後例 5
後例 5




 オレはやっぱり、そこはかとなくひまを持てあましていた。
 食事の後の片付けなどするはずもなく、飯を食って即座、あてがわれた角部屋にとって返してきた。そして、あいかわらずウィスキーをちびちび飲みながら、何分か何時間かは知れないが眠った。空腹を片付けたら、ションベンとクソをするか呑んで寝る以外に、オレにやることはないのだ。

 やることがないとはイコールひまだということで、しかし実際のところ、この屋敷を探索してみたら、いくらでもひまをつぶせそうなものがあるはずだった。

 最新ゲーム機はないだろうが、金持ちの家にありそうなもの――例えばスポーツジムのミニチュアみたいな部屋や、風呂場の隣にくっついているサウナや、映画の試写室を再現した場所や、それか、静かにクラシック音楽を聴くための防音完璧の地下室とか――とにかく、公共にあるべき施設を詰め込んだ部屋が。家主の趣味によるが、楽器もあるかもしれない。オレはオーケストラに使われるようなハイソな楽器いがいはかじったことがあるから、ひまをするということはないだろう。

 しかし、オレは、それらを探そうと思わなかった。

 オレにとっての世界とは、もはやこの角部屋とあの男がいるリビングとたまに便所であり、すなわち、ソファと色彩の狂った絵画、シャンデリアと猫足のテーブル、半端な螺旋階段と銀色のキッチン、そして便座のふたが自動で上がるトイレだった。
 それ以外の場所は、見えないボーダーが敷かれていて、オレが足を踏み入れるところは、1センチたりともない。

 オレの足は、産まれ落ちたとき玩具みたいにちゃちだったころからここまで成長し、大勢人をぶち殺せるための場所に行くために歩けるようになって、それが済んでしまえば、後はその狭い範囲、角部屋とリビングと便所を往復するためだけにあった。


 そのくせにオレは、ひまだひまだやることがないと頭の中で繰り返しながら、ふたたび螺旋の階段を降りる。
 ぴかぴかの階段は模様がなかったはずなのに、白と黒がモノクロームになっている場所を見つけた。足を止めて観察してみるとなんのことはない、天窓から差し込む陽がくっきりと明るいので、影が強調されているだけだった。
 世界に天窓という存在が付与された瞬間に、オレは今が昼という時間なんだと気づいた。

 天窓の真下を通ると、まぶしかった。空は透き通るように青い。しかし、切り取られた青さは、どこか空々しい。空だけに。と考えた瞬間、オレはなんてつまんねぇことを考えたんだろうと思った。
 きっと、無愛想な男と一つ屋根の下で暮らしているせいだ。オレはもっとお茶目な男なのよん、なんて考えるのと同時に、あぁオレの時間もきっと切り取られているんだろうなあと思った。窓から眺める空が切り取られているみたいに。
 
 この家で過ごす時間を夢の中のようだと考えたことがあった。今思うと、あれはあながち間違っていなかったんだと思う。大勢の時間から切り離されているという意味において、ここは異空間といってもさしつかえなかった。
 
 なら、ぽっかりと異空間に放り出されて宙ぶらりんなこの時を、元の流れに戻すタイミングは、誰が決めるものなんだろう。オレはほぼ無関心に近く思う。
 あの男だろうか。オレだろうか。それとも、まったく違うやつがGOサインを出すんだろうか。誰だっていいが、オレが飽きないうちにサインを出して欲しい。



 すぐに男を見つけた。
 やっぱり猫足のテーブルについていたが、その背が細かく動いている。なにか、手元でいじくっているらしい。
 オレは男のことを、この家の柱の一部かなにかであり、黙って座っていることが人生をかけた大仕事であると思っていたから、意外だった。

 男に近寄ってみる。男は振り返らない。オレも別に声をかけなかった。
 テーブルからあと十歩というところで、男がいじくっている物体が、どうやらチェス駒と呼ばれるものであることに気づいた。盤も駒も、一応黒色と白色の体裁を守ってはいるものの、天然の岩を切り出してきたようなヘンな色をしている。
 しかし、オレはチェスの道具というものを実際に見たこともなかったから、それがどう変わっているのか、はたまた別に変わっていないのかはよく分からないし、説明もできないが。

「ルールはよく知らん」

 男がとつぜん言った。オレは少しびっくりした。なにせ、男のほうからオレに話しかけてきたことなど、初めてだ。オレは部屋の中を見回した。アシハラのニンジャが潜んでいるんじゃない限り、人影はない。どうやら、というかやはり、オレに話しかけているらしかった。

