目が覚めたので、終わらせに行こうと思った。 オレは目やにで張り付く瞼を無理やり引き剥がして、部屋の中を眺めた。 部屋の中も外もほんのりと明るい。ウィスキーグラスは乾いている。着たままのシャツの襟のごわつきは強くなっている。たぶん、今は朝という時間帯なんだろう。けっこう長い間眠っていたようだ。 オレは寝すぎで思い頭を三度叩き、ソファの足元に転がっている白のキングを拾った。 野球選手みたいなフォームで窓に投げる。狙い通りとはいかなかったが、一直線。窓ガラスに小さな穴が開き、蜘蛛の巣状のひびが入った。 オレはつかつかと窓まで近寄って、肘でガラスを叩き割った。ガラス片が雪の結晶みたいに散らばり、ニレの樹がガサガサと揺れる。 一度も開けずじまいだった窓から風が吹き込む。逆に、時間はどんどん外に流れ出している。 オレは屈みこみ、床に散らばったガラスを探った。大きくて小指ぐらいの大きさのものしかない。内側から外側へ割ったので当然のことだろうとも思う。 しょうがないので、一番尖っていてほどほどに大きい欠片を拾った。 オレは部屋から出た。今日はもう、朝食はいらない。 螺旋階段を降りる。天窓から差し込む光が、儚げなモノクロームを作っている。どこからが白で、どこからが黒かはっきりしない。 だから、境界線は、やっぱりもう曖昧なんだと思う。どちらにでも、すぐさま転ぶような、そんなときが今なんだと思う。 スタートを切るのは、オレか、男か、外の世界で流れている時間――この家以外の要素か。例えば警察が踏み込んでくるとか、そういったありがちなやつ。 いずれにせよ、長くないと思った。 元から氷の上に出来たような時間だった。 砕くのは簡単だし、なんの未練もない。 オレも男も、どうせ、もうやることがないのだ。 螺旋階段を三歩降りたところで、男がリビングのドアをくぐるのが見えた。 物音を聞きつけて、何事かと向かって来たということだろう。男も三歩階段をのぼって、オレたちは曖昧な日差し越しに眺め合う。 ショットガンの銃口は、最初からオレの額に据えられている。 「なんの真似だ」 男が聞く。わかっているくせにと思う。あんたの構えているソレはなんですか? 「いささか飽きがきましてねぇ。血のダンスパーティでもしようかなって思って、こうしてなけなしの凶器を片手に表敬訪問」 オレはガラス片をはさんだ指で、敬礼を飛ばす。男はすごく嫌そうな顔をしている。 あぁ、だだっこだなと思う。 こいつはようするに、自分から撃つのがいやなのだ。 もうすることもないと知っているくせに、それでも納得いかないと駄々をこねている。 終わりの引き金を引くのが嫌なのだ。 しょうがないので、オレは一歩階段を降りた。 「やっぱ、オレさ……」 言うふりをして、走り出した。男の目を見る。別に見つめあいたいわけじゃなくて、片目ぐらいは潰しといてやろうと思ったからだ。 男は別段、意表をつかれても、あせってもいなかった。オレのこんな感じは織り込み済みらしい。まったくかわいげがない。普通ビックリするところだろ? オレは男の目めがけて、ガラス片をつかんだ手を伸ばした。だが、三十センチと届かない内に、脳みそが揺れて、ガクンっと視界が下がった。 最初は撃たれたかと思ったが、そうじゃないらしい。目の前に男の足と、ショットガンの銃床が見えた。あれで殴ったらしく、オレは殴られてひざをついてしまったらしく、なおかつ脳震盪を起こしているらしく、そして男は、いまだにオレを撃つ踏ん切りがつかないらしい。 頭がくらくらしている内に、今度は肋骨にすさまじい痛みが走り、視界がぐるっと回った。男がオレの胸に足をかけ、踏みつけにしたのだ。ついでに背中を階段に打ち付けて、息が出来ない。 目の前が白と黒に旋転し、全部真っ白けになりかけたところで、男が言った。 「クソ野郎め。なぜ貴様につき合わされねばならん」 心底不快そうだった。だが、そんなのはこっちの台詞だ。 男が少し、踏みつけの力を弱めた。 オレの気管はヒュっと鳴った。言い返したいがしゃべれない。しかし、酸素が頭にまわったおかげで、視界の霧が取れてきた。 男は真上から光を浴びている。 どうやら、オレが踏みつけられているのは、あの天窓の下らしい。 男は顔を歪めている。眉間の皺がすごい。額の皮膚まで突っ張っている。そして、その額には……。 オレは思わず笑ってしまった。 あぁ、そうか、そうか、そうだったんか。 男が銃口をオレの頭に向ける。 黒々とした銃口の向こうに、男の顔が見える。 真上から光を浴びた額の、ちょうど中央に、おそらく、この角度からでしか見えない傷跡が浮かび上がっていた。 ――ちゃあんと目印、ついてんじゃん なんだ、治ってただけだったのか。 オレは不器用に笑った。踏みつけられているせいで、おまけに肋骨にヒビが行っているだろう痛みのせいで、自分で聞いても妙な声だった。口の端から泡が垂れる。ねっとりとしている。血が混ざっているらしい。痛ぇなこんちくしょう。 男の腕に力がこもるのが分かった。トリガーにかかった人差し指が、あともうちょっとのところまで来ていた。 オレはたぶん、音にすると、ぐぶぐぶぐぶ、といった感じで笑っていた。 男は陽を浴びている。黒い服も髪も、どことなく灰色がかって見える。 男の、目が、すっと細くなり、 目の中の光が消えた。 あぁ撃つ、と思った瞬間、実際に散弾が発射された、のだと思う。 映画じゃないんだから、弾が見えるわけないんだけれど。 オレは映画みたいに、一瞬のうちに考え、いろんなことを理解した。 男はオレに出会った時点で、試合に負けていたんだろう。 消化試合ですらない。駒を降ろすための清掃作業だった。 だからこの家で過ごす時間は、曖昧で、漠然で、他の世界の全てから切り離されていた。 戦績を考える。 おそらく、男の全敗だ。この先もずっとずっと、男の全敗だ。 だって、この先も、ずっと以前のオレだって、 普通の幸せなんて、分かりようがないんだもん。 思ったとたん、ものすごい衝撃が頭を揺さぶった。 脳が吹き飛んだなと、思ったか、思わない間、 たぶん、オレは即死した。 |