夕方が来た。夕陽が出ている。 昼になろうと夜になろうと、オレがやること、つまりソファでウィスキーを舐めてそのまま睡眠をとってだらだらと時間を流していることに変わりはなかったが、一つだけ、その、飲んで、寝て、便所、というサイクルに加わったものがある。 男からかすめとったチェス駒の存在だ。白のキング。 オレは寝転がりながら、それを手の中で転がしたり、眺めたり、裏返した、舐めたり、かじったり、壁に叩きつけたりした。高そうなだけあって丈夫だったから、傷ひとつ付かなかった。 素足の親指で両側からチェス駒をはさんで上下させていると、急に男が入ってきた。 ノックもなく、いきなりだ。オレが全裸になって自慰でもしていたらどうするつもりだったのだろう。さすがの男も、目をそむけるなり顔をしかめるなりのリアクションを取っていたであろうが、オレは両足の指でチェス駒をつかんでいるだけで、そしてそれは男にとってはリアクションを取るに値しない行為だったらしい。 男はその肩に担いだショットガンのほうがまだ愛想がいいだろう表情で近寄ると、オレの足元、つまりはソファの上に数枚の灰色の紙きれを投げて寄越した。 オレはチェス駒をぽとりと落とし、体を起こした。紙きれを拾う。 「今日発行のものだ」 新聞紙だった。どうやら地方紙のようだ。見たことのない新聞社の名前が書いてある。そして、その下にでかでかと書き出された、『日中※の犯行、依然逃亡中』の見出し。 オレの記事だった。正確には、オレがやったことに対して書かれた記事。 切り離され、停滞した時の流れが、少し動いたような気がした。 男は黙っている。オレはしょうがないので、新聞を読む。 犯行は何時。凶器は銃。死者の数と名前、けが人の数と名前。 オレの顔写真も、名前も載っていなかった。とっくに身元は割れているはずだが、そこはメディアリテラシー※とやらを考慮したということだろうか。ただ、おおまかな外見的特長と、似ているのか似ていないのかよく分からないが、ルポタージュで作成されたらしきオレの似顔絵はあった。オレは西部劇に出てくる賞金首の張り紙を思い出した。 「オレはもっと男前ヨ?」 男は答えなかった。五分待っても返事がなく、また部屋から出て行く気配もないので、オレは記事の続きを読むことにした。 裏面をまくって、すぐに、男がなにを読ませたかったのかわかった。 表の見出しよりは少々控えめに、こうあった。 『被害者遺族の叫び』 ――父は、昼休みに外出したんです。今日はいつもと違う店でランチを取ったらと、私が言ったのです。なぜ、父がこんな目に合わなければならなかったのでしょうか? 私は一生、自分と犯人を責めさいなむでしょう。 ――この日から、私たちの幸せは砕け散りました。とうてい、許しておけるものではありません。私たち家族は、この日のことを、一日たりとも忘れません。 ――早く、一刻も早く、犯人が法で裁かれることを祈っています。 ――この手で犯人を殺す権利が与えられるなら、私は喜んで彼を殺すでしょう。あの子はまだ二十代だったのです。 ――悪魔の仕業としか思えません。 同じような文章が、一面を埋め尽くさん限り、ずらずらと書いてあった。 オレは全部に目を通し、欄外まで探し、続きがないことを確認すると、同じ文章を二度読み返した。その間中、眉ひとつ動かさなかった。 そっくり全部見終えた後、オレは男を見た。 男もオレを見ていた。たぶん、ずっと見ていたんだろう。 「ごめんなさい」 男は――うっすらと口を開いたように見えた。 「って言って欲しそうだから、言ってみたワケでして」 オレは、あはは、と声に出して笑った。 わざと、はっきり発声して、あはは、と。あははっ。小さい”つ”までつけるぐらいに。 もちろん男は笑わなかった。仮面のように無表情をはりつけている。けれど、オレには分かった。 男の体から、ものすごい速さでやる気が抜け落ちていくのを。 声にも態度にも出ないなにかが、男の心から失せていくのを。 男はたぶん、急速にわかってしまったんだろう。なにかを。 オレもまた急激に理解する。 この男は待っていたのだ。オレがだらだらとソファで飲んだくれてる間、あの猫足テーブルのあるリビングでこれを待っていた。静かに、たぶん一睡もしないでガラスのなくなった窓を眺めながら、新聞が発刊されるまで待っていた。オレにコレを見せて、見ているオレの姿を眺めて、形のないなにかを確認するために。 そのために、オレに飯を作り、作られ、たまに話をし、ショットガンを抱えながら柱みたいに黙って座っていた。 オレがすることはとうになかったが、これで、男のすることもなくなった。 夕陽はとうに沈んでいた。時間は少しずつ流れ出していた。切り取られた時間があるべき流れに帰ろうとしている。 男は立ち上がって、オレの手から新聞を奪い取り、黙って部屋から出て行った。 オレは再び一人になった部屋で、白のキングをくるりと回してみた。 本当にやることがなくなった。 ウィスキーはもう飲み飽きて同じ味だったので、次に眠って目が覚めたら、あるべき時間の流れにとっとと戻ってみようと唐突に思って、オレは目を閉じる。 |