「座れ」

 男がまたしゃべった。おそらく向かいに座れということだと思ったので、オレは男の真向かいの椅子まで歩いて座った。たぶん、オレはその間中、いきなり白煙を上げだした家電を見るような目で男を見ていたであろう。

 男は人を命令口調で座らせておいたにもかかわらず、なかなか三言目を発しなかった。がちゃがちゃチェス駒なるものを盤の上に置いたり降ろしたりしている。ルールを知らないと自分で言っていただけあって、その動きにはなんの規則性もないような気がした。
 オレはテーブルにひじをつきながら、五分か、十分か、三十分をすごし、あぁこいつはたぶん故障してしまったんだろうと判断して立ち上がりかけたころに、男が口を開いた。

「どんなゲームにもルールがある」

 しゃべりながら、チェスの駒を、たぶんバラバラに置き換える。
 
「例えばチェスは、キングが取られる状況を作り出されれば負けだ。ゲームは終わる。ゲームが終わったら駒を並べなおす」

「知ってるけど」

 男が何を言いたいかは分からなかったが、たいそう大雑把な勝敗条件を知っているという点ではオレと男は同レベルということは分かった。
 
 そして、この男はやはり、上流階級の人間ではないと確信した。
 金持ちなら、チェスのルールぐらい知ってるだろう。たとえ成金でも、金持ちになるぐらい頭がいいんだから。
 この発見はけっこう斬新なものなんじゃないかと思ったが、オレはその考えをあえて無視した。
 男が何を語るのか、オレに何を伝えようと話しているのか、ちょっとだけ興味があったからだ。

 男も、たぶんあえて、オレを無視して続けた。

「駒には役割がある。この駒、オレはなんというのか知らんがな、こいつは、こうしか動けないというルールがある。この駒が、石から削りだされてこの形になったとき、こいつはこう動くしかない、という属性を持つ。生み出されたときから、こいつの運命はあらかじめ決まっている」

 男は塔のような形の駒を持ち上げた。オレも男も、それがなんて名前の駒で、どんな役割なのか知らない。
 そんな無知なオレはというと、いきなり何を言い出すのだこいつと思い、また、この男はこんなに長い間しゃべることが出来たのかと驚き、そして、話の続きを聞くために口は挟まないでおいた。

「駒を動かすのは、当然プレイヤーだ。しかし、このプレイヤーという野郎はとんでもない曲者で、いつも黒のほうが負けるように仕向けている」

 男の声だけが、しんしんと積もる。今気づいたが、この男は、夜の雪みたいに静かにしゃべる。

「黒は必ず負ける。対戦が始まったときから、黒が負けることは決められている。八百長試合だ。だが、駒にも自我がある。当然、負けたくないと思う。だが、何百回、何億回と試合を繰り返そうが、黒の駒は必ず負ける。だが、負けないために、自意識の芽生えた駒は努力を積み重ねる。数え切れないほど負けて、盤上から降ろされて、再び並ばせられるたびに、経験という武器を手に、こう宣戦する」

 そこで男は、手元のチェスから、オレに視線をあげた。挑戦的な目だ。めずらしいと思った。

「プレイヤーっていうクソ野郎を、いつか絶対に、地べたに這いつくばらせてやるとな」

 男は黒の、たぶんキングとおぼしき駒を手に取り、盤上ではなく、机の上においた。
 だからオレは、白のほうのキングらしき駒を取った。意外と軽かった。手の中でぽんぽんとお手玉をして遊ぶ。

「そンで、プレイヤーは、どこのドイツ?」

 オレは、童話の教訓がなんだったのか聞く子供のような気持ちで聞いた。

「俺もわからん。たぶん、神か、因果か、執念といったものだろうな」

 想像してたより歯切れ悪い答えだったので、オレは男がもっと何か言うんだろうなと思ったが、男が口を開く気配はなかった。話は終わりらしい。
 オレは一応、体感時間で十分待ち、それでも男が話を再開するそぶりがなかったので、部屋にひっこむことにした。

 陽はもう落ちていて、階段のモノクロームはなくなっていた。もうじき夕方だろうと思う。

 階段を登りながら、オレは、なんとなく、いい話を聞いたなあと思った。
 なぜと言われてもうまく説明できないだろうが、とびきりでかいクソが出た朝のような気分だった。
 オレは白のキングを手の中でもてあそびながら、話し終えた後の男の顔を思い出す。
 確か、オレが脱糞した便器に、不慮の事故で手を突っ込んでしまったような、そんな顔をしていた。




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