ルカの大冒険8
8
僕が嵐の訪れに気付いたのは、夕食をとって、うたたねをしていたときのことだった。
ここ数日イカダの制作にかかりきりだったので、流石に疲れて、休憩をしていた。
激しいスコールが屋根を叩く音が聞きながら、僕はまどろんでいた。聞きなれたものだ。
あの雨は前触れなくやってきて、数分降り続けた後去ってしまう。
そのことに熟知している集落の人々はもちろんのこと、僕もこの雨を気にしてはいなかった。
すぐに去って、雲ひとつ残さずに、再び夜空をのぞかせるものだと思っていた。
事実、今まではそのとおりになったのだから。
しかし、今日の雨は、数十分経っても立ち去ることはなかった。
僕はさすがに不思議に思い、身を起こした。
ドアのない玄関口が、泥を含んだ水に浸食され、ぬかるんでいた。
集落の玄関は、地面より少し高くつくってある。水が入り込むことなどないはずだった。
僕は立ち上がりながら、これはおかしいぞ、と、やっと気付いた。
ドアがわりの布をめくって、外へ飛び出した途端、弾丸のような雨粒が僕の体を叩く。
風が吹き荒れ、水を乗せて怒り狂っていて、一寸先の視界すらさだかでなかった。
潮を含んだ雨水が唇の中に入り込み、ほのかな塩味がした。
それは、この島に流れ着いたときの嵐の中で味わったものと同じだった。
あのときの嵐が、ふと気を変えて帰ってきたのではないか、とすら思えた。
僕は一瞬でずぶぬれになった。
集落の人々が作ってくれた服はむき出しの部分が多い。
毛皮の服はすぐに全身に水を含み、僕の肌は雨に殴られて赤くなった。
部屋の外では、男たちが何かを叫びながら、木材やわらを抱えて走り回っている。
彼らを呆然と眺める僕を見つけて、ザザの母親が駆けつけた。
僕と同様に全身を濡らしている。水を含んだ長い髪の毛が重く跳ねた。
彼女は僕の裸の肩を掴んで、何かを言いながら、家の中に押し戻した。
ザザの母親は、僕の言葉が分からないし、喋れない。
それでも懸命に僕に話しかけ、手振りで、家の中にいるように示した。
僕が部屋の中に座り込むと、きびしい顔で何事かを言った。
恐らく、絶対に外に出るな、と言ってるんだろう。
そして、ザザの母親は叫びながら、慌しく雨の中に舞い戻っていった。
「ザザ!ザザ!」
その単語は、僕にも分かった。紛れもない、彼女の娘の名前だ。
ザザを探しているのだろうか?
こんな嵐の中で、ザザはなにをしているんだ?
こんなときは、家にいるべきだろう。
一瞬後、僕ははっとした。
もしかして、僕を探して、あの浜辺に行ったのではないだろうか。
僕が海辺でイカダをいじっていると思って、心配して見に行ったのでは。
僕は立ち上がった。
彼女は泳ぎが得意だが、波に飲まれてしまったら、ひとたまりもないだろう。
そばにイカダがあるから、運良くつかまれば助かる可能性も…。
僕は一瞬にして蒼ざめた。
――イカダ。そうだ、イカダが流されてしまう!
僕は一目散に家から駆け出した。
背後で誰かが僕の名を叫んでいた気もするけど、風のせいでわからない。
僕ははだしで、湿原のようにぬかるんだ地面を踏み、走った。
僕はジャングルを抜け、海岸にたどりついた。
海は荒れ、怪物のように大きな波をくねらせて蠢いている。
舌に感じる潮の味が濃くなった。海水のせいで、まともに目を開けられない。
風は前から横から襲い掛かり、僕を地面に引き倒そうとする。
僕は顔を掌でかばい、足をふんばりながら、イカダを探し歩いた。
何週間も通った位置だ。大体の見当は付く。
果たして、イカダはすぐに見つかった。まだ流されていないようだ。
僕は安堵した。すぐに安全な場所に運ばなくては。
そう思った瞬間、イカダのそばに小柄な人影が立っているのに気付いた。
ザザだった。
驚くことに、彼女はイカダのそばで、じっと佇んでいるだけだった。
回収しようとしている素振りもない。
ただ黙って、動かずにイカダを見下ろしていた。
「ザザ!」
僕ははげしい風の音にあらがって叫んだ。
だが、強い風が僕の声を掻き消し、彼女に届かない。
僕は、砂が絡みつく足をもう2、3歩進ませて、
さっきより大きな声をあげた。
「ザザ!」
やっと彼女が僕の存在に気が付き、はっと顔を上げた。
その手には、小さな、陶器の欠片のようなものが握られている。
刃物だろうか。なぜ、刃物を?
一瞬、考えた僕の耳に、彼女の叫びが聞えた。
「ルゥカ!」
ザザが表情を変えて、僕の背後を指差している。
僕は振り返った。
そこには、僕の背丈の何十倍もある波がそびえ立っていた。
今にも僕を押しつぶそうと、ゆっくり頭を下にもたげている。
固まった僕の腕を、ザザがつかんだ。
次の瞬間、僕の全身に、ものすごい衝撃がたたきつけられた。
波に飲まれたのだ。あの、怪物のような高波に。
はげしい衝撃に、僕は海中でもがくことすらできなかった。
もがれた木々が、土が、僕らとともに、竜巻の中のように渦になってまわっている。
四肢が千切れそうだ。ミキサーの中のほうがもう少しましなのではないだろうか。
失神しそうになった僕の手を、誰かが握った。
――リカルド?
違う。と僕は一瞬後に考えを改めた。
ザザだ。彼女の小さな手が、僕を放すまいと懸命に握っている。
僕は彼女の手を握り返した。
そうしないと、僕は数秒で海の藻屑になってしまう、と思った。
そして、僕とザザは波の中に吸い込まれた。