理性が、そう訴える。
しかし、俺の体はそれを拒否した。
もしそんなことをして、セレーナが二度とこの部屋に来てくれなくなったらどうする。
俺は死ぬだろう。飯も食えず、たださびしさの中で、餓死するだろう。

「…て……れ」

「ん?」

セレーナが俺の口元に耳を近づける。

「ほどいてくれ」

セレーナが不満げに息をついた。
惜しむように、のろのろと指先が髪紐を解く。
ばさ、と背中に髪の毛が広がった。この地下室での俺に戻った。
今の俺にはこのほうがお似合いだ。あの腑抜けた面をした小僧を、俺だと思いたくはない。

不意に、セレーナが俺の頭を引き寄せた。
やわらかな胸に俺の横顔をひきこみ、ぎゅっと抱き締める。

「ねぇ、リカルドさん」

俺は目を上げた。俺を見下ろすセレーナの瞳と視線がかちあう。
何か、真剣な告白をするように、熱っぽい目をしていた。
――なんだろう。不吉なことを言わないでくれるといいが
だが、俺はセレーナの告白に拍子抜けした。

「アンジュ、って呼んでくれませんか?」

恥ずかしそうに口の端を持ち上げながら、やわらかい声で告げる。
はにかんだ口元に、年相応のかわいらしさがあった。

「アンジュ」

俺はあっさり口にした。セレーナの目が揺れる。

「もう一回」

「アンジュ」

セレーナはしつこく俺に名前を呼ばせた。
続けて、とセレーナは言って、それきり黙りこんだ。俺は淡々と、アンジュ、と呟き続けた。
セレーナの体はやわらかかった。黙って、俺の頭を胸に押し付けて、髪を撫でている。
心地よさに、俺はうとうととしだす。
この感覚は、何度か味わったことがある。
――リカルド、朝食のがしちゃうよ――
若い男の声が聞えた。誰だった?

「明日から、また、2,3日留守にします」

夢想に沈みかけていた俺の意識を引き戻したのは、セレーナの一言だった。
雷電に打たれたように、俺はぱっと顔を上げる。
一日家を空けることはあったが、それほど長い不在は初めてのことだった。
無意識に、情けなく顔が歪んでいた。

「い……」

いやだ、と言おうとしたのだが、声が出ない。
俺の目からぽろりと、涙が流れた。
それを指先で拭い取って、セレーナが弱く微笑む。

「大丈夫、必ず帰ってきますから。リカルドさんを置いて、どこかに行ったりしません。
だから、いい子にしていてくださいね?」

そうだ、2,3日の我慢だ。それぐらいなら、大丈夫だ。
セレーナは必ず帰ってくる。必ず。
俺を置いて行くはずがない。この世界にはセレーナがいなければならない。
俺とセレーナと”ルカ”がいなければ、この世界は成り立たない。
お前が作った世界だ。お前が壊すようなことをしないでくれ。
俺は祈った。




しかし、セレーナは一週間経っても帰ってこなかった。





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